ぼちぼちいこか(17)
歩きながらの妄想日記4(クリムト3)

伴 勇貴(1997年11月)

早足で歩くのが良いと言われるのだけれど、速く歩けない。どんどん後ろから来る人に抜かれる。それでもミュージカル劇場が完成した再開発地域の一角の植木鉢の赤や黄の花がまぶしい洒落しゃれたガラス張りのカフェになんとか辿たどり着いた。そこで一休みしようと思った。でも入れなかった。

ガラス越しに若いカップルと目が合い、好奇心を持って眺められていたように感じたのと、片手にジュース缶というスタイルだったからだ。人の往来が激しいのも、僕にはプレッシャーになった。

それで、ともかく、その前を通り過ぎることにした。そして雑踏を避け、少し離れたところで、缶ジュースの蓋を開け、歩きながらジュースを口に流し込んだ。すでに生ぬるくなっていた。でも、一口ごとに糖分が食道から胃を通って腸で吸収され、全身に回っていく手応えを感じ、やれやれだと思った。やや低血糖になり、かすみ霞が掛かっていた頭もスッキリし始めた。

しかし、まだ落ち着かない。ともかく次の横断歩道で人通りの少ない、道の反対側に移ろう。そうすれば歩きやすいし、小休止できる場所もあるだろう。こう目標を設定したら、ホッとした。それと同時に、またクリムトのことがしつっこく浮かんできた。歩きながら、思ったこと、感じたことを、そのまま書き出そうとすると本当にキリがない。

当時のウイーンの男性の典型的な生き方だった

ウイットフォードが著書の中で紹介していたクリムトに関する評論は極めて示唆にとんでいた。クリムトは「心が引き裂かれていた」という指摘が心に残った。でも、物足りなかった。クリムトにまつわる謎が彼の芸術の理解に重要であると指摘しているだけで、その謎が何であるかは明らかにされていなかったからだ。

たしかにウイットフォードは様々な角度から謎に迫っていた。その一つがクリムトの派手な女性関係だったのではないかという。クリムトがエミリーに向かう前、ある女性に結婚を迫った。しかし、クリムトの女性関係が問題になり、実現しなかった。その女性はクリムトの友人の再婚相手の連れ子で、クリムトの友人が義父となった訳だが、そのクリムトの友人ですら、クリムトの女性関係には不安を持ったからだという。

それはエミリーの場合も同じだったという。エミリーのフレーゲ家は「仕来り」を重んずる家系で、エミリーがクリムトと肉体的関係を持つことも、クリムトと結婚することも許さなかった。クリムトは自制するしかなかった。クリムトとエミリーとは義兄と義妹というよりは実質的に夫婦のようでありながら、肉体関係は持たないという意味で「まっとう」な生活を続け、クリムトは、陰で、その「はけ口」を様々な女性に求めたのだという。

しかし、これは当時のウイーンでは決して珍しいことではなかった。表面上は「まっとう」な生活しながら、その陰で別の生活を送る。それは当時のウイーンの中産階級の男性の普通のパターンだったという。何もクリムトが特別だったという訳ではないという。「抱きたい女と、愛せても抱きたいと思えない―――この二種類の女はまったく違う別の生き物だ」という考え方が、当時のウイーンの中産階級の社会では通用していたのだという。

別荘でエミリーと過ごすクリムトのところに彼の子供を生んで貧民窟で暮らす女性から金を無心する手紙が来て、クリムトはひどく動揺する。陰の生活がばれるのを恐れたからだ。そんな逸話から浮かび上がるクリムトは「熊のような性的エネルギー」を持つ特別な男のようには思えない。むしろ典型的な当時のウイーン社会の中産階級の男性に他ならないように思う。ヴォルグガンク・ゲオルグ・フィッシャー著「グスタフ・クリムトとエミリー・フレーゲ」を紹介しながら、ウイットフォードは、こんなことを書いていた。

当時の男性の「普通の生活」がクリムトには合っていなかった

一方、海野弘は、クリムトとエミリーとは、肉体関係はあったらしいが、それでも二人はそれぞれ自立し、パートナーという立場を一生守った。モラルが厳しい当時のウイーン社会で、こうした形の愛がはぐくまれたことは不思議だった――こんなふうに解説していた。

しかし、僕には、海野弘の見方は、当時のウイーン社会の中産階級の普通の男性の生き方という視点を持ち込むと、無理があるように思われる。と言って、ウイットフォードの説明も素直に受け入れることもできない。もし、当時のウイーンの中産階級の男性の普通の生活がクリムトに合っているならば――それを心の底から謳歌おうかしているのであれば、悲しげな表情をする理由がない。苦渋くじゅうに満ちた顔になる訳がない。どうしてもそう思えてならない。

そうではなくて、クリムトは、当時のウイーン社会の中産階級の男性が謳歌おうかし、女性も暗黙のうち許した「二重生活」は、意にそぐわないものだったのではないだろうか。愛する女と抱きたい女は同じでなければならない。それを別だとする当時の社会通念はぎまん欺瞞であると考えていたのではないだろうか。

だからクリムトは女性に不自由しなくても満たされなかった。クリムトはやはりエミリーと肉体的にも結ばれたかったのだろう。でも、それを持ち出せない。持ち出しても決して実現しないし、持ち出せばエミリーとのすべての関係が消滅してしまう。そうクリムトは苦渋くじゅうしていたのではないだろうか。

そもそもクリムトには女狂いという評判が立っていた。しかも、問題の少なくない家族の生活の面倒も見なければならない。それらが「きたり」を重んずるフレーゲ家のエミリーとの結婚に、どれだけ大きな障害になるかは、エミリーの前に結婚を考えた女性との一件で思い知らされていた。

それでエミリーとの関係をすべて消滅させる危険をおかさず、義兄と義妹という文句の付けられない「まっとう」な関係に甘んじたのではないだろうか。それでも女性との肉体関係なしでは生きられず、多くの女性と関係を持ってしまう。しかし、心はエミリーにあるため、それはただクリムトの悩みを増すだけだったということではないだろうか。

エミリーは「やり手の女性」だった

このように考えるのが自然だと僕は思う。そして、こうした性格のクリムトの苦渋くじゅうに追い打ちをかけたのがエミリーの性格だったと思う。

ちなみにクリムトがエメリーと出会う前に結婚を考えた女性というのは、後に音楽家・マーラーの夫人となり、さらに詩人ウェルフェルと結婚し、それ以外にもいろいろ浮き名を流したウイーンの生きた文化史のような女性である。彼女は、後々までクリムトと一緒になれなかったことをくや悔やみ、エミリーのことを「つまらない女」と言い、あの「つまらない女」がクリムトを駄目にしたという手紙までも残している。

しかし、総じてエミリーの評判は良い。趣味の良さと才能を持ち合わせた女性で、エミリーがいなければ、エミリーのひご庇護がなければ、クリムトは創作活動を再開できなかった。エミリーという心の安息所を得て、クリムトは作品の制作に没頭することができたという意見が大勢を占めている。

でも、エミリーの写真を見ると、僕はあまりエミリーに好感を覚えない。趣味の良さと才能を持ち合わせた女性だったのだろうけれど、それ以上に「やり手の女性」という感じが漂ってくる。何ごともそつなく「うまくやる」ことにたけた現実主義者で、クリムトの心のかっとう葛藤などには鈍感だったように思えてならない。鈍感というよりは、現実的な意味を持たないと思えば、無関心を決め込むことのできるタイプの女性だったように思う。

そんな「強さ」を持った女性だったと思う。さもなければ華やかな世紀末のウイーンで、モード・サロンを成功させることなどできなかったろう。ちなみに二十年あまりの親交があったにもかかわらず、二人の間に感情のこもった手紙の類はまったく残っていないという。

でも、エミリーはクリムトに本当に「忠実」だったという。一九三八年、クリムトの死の十八年後にエミリーがモード・サロンを閉店したときも、クリムトの部屋のドアには鍵がかけられたままで、イゼールや何百枚ものスケッチがそのまま残されていたという。そうした話を聞くとエミリーに同情してしまう。

しかし、エミリーが「クリムトは死ぬまで治らない極度の過敏症なの」と語ったと聞くと、やっぱりエミリーは、ある意味で鈍感な人だったと思いたくなる。クリムトの心の葛藤かっとうが自分との関係に由来しているなどとは、もしかすると夢にも考えなかったのではないだろうか。

もっとも、この鈍感さというか強さがなければ、エミリーは気むずかしいクリムトとやっていけなかったのかもしれない。そして頑強な外見とは裏腹にもろ脆い心のクリムトは、こうしたエミリーにひ 惹かれたのかもしれない。その矛盾の中でクリムトはもだ悶え、それが創作活動につながたのかもしれない。

フロイトだったら、どんな診断を下しただろう

ここまで考えて、何が本当にクリムトにとって良かったのか分からなくなり、行き詰まってしまった。もっとも、すべて推測で、真実は分かるすべがない。

そう言えば、当時のウイーンには多彩な人物が集まっていた。その中には精神分析という新しい領域を切り開いた心理学者のジグムント・フロイト(一八五六~一九三九年)もいた。精神科医フロイトの評判は高く、一九一〇年にはフロイトのもとに集まった人たちが国際精神分析協会を旗揚げしている。フロイトとクリムト(一八六二~一九一八年)はウイーンで同じ空気を吸っていた。そして多くの研究者が二人の同時代性に注目している。

海野弘は、クリムトの母は、生まれつき目が見えなかったけれども、陽気で音楽好きな人だったとしか書いていない。しかし、実は躁鬱病そううつびょうで、姉も精神障害だった。そしてクリムト自身も頑強な肉体を持っていたにもかかわらずゆううつしょう憂鬱症で、いつも重い病気、脳卒中になるのではとおそ畏れていたという。だから毎日、てつ亜鈴あれいで身体を鍛え、年一回は温泉で保養することも欠かさなかったのだという。

そんなクリムトだったから、評判を聞いて、フロイトを訪れたことがあったとしても不思議ではない。クリムトに関するフロイトの記録はないのだろうか。もし、発見されれば、僕の疑問も解決されるように思う。たしかマーラーに関するフロイトの記録は発見されているという。

クリムトなどのことを想い、僕の心はまだ訪れたことのないウイーンの街を時空を越えてさまよい続けていた。

グスタフ・クリムトは彫金師を父親に持ち、七人の子供の二番目としてスラム街で育った。小学校でデッサンの能力が認められ、一八七六年、十四歳のときに奨学金を貰って抜群の成績で、卒業すれば職業も地位も保証される工芸美術学校に入った。二歳年下のエルンスト・クリムトも続いて同校に入った。二人の評判はきわめて高かった。学校の推薦を受け、在学中から仕事を請け負って報酬が貰える身分になった。もう一人の学生を加えた三人で、一八七九年、クリムト十七歳のときに「芸術家カンパニー」を起こす。評判が評判を呼び、仕事が殺到さっとうし、大きなアトリエを構えるまでになる。二人は若くして名声と富を手にするそしてクリムト家は二人の兄弟の力でスラム街から脱出する。

この絶頂期の一八九二年に悲劇が襲う。グスタフ三十歳、エルンスト二十八歳の時だ。まず父親が亡くなり、その半年後にエルンストが重い風邪をこじらして他界する。二人の死によって、クリムトは躁鬱病そううつびょうの母と精神障害の姉と未婚の二人の妹たちを養う財政的負担を一身に負う。そして弟の未亡人――フレーゲ家のエミリーの姉――と、その幼い娘にも責任を負う。さらに何人もの女性との間に何人もの子供を作ったため、その生活費のためにも働かなければならなかった。

それで彼は母と未婚の二人の妹たちと一緒に住みながら、ほとんど旅行に出ることもなく、芸術家仲間が集まって知的な会話を楽しむカフェにも顔を出さず、毎日、長時間、制作に没頭する。作品にはかなりの金額を要求したけれど、暮らしぶりは慎ましく、彼は小さな部屋で、一人で寝ていた。

エミリーとクリムトは夫婦のようだったというけれど、これがウイーンでのクリムトの日常だった。エミリーとの交際も限られていた。エミリーとその家族でフレーゲ家の湖畔の別荘で過ごす数ヶ月だけが、クリムトが本当に生きていることを感謝した時のようだった。

こんなクリムトについて、フロイトならば、どんなアドバイスをしただろうか。それにクリムトが耳を傾けたらエミリーとの関係はどうなっただろうか。クリムトの作風はどうなっただろうか。興味は尽きない。

そんな一遍いっぺんに無理しなくったって良いんじゃない

脳卒中で倒れるのではというクリムトの予感は的中した。一九一八年一月十一日、脳卒中の発作で右半身が麻痺まひし、絵を描けなくなり、生きる意欲を喪失そうしつした。それから一ヶ月経たない二月六日午前六時、彼はインフルエンザで死亡した。五十六歳だった。彼をしたう若手の画家エゴン・シーレ(一八九〇~一九一八年)がウイーン総合病院の霊安室で描いたクリムトはひげを剃られ、ほおは落ちくぼみ、頑強な面影はなかった。このシーレも同じ年にインフルエンザでこの世を去った。二十八歳の若さだったという。

自分の健康に絶えず不安を持ち、それで相手を幸福にする責任を取る勇気を持てなかった。長年にわたり愛した女性、エミリーには自分の痛ましい死を看取る特権しか与えなかった。

こうもウイットフォードは説明しているが、クリムトの病床にエミリーが付き添っていたのかどうか定かではない。ちなみにエミリーは一八七二年生まれで、クリムトよりちょうど十歳若かった。亡くなったのはクリムトが死んでから三十四年も後の一九五二年、八十歳の時だった。エミリーは生涯独身であった。


歩いていることをすっかり忘れていた。横断歩道を横切り、反対側の歩道を歩いて、乃木坂までの途中まで来ていた。それで精一杯だった。気分も悪くなって、ビルの前の植え込みの柵に座り込んでしまった。朦朧もうろうとしてしまった。ふと気が付くと、行き交う人たちが僕のことをいぶかしげに見ている。こりゃまずい、と思って立ち上がった。

また歩こうと思った。でも足はもう動かなかった。

「もう歩けないよ」と独り言。すると「そんなに一遍に無理しなくたって良いんじゃない」と、「同行二人」が言う。早くタクシーを拾って乗った方が良いと勧める。うながされて手を上げた。すると、直ぐにタクシーがきて、止まってドアが開いた。やっとの思いで滑り込んだ。

「麻布十番」と行き先を告げて、フッとメーターを見ると初乗り三百四十円のタクシーである。ヘロヘロになりながらも、「やったね。ラッキー!」と心の中で叫んで、シートに深く身を沈めた。

一九九七年秋 伴 友貴