ぼちぼちいこか(16)
歩きながらの妄想日記3(クリムト2)

伴 勇貴(1997年11月)

「乃木坂まで歩かなくっちゃ」と、独り言を繰り返しながら一ツ木通りを地下鉄千代田線の赤坂駅に向かって歩いた。「この地下のカレー屋やイタリアレストランにはよく来た」「あの先のケーキ屋にも遅くまでやっていたのでよく入った」とか、目に入るもの一つ一つがなつかしかった。

でも、さっき見たクリムトが頭から離れなかった。ボチボチと歩きながら、また頭の中はクリムトに戻ってしまった。クリムトに関することが次から次へと湧いてくる。何か考え始めると、なかなか止まらなくなってしまうのは僕の困った性癖である。勤めていたころは影を潜めていたけれど、昔の性癖が戻ってきている。

自分では意識していなかったけれど、何十年ぶりで再会した中学時代と高校時代の、それもあまり親しくなかった多くの友人たち、とくに女性たちから異口同音に、それも期せずして「今は違うけど昔はまるで宇宙人みたいだった」と言われた。学校のことは飄々ひょうひょうとやり、いつも別のことを考えているようだったという。だから宇宙人みたいで近寄り難かったというのだ。

僕は、ただ読みたい本ややりたいことが一杯あっただけなのに。模型飛行機やラジオなど製作に熱中し、写真の撮影や現像に凝り、顕微鏡で覗く世界に魅せられ、化学実験に時を忘れ、挙げ句の果てには自作の燃料でロケットをとばして怒られる。空気銃やモデルガンを改造し、それで西部劇まがいに銃さばきを競ったり、山歩きや植物採集や化石や土器の採掘に出かたり、いくらでもやることがあった。

野獣のような体力を持った健康な人間である?

また悪い癖が出て横道にそれてしまった。話を本筋にもどそう。

いったい若い女性のファンたちは、どういう気持ちでクリムトを良いと思っているのだろう。クリムトについて、いったいどういうイメージを持っているのだろう。機会があれば聞いてみたいと思う。でも、どうも僕が感じている「クリムトも悪くはない」という感情とは異質のもののように思えてならない。

数年前に「クリムトも悪くはないな――」と思ってから僕の頭の中ではクリムトに対する好奇心がくすぶっていた。作品は作品として眺めればいい。普通はそうだ。しかし、クリムトは例外だった。五十六歳で亡くなったけれど、いったいどんな生活をしていたのだろう、晩年はどんな風に過ごしたのだろう。作品を眺めれば眺めるほど、こんなことが気になった。

それで、もう数ヶ月前になるだろうか、八重洲ブックセンターに出かけてクリムトに関する本を探した。そして「クリムト」(フランク・ウィットフォード著関根秀一・吉岡昌紀・片桐頼継・越智博美洋販出版一九九二年九月初版)と海野弘著「世紀末のスタイル」(美術公論社一九九三年九月初版)を見つけて買った。それを読んでクリムトにいっそう興味を憶えた。ちょうど、そんなところでクリムトの「接吻」と赤坂で再会したのである。

クリムトの作品を見て、弱々しい、消耗し、病んだ耽美たんび主義者というようなイメージを漠然ばくぜんと彼について持っていた。でも、こんな想像は、説明よりも何よりも、ウイットフォード著「クリムト」に掲載されていた、わずか四枚の写真でうち砕かれた。体は大きく頑丈で、太い首の上には額がはげ上がった、がっちりした頭がのっていた。いずれも足首まで隠れるような長いアラビア風の外套というかダブダブの女性のワンピースをまとっているような姿で写っていた。彼は、いつもこれ一枚で、この下には何も身に付けないのが普通だったという。

海野弘はC・M・ネーベハイ著「クリムト」(野村太郎訳美術公論社)のなかの説明を引用し、その上で「ここで浮かび上がってくるのは、野獣のような体力を持った健康な人間である。クリムトは農夫が畑を耕すように勤勉に制作をつづける。同時に彼は熊のような性的エネルギーを持っていたはずである。女性の肉体はつねに彼を引きつけてやまなかった。彼は性の世界を探求しつづける。それは、現在残っているもので三千枚は下らないといわれる彼のヌード・デッサンからうかがうことができるだろう」と書いていた。

そして、クリムトは弟の妻の妹のエミリー・フレーゲを深く愛したけれど、たくさんの女たちに囲まれた自由な生活を放棄するきになれなかった。アトリエはタブーで縛られたウイーンの中で、エロスの解放区だった。それでクリムトは結婚せず、一生を独身で過ごしたのではないだろうか――このように推測していた。

カード会社、アメリカン・エクスプレスの、いつも美しい写真で溢れている広報誌「IMPRESSION GOLD」の一九九七年十月号の「音楽都市ウイーンへ」でも次のように書かれていた。

クリムトは鉄亜鈴てつあれいを握りしめて、毎日のように体を鍛えていたという。

それは生きる喜びを発見するためであり、その美の恩恵を明晰めいせきな肉体でしっかりと受けとめる行為だった

心が引き裂かれ、愛の苦しみを味わっていた?

しかし、どうしても僕には、クリムトが野獣のような体力を生かし、たくさんの女たちに囲まれてエロスを謳歌していたとは思えなかった。彼の作品から漂ってくる雰囲気は、そんな単純なものではなかった。

写真がたくさん収録されているけれど、細かい活字の横書きで読みにくく、中途までしか読んでいなかったウイットフォード著の「クリムト」を引っぱり出して、改めて四枚の写真をじっくりと見直した。たしかに外見は頑強そのものである。しかし、アップの写真のクリムトの目はどこかうつろで苦渋に滲んでいる。神経質で弱々しい。猫を抱えて写っている、亡くなる六年前、五十歳のクリムトは他人に言えない心の寂しさを猫にいやしてもらっているように見える。ハーレムを謳歌している熊のような性的エネルギーの持ち主の雰囲気はない。

でも、その彼もエミリー・フレーゲと一緒にボート遊びしているときは平凡そのもので安堵感に包まれていた。もう一枚のエミリーとふざけあっているらしい写真からも、彼のすべての関心はエミリーにしか向いていないことは一目瞭然りょうぜんであった。いずれもクリムトが、まだ四十三歳ごろの写真である。

クリムトは三十五歳からは、ウイーンでは一緒に住まなかったけれど、毎年、夏には数ヶ月間をフレーゲ家の別荘で、エミリーを含むフレーゲ家の家族と一緒に過ごした。この親密な関係は彼が五十六歳でこの世を去るまで、つまり二十年あまりも続いたという。

それなに五十歳ごろの二枚の写真のクリムト――一人で椅子に座っている大写しのクリムト、それと猫を抱えて同じく一人で立っている全身が写っているクリムトは満たされているようには見えない。ハーレムを謳歌し、その生活を放棄できないためエミリーを深く愛してはいたけれど結婚しなかった。そんな説明はとても信じることができない苦渋に溢れた表情をしている。

海野弘の二人に関する説明は次のようであった。

クリムトとエミリーが知り合ったのは、彼女の姉と結婚したクリムトの弟が結婚してわずか十五ヶ月で死亡した一九八二年、クリムト三十歳の時からの五年の間だろう。そのころクリムトにはイタリアまで追っかけて結婚を迫った女性がいた。でも、女性の家族の反対にあって、その結婚は実現しなかった。クリムトにはエミリー以外の女性も同時に深く愛していた時期があった。

クリムトの顔がエミリーだけに向かったのは、クリムト三十五歳の一八九七年からである。以後、エミリーに守られながらクリムトは制作に没頭する。エミリーという安息所を得て、父親と弟の相次ぐ死で気落ちし、「非生産的だった五年間」から立ち直り、意欲的になり、いっそう自由奔放に表現するようになった。

クリムトとエミリーはそれぞれ自立しながら(エミリーなどフレーゲ三姉妹はウイーンでモードサロンを開き、成功を納めていた)、一生のパートナーであった。モラルについてやかましかった世紀末のウイーンで、このような愛の形がはぐくまれていたことは不思議だった。

海野弘の説明は話しとしては分かりやすい。でも、僕にはウイットフォード著「クリムト」の中で紹介されていた、クリムトの死の翌年、美術史家ハンス・ティーツエが発表した評論のほうが遙はるかに真実に迫っているように思えた。

クリムトの矛盾を理解しようと努めなければ、彼の深遠で謎に満ちた芸術に近づくことはできない。女性の身体の抗しがたい魔力が大きな位置を占める芸術家であるからには、いまだに明かされていないことにも触れなければならない。クリムトの野性的な力は、とりわけ女性に対しては強力だった。また、彼の容貌は土の匂い強く漂わせていた。しかし、心が引き裂かれているために、人生にためらいなく身を委ねることができないでいた。

彼は長きにわたってある女性とこの上なく親密であったが、そこでもまた、その愛情を認めるきることができなかった。彼の繊細極まりない数々の絵画に見られる、エロティックで神経衰弱に震えている部分には、極めて悲痛な体験がみなぎっているのではないだろうか。クリムトは相手を幸福にするという責任を引き受ける勇気を持たなかった。長年愛した女性には、自分の痛ましい死を看取る権利しか与えなかった。

しかし、クリムトが内心でいかに激しく、愛の痛みを味わっていたかは、彼の苦渋に満ちた目を見れば明らかである。(ハンス・ティーツエ)

こんなクリムトに関する本を読んで感じた戸惑いが浮かんできて、まったく心ここにあらずだった。危うく人にぶつかりそうになった。一ツ木通りが終わり、山王下から乃木坂へ抜ける道の横断歩道のところで信号待ちをしていた男性にぶつかりそうになった。照れくさかった。それで横断歩道を渡るのを止め、思わずそのまま右折して乃木坂に向かった。一刻も早く、その場を離れたかった。さっき自動販売機で買った右手のオレンジジュースの缶を左手に持ち替えて、左肩からずり落ちそうになったカバンを直し、何ごともなかったかのように歩いた。少し先の人通りの少ないところに行ったらジュースを飲もうと思った。急に疲れを覚えた。どこかで小休止しながらジュースを飲もう。もうそれしか頭になかった。

一九九七年秋 伴 友貴