ぼちぼちいこか  歩きながらの妄想日記 クリムト(1)  PDF 

伴 勇貴(1997年11月)

TBS前の一ツ木通りに出て、僕は忙しく行き交う人たちに圧倒されてオロオロした。自動車があふ溢れ、煉瓦で化粧された歩道にはサラリーマンやOLがひしめいていた。まだ、みすじ通りや田町通りなどには昔の面影が少しは残っていたが、ここは様子がすっかり変わっていた。本籍は赤坂、高輪に菩提寺があり、正真正銘の江戸っ子だと自認していたのに、僕はまったくの「お上りさん」になっていた。

自分の祖母は、血筋を辿ると有名な町火消し「め組の辰五郎」と関係する江戸商人の娘で、赤坂で青果商を切り回しながら11人もの子供を育てた気丈で働き者だった。しかし、 僕が中学生の頃にはもう85歳を超えて足が不自由となり、駅の階段は僕が背負って上がってやらなければ辛い身体になっていた。いつも「恥ずかしいね、悪いね」と言っておぶさる。腰が曲がり縮んで小さく軽くなった体の感触を背がしっかり憶えている。この血が僕にはながれている。そして僕自身も、基本的には学校も仕事場も一度も都心を離れたことがなくやってきているチャキチャキの江戸っ子なのに、この体たらくであった。

クリムトの「接吻」が無造作に飾ってあった

「なんてことだ!」とぼやいたものの、どうにもならない。ともかく乃木坂まで出ようと、早足ですれ違う人を気にしながら歩き始めた。そこで輸入物のランプや壺や壁掛けなどが雑多に並べられている店のショーウインドウに、無造作むぞうさに置かれていたクリムトの「接吻」を見つけた。19世紀末から20世紀にかけフランスを中心に流行した動植物の装飾化を特徴とする美術様式「新美術」――アール・ヌーヴォー(art nouveau)のオーストリアを代表する画家グスタフ・クリムト(Gustav Klimt:1862~1918年)の代表作である。

数年前にデパートで偶然見かけ、「クリムトも悪いものではないなあ――」と思い改めるようになってから、いつか手に入れようと考えていた絵である。飾ってあったクリムトの「接吻」はもちろん印刷で額縁代の値段だった。安かった。買おうか買うまいか、どうしようか迷ってショーウインドウの前で足が止まってしまった。

クリムトは、ふんだんに金箔きんぱくを使う技法とモザイク技法、それと男根のシルエットからさまざまな人物像をとりだすジクソー・パズルのような「形遊び」にこだわりながら、女性を甘美で官能的に、そしてきわめて装飾的に表現するのを得意とした画家である。その彼が円熟期の1907~1908年、45~46歳のころに描いた最も有名な作品が「接吻」である。

昔は僕はクリムトは好きではなかった。作品が放つ雰囲気が気に入らなかった。それとは理由は違うが、アール・ヌーヴォーを再評価しはじめた人たちのクリムト評も昔は必ずしも良くはなかった。

クリムトの装飾趣味は、少なくとも内容に関する限り、描かれたモチーフや人物とは特に関係はない。形式的に両者は一つに溶け合っているが、それには深い意味は認められない。こんな風に批評されてもいた。(「アール・ヌーヴォー」S・T・マドセン著 高橋秀爾・千束伸行訳 美術公論社 1983年3月初版)

クリムトが再び注目されるようになったのは、この10年あまりのことである。日本でも若い女性を中心に人気が高まった。バブルがはじけ、絵画ブームが今は昔となった中でクリムトは頑張っている。今年の1月から4月に新宿の安田火災東郷青児美術館で開催された「ウィーンの世紀末展~クリムトの夢、シーレーの愛~」には14万人もの人が来場した。これを皮切りに全国各地を巡回して展示会が開催されたが、どこも好評だったという。

現実の人や自然を美しい夢の世界に生まれ変わらせるのがクリムトの夢だ。クリムトの絵の中では人も自然も永遠の若さと美に包まれている。昔の絵では珍しくなかった金地やモザイクをクリムトはよく使った。これは一種の時代錯誤で、クリムトは現実逃避の効果を狙った。それは現実から白昼夢の世界に逃げ込むための魔法の杖のような役目を果たしている――アール・ヌーヴォーの研究者として知られる千束伸行・成城大学文学部教授はウィーン世紀末展の主催者でもある読売新聞紙上で、こんなことを語っていた。

「クリムトの夢」がいったい本当はなんだったかは僕には分からないけれど、たしかにクリムトの作品は、どこか白昼夢はくちゅうむというか幻想的というか、あるいは神秘的というか宗教的というか、独特の「気」を放っている。若いころの僕には、それが鼻に付いた。それに潜在的に官能を罪悪視するような感情も強く持っていたように思う。なにしろ大学時代でも「9時まで坊や」などとからかわれたような生活を送っていたのだから。その頃は月並みに、印象派のセザンヌPaul Cezanne :1839~1906とか、野獣派のデュフィRaoul Dufy :1877~1953とか、風景画のユトリロMaurice Utrillo : 1883~1995とかが良いと思っていた。

ところが多くの人の様々な死を見つめながら、自分自身も1年近く生死のはざま狭間をさまよう体験をし、さらに親父の死を契機に高輪にある浄土宗の菩提寺ぼだいじにも足を運ぶようになったこと、それに何よりも、すべてをいい思い出として受容できるような年齢になってきたことがあるのだろう。クリムトの作品は退廃的というより、生を心から謳歌したいという熱い心が込められたものだと思うようになってきた。アンコールワットの寺院を飾るなまめかしい女神デヴァターに魅せられるようになっていることと無関係ではあるまい。

今日ではなくて、今度、ゆっくり見て決めたら」

クリムトの「接吻」が飾ってあるショーウインドウの前で、1人こんな感慨にふけり、買うか買うまいか思案し続ける僕の脇を、邪魔だという顔付きで人が次から次へとすり抜けていく。この忙しい時間に何やっているんだ―――そんなふうに思っている気配をピリピリ感じる。ついさっき清水谷公園で見た疲れ切った表情の人は周りには見当たらない。終業時間前に、もう一仕事すまさなくてはと追われている感じの人たちばかりである。

しかも、ただ仕事で忙しいというふうでもない。人々の表情や目付きが昔と明らかに違う。張り切っているアジアの人たちに会う機会が多いが、彼らとも明らかに違う。職場環境が厳しさを増しているのか、閉塞感にさいなまされているのか、イライラ殺気立っている感じがする。伸び伸びとか、おおらかとかいう感じとはほど遠い。生を謳歌おうかしているなどという雰囲気はみじん微塵もない。もっとも、せつなてき刹那的な逃避を求め、「5時から男」や「5時から女」に変身することですでに頭が一杯になっている人たちも混じっているのかも知れないのだけれど………。

いずれにしても立ち止まって人の流れを邪魔し続けられる空気ではなかった。どうせすぐには売れないだろう。色の具合もちょっと今ひとつの感じだし、黒塗りの額縁もどうかと思うなどと、いろいろとなんくせ難癖をあげつらい、その場を離れようとした。でも、後ろ髪を引かれ、踏ん切りがつかなかった。

そんな時、またもやお遍路へんろさんの気持ちで歩いている僕の「同行どうぎょう二人ににん」の声が聞こえた。

「今日ではなくて、今度、ゆっくり見て決めたら」

「そう。今度にしょう。ゆっくり眺めてから決めればいいや」

そうつぶやいて、ようやく動きはじめた。間口が狭く奥行きの深い店の奥の方から、ジーと僕の様子をうかがっていた中年の男性の姿が消えた。店の人だったのだろう。前から歩いてきたOLが胡散臭そうな表情をあらわにして通り過ぎた。ヨロヨロしているし、身なりも変だし、無精ひげも汚らしく生やしている。無理もあるまい。

甘美とか官能とかとは縁遠いふうてい風体の老年の域に入ろうとする男が赤坂の一ツ木通りで、それもあまりパッとしない店に飾られているクリムトの「接吻」に見入っている。どうひいきめ贔屓目に見ても様にならない。だいたいクリムトが良いなんて言うのは女性で、それも若い女性に多いからだ。

一九九七年秋 伴 友貴