ぼちぼちいこか(14)
歩きながらの妄想日記1(赤坂界隈)

伴 勇貴(1997年11月)

モノにつ 憑かれたように歩き続けた。ともかく体力を付けなければということが頭にあった。手っ甲・きゃはん脚絆に「どうぎょうににん同行二人」と書かれたすげがさ菅笠のおへんろ遍路さん、そんな気分だった。「すげ菅」なんて言っても、もう知らない人が多いかも知れない。カヤツリグサの仲間で、茎の断面が三角形をした草だ。とても丈夫な草で、昔はあっちこっちに生えていて、それでひも紐などを作って遊んだものである。

靖国通りの市ヶ谷に近い「一口坂」から出発し、坂を上がって麹町まではいつもの道で、それから先を変えた。四ッ谷の駅前には出ずに、途中で左に入って紀尾井町から赤坂見附に向かった。スッキリと晴れ上がった初秋の午後だった。

「今日は赤坂見附に出てみたら――」

そういう声が聞こえたからだ。普通は四ツ谷まで出て、そこから左側に上智大学やニューオータニを見ながら坂をくだ下るのだけれども、たまには気分を変えてみるのも確かにいい。それで清水谷公園を突っ切る、急勾配だけれども、抜け道の近道を行くことにした。だらだらと長い紀尾井坂を登るのは耐えられない。でもこのルートなら紀尾井町の方からは下りがほとんどだから、きつくても何とかなると思ったからだ。

新しく出来た高層ビルの横を通って、急な階段を一歩一歩下りて裏口から清水谷公園に入った。表通りからとは様子がまったく違う。いきなり深い緑の中に放り込まれた。ポツンとあったベンチにセールスマンらしき風体の中年の男性が一人座っていた。疲れきった表情で物思いに耽っている。グレーの背広に白いワイシャツをきちんと着ている。でも、全身から生活の疲れがにじみ出ている。仕事で大変なんだ――世の中の厳しさを思い、同情したところ、相手も僕を認め、顔一杯にけげん怪訝な表情を浮かべた。

改めて僕の方がはるかに妙に映るに違いないと思った。僕を不審に思うと同時に哀れんでいる様子だった。それもそうだ。幅の広い肩紐のついた黒い布製のカバンを襷掛たすきかけにし、ダブダブのズボンに派手なシャツで、足を引きずるようにヨロヨロと歩いている。まだ夕暮れまでに時間のある平日の午後、都心のビジネス街、繁華街に近いところを定年に近い男が歩いている。「何者だろう」といぶかしがっているに違いない。おかしくなって顔をそむけてしまった。

すると大きな石碑が目に飛び込んできた。それで、あたかもそれが目当てだったかのように迷わず歩み寄った。清水谷公園は、学生時代のデモの解散場所の定番だった。だからよく来た。すぐ隣には、勤めだしてから出入りした料亭「福田屋」の別館「ふくでん」があるし、独立して初めて事務所を置いたのは通りを隔てて反対側のホテル・ニューオータニのタワーだった。それなのに、今までこんな石碑があることに気付かなかった。

明治十一年五月十四日、近くの紀尾井坂で暗殺された大久保おおくぼ利通としみち偉勲いくんを忍ぶ碑だった。暗殺から十数年経って、有志により建てられた高さ五メートルはあろうという立派なものである。鋭い展望と現実的で着実な漸進主義という点で、当時の官僚のなかでは秀逸しゅういつの人だった。でも、冷徹で非情と見られ、それが命取りになった。その大久保利通の碑が工事中のビルの脇にひっそりと立っていた。石碑は大きいけれど、注意を払う人はなさそうで、世の移り変わりの大きさを感じさせる。はかなさがあたりには漂っている。まだ百年あまりしか経っていないのに、この有り様である。本当に「諸行無常の響きあり………」である。

「あーら、今日はどちらへ」「あとでお寄りになって」

ニューオータニのタワーに、転職して事務所を開いたころは僕もまだ元気だった。それに何よりも無我夢中だった。「自由でいいな」などと言われたが、それまでより忙しかった。頻繁に打ち合わせで人と会わなければならないし、徹夜で報告書などを仕上げることも多かった。それでも快適で便利で、贅沢な都心のホテルをフルに活用した生活をエンジョイしていた。

喜んで人が訪ねてきてくれる。コーヒーでも食事でも、電話一本で持ってきてくれるし、ホテルの中には日本料理、中華料理、フランス料理の一流どころが店を構えているので、ちゃんとした会食もできる。時間を効率的に使えるし、言うことなしだった。店の人たちとも顔見知りになり、居心地は良かった。思い起こすと、いつの間にか、そんなことに気分を良くし、少し得意になっていたようである。さすがに、それを得意げに肩で風を切るような真似はしなかったけれど、やっぱり少し恥ずかしい。ほろ苦い思い出である。

今日の「健康歩き」は、すっかり「思い出歩き」に変わってしまった。そうなったとたん途端、歩くのがやっとだったのに歩くことが苦でなくなった。次々と、この十数年のことがよみが蘇ってくる中で苦痛が遠のいた。しかし、フラフラ歩いていることに変わりはなく、「同行二人」のつもりだけれど、行き交う人にはブツブツと一人でつぶやきながら歩いている姿しか見えないだろう。だから思わず振り返った人が多かったに違いない。でも、当人はいっこうに気にならない。公園を出て、夢遊病者のようにニューオータニから赤坂プリンス前を通り、弁慶橋へと向かった。


今の麻布十番に近い六本木のオフィスに落ち着くまで前は、ニューオータニの事務所が手狭になり、青山そして麹町のビルにそれぞれ数年ずつオフィスを置いたことがあった。いきなりUNIXワークステーションを使う分散処理システムの開発を始めたからだ。それらに成功できたは米ベンチャー企業の社長との出会によるところが大きかった。僕は彼が説明するソフトウェア・プラットフォームのコンセプトに感激し、彼は自分のコンセプトを分かるた初めての日本人に会ったと喜んだ。現実のビジネス交渉は厳しかったけれど、交渉の末、渋る米国の弁護士を相手に破格の条件のライセンス契約を認めさせた。

将来性のある技術だった。ところが日本の大手企業に持ち込んだものの理解して貰えず、彼は日本でのビジネスを諦めかけていた。僕は、それでその技術の権利を取得できた訳で、本当に幸運だった。もっとも現実のシステム開発は悪戦苦闘の連続だった。プラットホームだけではシステムは構築できない。みんなが徹夜するのが当たり前のような日々が続いた。この提携と、その頃の経験とが、その後の事業展開の基礎になった。

その頃は、よくこの界隈に出没した。ニューオータニの前の桜並木や千鳥が淵の桜、ニューオータニや赤坂プリンスのラウンジからの夜の東京は綺麗だった。うんと気張ってニューオータニの「トゥールダルジャン」でフランス料理を堪能したこともあった。若い頃から何かと教えてくれた「ふくでん」の名物女将おかみ辛辣しんらつな人物批評も健在だった。僕が転職したので、すごくビックリしていた。

そう言えばマスコミでは報じられなかったけれど、ニューオータニのオフィスビル建設中に、地中深く彫り込んだ側壁を支えていた鉄の「矢板」が崩れ、大騒ぎになった事件もあった。その模様はタワーにあった事務所からはまるみえだった。建設機械が落っこち、穴の底に転がっていた。堀の水が流れ込んでしまうのではないかと心配したものである。

ホテルの駐車場のおじさんも、客室係りの人たちも、僕の我が儘をよく聞いてくれた。パソコンやコピー機などの機材を部屋に持ち込むのを大目に見てくれ、徹夜すると言えば簡易ベッドも運び込んでくれた。そんな出来事が、とりとめもなく浮かんできた。この辺りに出没しなくなってから、まだ一年あまりしか経っていない。それなのに、すべて遠い昔の出来事のようだった。


気が付くと、赤坂見附の交差点近くまで来ていた。人がたくさんいる。後ろからくる人に次々と追い抜かれるし、前からは壁のように人が迫ってくる。明らかに僕は好奇心の対象になっている。場違いの存在なのだから仕方がない。麻布十番のようにのんびりとした気分では歩けない。気を取り直して横断歩道を渡り、地下鉄の赤坂見附の駅前に出た。そこで疲れを急に感じて、歩くのを止めるかどうか迷って人混みの中で立ちつくしてしまった。

「まだ大丈夫!」

また声がした。独り言に相づちを打ってくれたり、励ましてくれたりで、とても一人で歩いているとは思えない。その声にうながされ、再び歩き始めた。

田町通り、みすじ通り、一ツ木通り………。体力にまかせて飲み歩いていた頃は、ほとんど毎日、出没した。小料理屋やバーやクラブ、それに料亭にも頻繁に出入りしていた。宴席を掛け持ちし、それで午前一時に飲み仲間と赤坂東急ホテルのコーヒーハウスやバーで持ち合わせる。それから場所を変えて飲み直す。腹が減ってはラーメン屋などに飛び込む。そんなキチガイをやっていた。それでも翌日の仕事に響くようなことはなかった。病気になって一年あまり入院し、それを機会に転職を決意する前のことだった。

その頃は、赤坂の通りを歩いていれば、まず顔見知りに出会う。綺麗どころに「あーら、今日はどちらへ」「あとでお寄りになって」などと声を掛けられ、いい気になっていた。歳を重ねると、恥ずかしかったことや失敗したことが、いい想い出としてよみが蘇ってくるというけれど、こういうことはいつまで経っても恥ずかしい。すっかり色あせてセピア色の想い出になっているにもかかわらずだ。

「この横町の奥には、いい小料理屋があったはずだけど………」

「もしかしてお客さん………」

「………。うん、そうだよ」

「わあ――。やっぱりそうだ」

「でも、すっかりせちゃって――」

「ねえ――。女将おかみさん、お姉さん」

「珍しい人がきている。来て――、早く来て――」

もう大変な騒ぎである。病気になって、酒をやめ、すっかり生活を変えてから何年も経ったころの出来事である。ある料亭での宴席であった。そのぐらい若い頃は通っていたということだ。

出世払いということで、よもやまばなし四方山話をしてくれながら、よくただで飲み食いさせてくれた女将おかみたちがいた。そんな女将おかみたちの期待を見事に裏切ってしまった。それでなくても、バブルが始まってからというもの赤坂の雰囲気はどんどん変わってしまった。しかも、バブルが弾けたら老舗しにせの料亭は店仕舞みせじまいするし、女将おかみたちも代替わりするし、もうせきじつ昔日の面影はない。

「おい、こい」と、何かにつけては、有無を言わせずに若い僕を呼び出して、料亭からクラブまで引きずり回し、説教しながら飲ませてくれた経営者の人たちは、今はみんな他界してしまった。

手術後、「酒はやめました。宴席にも出ません」と宣言する僕を料亭に引っぱり出し、真顔で「オイ、俺も手術した」と言い、人払いし、突然、ワイシャツを脱いで手術の跡を見せた経営者もいた。そして「分かるか?」と聞く。とぼけても仕方がないので「その切り方だと肝臓だから、ひょっとすると肝臓癌ですか?」と答えると、「その通りだ。多分五年は持つまい。おまえと俺とどちらが長生きするかだ」。こう叫んで、ぐい飲みの酒をうまそうに干した。それから何回も宴席に招かれた。術後の経過が気になって仕方なかったけれど、この経営者は術後五年も経たないうちに亡くなってしまった。

その人と僕の目の前で若い芸子をめぐって、料亭の奥の部屋で本気で喧嘩をやった人も亡くなってしまった。老人二人が若い女性一人をめぐって子供のようにやりあっていた。取り合いの対象になっていた芸子は僕も知っている可愛いひと女だった。肝臓癌と分かって、馴染みの芸子に熱い思いを抱くようになったらしい。それを察し、奮い立たせるために演技したようだった。肝臓癌のことを一時でも忘れさせてやろうという気持ちからだということが僕には分かった。そんな形で優しさを示す人だった。その企みにのって、女性を本気で取り合っていた。気の置けない三人だけの無礼講の席だった。豪快で遊び上手で、歌が好きで女性との噂も絶えなかったけれど、魅力ある人だった。

上司とともに宴席に呼ばれて出席すると、僕だけ一人を「若いのだからオマエの車はないよ」などと言ってはいつも引き留め、そして二人になると「さあ、ゆっくりやろう」と夜中まで付き合わせた経営者も逝ってしまった。技術者出身で、世界を股にかける大会社に育て上げた大変な人だ。好奇心も食欲も性欲も並外れていた。議論も大好きで、ついには「オイ、今日はもうみんな帰っていい。これから二人で議論して飲み明かす」と、取り囲んでいたたくさんの芸者を追い払ってしまったこともあった。

「さあ、末広がりだ」と言って、芸子にぐい飲みを何十個も八の字の形に座敷に並べさせ、「それを飲み干したら、おまえの言い分を聞いてやる」という。平静を装い、次々と飲み干して席に戻り、一気に回ってくる酔いに耐えながら「あなたのやり方は間違っている。それなら僕も徹底的に頑張る」と生意気にも叫んだ。膳を隔てて険悪な空気が充満する。「なに、この若造!」腕まくりをして立ち上がるのを両側にいるお付きが押さえつける。そんな出会いから始まって、すっかり仲良くなって可愛がってもらった大会社の経営者も今はない。

「オイ、しる粉を食いにいこう」と、ビルの谷間のひな鄙びた店に連れ出され、小さな椅子に座る。「俺にはこういうゲスなものが本当は一番好きなんだ。ステーキやフランス料理なんか美味くもなんともない。でも、そうは言えないしな」というのが口癖だった人も帰らぬ人になってしまった。明晰で感が鋭く、そういう点では、いまだに、この人の右に出る経営者に出会わない。

挙げだしたらきりがない。とても普段の姿からは想像できなかったけれど、たくさんの経営者の人たちが、自分の子供のような年齢の僕を相手にしてくれて、人を語り、人生を語ってくれた。そして限りない人の可能性や暖かさなどと同時に、どうあがいても避けようもない人の孤独についても僕に教えてくれた。みんな魅力あふ溢れる人たちだった。みんな他界してしまったが、いまだに僕の心の中では、みんな生きている。

「本当に昔は馬鹿をやっていたよ」

「この横町の奥には、いい小料理屋があったはずだけれど――」

「あそこの角にあった黒塀は風情があってよかったのに」

「あれ、その先のビルにあった、よく通ったバーの看板がなくなっている」>/

「そこが親父と最期に来た天麩羅屋てんぷらやだ」

一人で歩いているのだけれど、とりとめもなく思い出を語りながら、まだ陽の高い赤坂の繁華街を案内して歩いている気分だった。いつの間にか田町通り、みすじ通りを横切って、TBSの前の一ツ木通りに出ていた。ここは人で混み合っていた。車が盛んに通るもので狭い歩道を歩かざるをえない。ボーとしていると人とぶつかってしまう。それでも、ついつい目は通りの左右の店に行く。もう完全に「お上りさん」だった。

一九九七年秋 伴 友貴