ぼちぼちいこか(13)
朽木の栃餅 赤坂・青山

伴 勇貴(1997年10月)

今年も暖冬かと思っていたら、急に明け方の冷え込みが厳しくなった。各地で初雪を記録したという。麻布十番を歩いていても自然に足早になっている。ちょっと目を離しているうちに、ケヤキの葉はちゃかっしょく茶褐色になり、カツラの葉は黄ばんでいた。何種類もの落ち葉が歩道に舞っていた。それと、道路工事のためだけとは思えない車の混み合いで、師走の感じがただよ漂いはじめてきた。

街路樹が色づき落葉するまでのいっときの味わい

ちょうど、この時期、赤坂から青山あたりは初夏とはまったく違ったおもむき趣を示す。たぶん近くに住んでいないと、なかなか味わえないだろう。街路樹が色づき、落葉するまでの、ほんのいっときのことで、それも一雨ひとあめくるとみそこ見損なってしまう。今年は駄目だった――そういうことになってしまう。見ごろという点では、桜の花よりもずっと短い。

久しぶりにハンドルを握ったら、自然に六本木トンネルをくぐり、左に曲がって青山霊園を抜け、青山通りに出ていた。そこから表参道に入り絵画館を回って再び青山通りに戻り、豊川稲荷を横目に赤坂見附の交差点から弁慶橋を渡る。そして紀尾井町から千鳥が淵へ出てイギリス大使館の前を通り、すぐに右に曲がって九段下へと向かっていた。ジャズのCDと、古いアメリカン・ポップスのテープを聴きながらのぜいたく贅沢な都心の想い出ドライブである。

青山霊園と弁慶橋から紀尾井町、それと千鳥が淵の桜並木、表参道のケヤキ並木、そして絵画館前のいちょうなみき銀杏並木――いずれもが、落葉までの、一雨までの、ほんのいっときのために微妙な色合いを競っていた。まだらに黄ばんだ桜並木、カサカサと音が聞こえてきそうな乾燥した茶褐色のケヤキ並木、光を浴びてキラキラと輝く銀杏並木――なぜかジャズやアメリカン・ポップスに合う。それを聴きながら、ゆっくりと車で走り抜ける心地よさはこたえられない。

空いたスペースがあれば車を止めて外に出る。

コンクリートや石畳いしだたみをうっすらとおお覆う落ち葉をそっと踏みしめ、その感触を楽しむ。奥武蔵や奥秩父の落ち葉が厚く積もった踏み分け道を歩くのとは違う。風で吹き飛ばされるまでの短い命の落ち葉のつぶやきがかすかに伝わってくる。まだ踏み砕かれていない、綺麗な落ち葉を見つけたら、そっと拾い上げる。

新緑のまばゆいころとか、桜が満開のころはともかく、こんな都心の晩秋をうまく伝える写真はみたことがない。無機質のレンズを通して機械光学的にフィルムに固定するのは難しいのだろう。ただ、景色だけの問題ではないからだ。「トンネルを抜けたら雪国だった」に通ずるものがある。こつぜん忽然と、そして期待にたがわず、色彩も、温度も、湿度も、空気の動きも振動も、まったく違う空間が目の前に現れる。しかも、それは天候や時間帯や曜日によっても違う。

だから、ある一瞬の断片を切り出すのではすまない。人の感性のなかで融合され、熟成されたものを、人の手によってキャンバスなり紙の上に再現する以外にはないのだろう。でも、それを楽しむためにも想像力なり、うちに秘める、ある種の共感が必要で、おのずと限界がある。空間と時間を共有し、その中に浸る以外に、この味わいを共にすることは難しいだろう。

赤坂に隣りあって青山がある

ところで赤坂の隣が青山というのも、考えて見れば絶妙な取り合わせである。その地名の「赤」と「青」、それと「坂」と「山」という対比だ。地名の由来は、赤坂はきっと赤土の坂が多かった所、その反対に、青山はきっと草や木が生い茂る山があったところなのだろう――漠然ばくぜんと、そんな風に小さい頃は思っていた。

今はすっかり舗装されて分からないけれど、昔は雨が降ると粘土まじりの赤土がぬかるんで、どうしようもない道がたくさんあった。雨の時の赤土の坂道は最悪だった。「どろんこ遊び」に夢中の子供のころはともかく、靴やズボンの汚れが気になるようになってからは雨を呪ったものだった。しかも、乾くと風で舞い上がり、ちょっとしたすき間からでも入り込む。何となくホコリぽいし、畳などもザラザラしてしまう。いくら雑巾で拭いても、風の強い日にはお手上げである。

だから、しっかりと「赤土」という言葉が頭に叩き込まれている。関東平野の台地や丘陵を覆う「関東ローム」と呼ばれる土である。「ローム」とは、砂、シルト(砂と粘土の中間の粒径のも)、粘土がほぼ同じ比率で混じった土で、「関東ローム」とは、富士山、箱根山、八ヶ岳、浅間山などの火山灰が降り積もって風化してできた「ローム」の総称である。

大学で火山灰の分析などもやったことも影響している。専門ではなかったが、「地文研」というクラブに入ったばかりか、鉱物とか土について知りたくて地学のゼミにも入った。結晶を抽出し、組成を分析し、火山灰の生い立ちなどを推測する作業は、謎解きをやっているようなもので興味は尽きなかった。あちらこちらのろとう露頭(地層や岩石が露出している場所)からサンプルを採取し、最後に鉱物顕微鏡で覗いたときの驚きは忘れられない。石英、長石、雲母うんも輝石きせきなどの結晶が創り出す世界は幻想的だった。さながら「万華鏡まんげきょう」であった。結晶の不思議な世界に取り付かれ、ついには夏休みを潰して、地学の本の執筆を手伝う羽目になった。報酬は小料理屋での美味しい日本酒とさかな肴だった。

また脱線してしまった。で、肝心の赤坂の地名の由来だが、僕の推測は半分だけ当たっていた。明治四十年に東京市役所が刊行した「東京案内」によれば、「赤坂の号、赤土の地なれば称する」という説と、現在の迎賓館のあたりに赤根山というのがあって「赤根山へ上る坂ゆへ此坂を赤坂といふ」という説が紹介されている。青山の地名の由来はまったく違っていた。徳川家康の譜代の重臣、みのぐんうえ美濃郡上藩主の青山忠成の広大な屋敷跡だったことからきているという(「江戸東京物語――山の手編」新潮社編)。

栃餅を油で揚げて蜂蜜で食べる

栃餅を二種類買ってもってきた。一つは評判の店のもの。もう一つは近くの農協のものだという。

「食べ比べてみてくれないかな。もし美味しかったら、それをまた送るから」

友人の寅さん(何となくやることなすことが、どこか似ているのでこう呼んでいるのだけれど、ご本人は心外らしい)に、こう言われて、冷凍保存していたという包みを受け取った。僕は以前、栃餅は旨くないと書いた。ところが、旨い栃餅があるという話を聞いたので、わざわざ休みの日に車で何時間もかけて買ってきたというのだ。その苦労もさることながら、僕には「また送るから――」という言葉も魅力的だった。

それに以心伝心いしんでんしんというヤツだろうか。少し前に愛読雑誌の「サライ」(九七年十一月二十日号)に、栃餅の特集記事があって、それを読んだら本当に美味しそうで、取り寄せて食べてみよう、まさにこう考えていたところであった。「サライ」で紹介されていたのは滋賀県くつき朽木村の栃餅で、寅さんが買ってきたのも、なんと、この朽木くつき村の栃餅であった。タイミングが良すぎた。

しかも滋賀県と言えば、青山の地名の由来となった青山忠成の郡上藩ぐじょうはんのあった美濃、いまの岐阜県の隣である。こじつけだ。そう言われてしまえばそれまでだけど、妙に身近に思ってしまった。

で、ともかく受け取って試食をやった。そして、その報告を兼ねて書きはじめたら、栃餅――トチノキ――マロニエ――街路樹へと想いが走り、ちょうど街路樹が色づいたところだったので、すっかり寄り道してしまった次第である。

「サライ」には、滋賀県高島郡朽木村くつきむら大字おおあざ雲洞谷の栃餅保存会(電話〇七四〇―三八―二七五六)によればということで、次のように書かれていた。

栃の実のアク抜きの極意は「水さらし」と「灰合わせ」である。皮をむいてから一週間、山の清流でさらす。それから熱湯をくぐらせて半ゆ 茹でし、それと倍量の灰とを木桶に入れて熱めの湯を注ぎ、棒で手早くかき混ぜる。すると苦みのもとのタンニンなどがぶくぶくと泡になる。一晩おいて、固まった灰の中から栃の実を掘り出す。これで、舌にピリピリとくる独特の風味を保ったままで、苦みがとれる。これと約三倍のもち米を混ぜて臼でついて作ったのが栃餅。

「少々の酸味と、コクのある独特の味と香り」

「なじみはないが、なつかしい気もする味」

「醤油よりあんこやハチミツなど甘いものとあう」

美しい写真もあって、読んでいてきょうみしんしん興味津々であった。それだけに寅さんから受け取った栃餅に対する期待は大きかった。焼くより油で揚げるほうがいい。こう聞いてきたというので、揚げたてのアツアツをハチミツで食べてみた。

まずくはないけれど、なんということはなかった。二種類とも大差なかった。茶褐色の餅である。でも、味はただの餅である。ヨモギの香りがしない色だけの草餅のようなものである。期待した「コクのある独特の味と香り」はない。アクを抜きすぎているのか、もち米の割合が多すぎるのではないだろうか。

バーボンも芋焼酎も、クサヤもホヤも、みんな独特の味と香りを持っている。これが嫌いな人には、どうしようもないが、好きな人に、それがこたえられない。だいたい好き嫌いなんて、そんなものである。クセが抜けすぎてしまっては身も蓋

ふたもない。

「栃餅なんて旨いものじゃない」

先日、大学の後輩二人を御馳走するところに寅さんが飛び入りした。「苦労して栃餅を手に入れて持ってきたのだから御馳走したっていいだろう。旨いものを食べよう。上海でエアラインが変わったため何時間も待たされたし、その時、エアラインから迷惑料として貰った差額があるじゃないか」――こう言い張るもので、三人を僕のとっておきの店に連れていった。自家製のからすみ、椀に入れて出す和風のムール貝のスープ、鯛の兜煮、ニンニクいっぱいのヒレ肉の陶板焼き、山盛りの万能ネギのみじん切りとカラシで食べる揚げだし豆腐、それと脂がのった鯖寿司――いずれも絶品である。

旨い、旨いを連発しながら、食べ物談義が弾み、話が栃餅に及んだ。すると土着の埼玉県人を自慢するYが「栃餅なんて旨いものじゃない」と言い放った。そう、僕が最初に栃餅を食べたのも、おく武蔵むさしからおく秩父ちちぶの山に登る拠点、埼玉県の栃本だった。もち米の量が少なく、モソモソし、それに苦みも香りも、はるかに強かった。三十年あまりも前のことである。Yのイメージする栃餅と僕のイメージする栃餅は似かよったものだった。

この栃餅と比べると、寅さんが買ってきた栃餅は上品すぎた。アクが抜けすぎているのか、栃の実の割合が少なすぎるのか、イメージしていた栃餅とは別物であった。考えようによっては、あの口当たりの悪い栃餅より劣ると思った。少なくとも、あのクセのある栃餅には、味に慣れると、病みつきになる人があっても不思議ではない可能性が秘められていた。

もっとも、寅さんが朽木くつき村で買ってきた栃餅が、「サライ」が取り上げている保存会のものなのかどうか定かではない。でも、もし、そうだとすれば、糸を引かない納豆、臭いのしないニンニク、ニンニク抜き餃子、サビ抜き寿司、果汁ブレンドの酎ハイ、香りの少ないセロリ、辛くない大根――こんなたぐい類と同じもので、そんなものを旨いと「サライ」が紹介したことが腹立たしい。

だいたい「無臭グッズ」が人気を呼ぶような時代だからなのだろうか。人でもアクのない人が増えている。こうした風潮は少し寂しい。ともかく寅さんには、どこで買ったのか再確認してもらって、もし「サライ」が紹介する店と違うのであれば、その栃餅を手に入れて送ってもらおうと思った。それで再度、栃餅に挑戦してみたいと思った。


ところで僕はよく知らなかったけれど、くつき朽木というところは長い歴史を持っていた。奈良時代には東大寺建築用の木材の供給基地の一つだった。また、かつては北陸と京都を結ぶ要地で、ここを通る街道は「鯖の道」と呼ばれた。しかし、いまでは人口は三千人以下で、過疎化かそかが著しいという。

ここを地盤とした朽木くちき一族の歴史にも目を見張るものがある。鎌倉時代には足利将軍家から厚い信頼を受け、何度か避難する足利将軍をかくまう。戦国時代には織田信長・豊臣秀吉に従う。しかし、関ヶ原の戦いでは東軍に付き、その子孫は旗本になったり、丹波福知山三万二千石の大名として徳川家に仕えたりする。そして明治時代に入ってからは子爵を授けられている。江戸後期の福知山藩主、朽木昌綱は蘭学者として有名で、前野良沢に学び、杉田玄白、大槻玄沢らの蘭学者、それとオランダ商館長らとも親交を深めていたという。

こんな歴史を持つ朽木くちきが、いまでは人口減少に悩み、栃餅で村おこしを企てるような時代になっている。朽木が栄えていたころの赤坂・青山・麻布などは、それこそ狸などがうろつく僻地へきちだった。しみじみ時代の変化を感じた。

一九九七年秋 伴 友貴