ぼちぼちいこか(12)
人の住む町ーー赤い靴のきみちゃん 麻布十番

伴 勇貴(1997年11月)

同じ麻布十番をうろうろしていても、ジャーナリストのたかのはじめ高野孟と僕とでは出没するところが少し違う。「鳥居坂とりいざか」を下って「十番温泉」から「暗闇坂くらやみざか」へ抜ける通りから六本木よりの一帯に高野のお気に入りというかひいき贔屓にする小料理屋などが集中している。この中には蕎麦そば屋の「更科さらしな堀井ほりい」もある。もっとも彼は、この間から、「更科さらしな堀井ほりい」も良いけれど、上には上があると言い出している。

詳しいことは分からないけれど、いざこざがあって飛び出していった嫁がホンマモノの蕎麦を自由が丘の方で食べさせているという。黒々とした蕎麦の風味が強いもので、「更科さらしな堀井ほりい蕎麦そばなんかはダメだ」と対抗意識をむき出しにしているらしい。食べに行ったけれど、たしかに旨かったと高野はいう。小料理屋をやっていて、そこで馴染みの客だけに出すらしい。こういうたぐいの情報にも強いのが高野の真骨頂しんこっちょうである。多忙をきわめる中で、どこにでもいと厭わずに出かけるものだとつくづく関心する。

四万十川しまんとがわかわがにかわ海苔のりはこたえられなかった。下田の温泉旅館は風情があって料理も良かった。帯広に行ってきたけれど最高だった。ユニークな町づくりに取り組んでいて、地場の産品ばかりを使ったフランス料理は絶品だし、地ビールもすごく旨い。近くには腐葉がとけ込んだ珍しい温泉もある――近々また行くので、作家のすぎたのぞむ杉田望と僕にも一緒に行こうと誘う。乗馬にも挑戦するのだと張り切っている。それも殺人的なスケジュールで仕事をこなしながらである。とても高野孟の行動力と旺盛な好奇心にはかなわない。

で、僕はもっぱら麻布十番を歩き回っている。それも高野孟が出没するところとは少し離れた「パティオ十番」を中心とする一帯である。


平成十一年(一九九九年)には地下鉄七号線(南北線)、平成十二年(二〇〇〇年)には地下鉄十二号線(環状線)が開通し、「麻布十番駅」が営業を開始する。交通が不便だったことが幸いし、都心にありながら昔の雰囲気が維持されてきた麻布十番に危機が訪れようとしている。

こうした環境変化に直面し、麻布十番商店街ではいろいろ議論が行われた。その結果、多くの人がやってきて、夜まで賑わう歓楽街に麻布十番が変わってしまうのは好ましくない。「人の来る街」よりも人が住み続けられる「人の住む街」の方が良い。こういう街づくりの方針が麻布十番商店街で選択されたと聞く。夜型の歓楽街の賑わいは「麻布十番らしくない」という結論だったという。

それでも僕は地下鉄が開通してしまうと、大きく変わってしまうのではないかと心配である。それが麻布十番をうろうろさせる一つの要因になっている。歩道が拡げられて、カラー舗装になり、電線が地下に埋設され、街路樹が植えられ、ところどころに小さな広場が作られる――このくらいの今の状況で僕には十分である。

秋の日差しが濃い緑のケヤキの木立を通って石畳の上で無数の小さな光のスポットライトになっている。その光を鳩と雀が追っかけ、たわむ戯れている。いっときも動きを止めることなく、餌を見つけるとついばんでいる。「キョロキョロ」「キラキラキラ」「チュンチュン」「ツンツンツン」「トントントン」「チカチカチカ」「ピョンピョン」………音は聞こえないけれど騒がしいばかりの音が見えてくる。

「あ―あ、静かでのんびりとしていていいなあ――」

そうつぶやいてパティオ十番の中にある石の階段に腰掛けたのに、石畳の上はすごくにぎやかである。

頭上では、久しぶりに抜けるようにすんだ青空を背景に、ケヤキの小枝が小さく揺らいでいる。葉っぱに透明な青いそよ風がまつわりついて遊んでいる。ジーと眺めていたけれども、葉っぱの動きには規則性が見いだせない。これが、自然界で吹く風の間隔(周波数f)と風の強さとの間には逆比例の関係が成立する、いわゆる「1/fゆらぎ」というヤツなのだろう。扇風機の風を自然の風らしく感じさせるのに採用されている理論である。そして小枝や葉っぱの動きを忘れて、ケヤキの枝振りに注目すると、同じ形の微少部分の積み上げで全体を表現することができるという、コンピュータ・グラフィックスの「フラクタル」が浮かんでくる。ちょっとした自然でも立ち止まって観察してみると面白い。

ケヤキ(欅)――空に向かってグイグイと大きく延びる枝とキラキラと輝くたくさんの葉っぱを見ていると自然に力がみなぎってくる。東京近郊では、原宿の表参道、甲州街道、五日市街道などの大きなケヤキの並木が有名だ。それに比べれば、ここパティオ十番のケヤキはまだ小さい。

でも、好きな木であることに変わりはない。先のとがったギザギザの葉が黒っぽい肌の枝に芽吹く春、うっそう鬱蒼と茂る夏、それが黄褐色に変わる秋、そして落葉してむき出しになった鋭い繊細な小枝が冷気を刺す冬。掃除をする人には大変だろうけれど、落ち葉がうずたかく積もっているのも、それが冷たい風に舞っているのも風情があっていい。カサカサ音を立てながら茶褐色のケヤキの枯れ葉がコンクリートの上で渦巻いているのを眺めると、都会の木枯らしを実感する。

パティオ十番広場の周囲にはトチノキ(栃)も植わっている。

トチノキ(栃)――ケヤキに比べて葉っぱがはるかに大きい。長さ二十センチ、幅十センチはあろう。初夏にやや赤っぽい白い花をつけるき 樹だ。その褐色の二センチぐらいはある大きな実からは、あく抜きして澱粉を採り、それでトチノキ餅などが作られる。

子供の頃に口にしたシイ(椎)の実の味をなつかしんで、このトチノキ餅つくりに挑戦したことがある。お土産などとして人気がでていたこともあった。あく抜きにはものすごく手間がかかった。でも、渋みが残って、とても食べられたものではなかった。お土産のトチノキ餅も食べてみたけれど、決して旨いものではなかった。

トチノキというと、こんなことを連想する。でも、マロニエというと洒落しゃれた響きで、パリのシャンゼリゼを思い出す。窓越しに眺めるマロニエ。いい感じである。ついコーヒーを一杯と言いたくなる。トチノキでは、こうはいかない。同じ仲間で、見た目にも変わらないのに、呼び方だけで、まったく違った雰囲気になる。「鈴かけ」と「プラタナス」もそうだ。言葉とは不思議なものである。

ついでだから麻布十番の街路樹を紹介しておこう。

パティオ十番のケヤキとトチノキは、いずれも直径二十センチ以上に育ち、存在感を持ちはじめている。でも、街路樹としてはありふれている。誰が選んだのか知らないけれど、麻布十番通りには、コブシやハナミズキなどと並んで、街路樹としてはなかなかめずらしい樹が植えられている。クスノキ(楠)やカツラ(桂)が植えられている。

クスノキ(楠)――昔、これからしょうのう樟脳をとった樹。殺虫効果はあるし、大木もあったということで、かつてはクスノキを使ったたんす箪笥が幅を利かした。木目がきつくなく、材質が均一で、のみ鑿が入りやすい。そのわりには粘りもあるということで、仏像などの彫刻にもよく使われた。法隆寺の百済観音など現存する飛鳥時代の仏像のほとんどがクスノキでつくられている。飛鳥時代にクスノキは一番花形として輝いた(「樹の事典」朝日新聞社)(「森の博物館」 稲本正 小学館)。

余談だけれど、こんな説明を読んで、本当はすごくいい材質の樹なのに、大木が少なくなってあまり使われなくなった――そう思っていた。ところが、ある有名な仏像の研究者と仏師から、「クスノキは決して仏像を彫るのに良い樹とは言えない。揮発分が抜けるとスができる。当時、仏師がクスノキを選んだのも、ただ渡来した仏像に使われていたのと類似の材質のもので仏像は作らなければならない、と思って国内で探した結果にすぎないらしい。だから時代を下ると、仏像に使われなくなったのだ」という説明を受けた。大変な驚きだった。

カツラ(桂)――版画や模型作りに凝っていた小学生や中学生のころからホオ(朴)とか、南洋材のバルサとともにカツラをよく使った。でも、板や棒になったものばかりで、どんな樹なのか知らなかった。高校に入り、山歩きをするようになって、その姿を知った。

初夏の日当たりの良い谷間で、鮮やかな緑の葉っぱをたくさんつけて、空に向かって扇形に広がっている一本の大木を見つけた。ややくねったほうき箒形の枝振りは独特で、ひときわ目立つ。キラキラと光り輝く葉っぱの感じも、まわりのブナなどとは違う。近づいて見ると、先がとがってギザギザのあるブナの葉っぱとは対照的で、四、五センチほどの可愛いハート形の葉っぱをつけている。一枚を持って帰り、植物図鑑で調べ、初めて版画や模型作りで使っていたカツラと、樹のカツラが結びついた。同時に、中国にはやや似た樹木があるけれど、カツラとは違う、カツラは正真正銘の日本特産の樹木であることも知った。

以来、山歩きでよく見つけた。群生することはなく、ポツリポツリと生えているので、すぐに分かる。初夏の新緑も綺麗だし、紅葉の季節も良い。色鮮やかに染まった樹木の中に、やさしい黄色に色づいたカツラを見つけるとホッとする。もう都会ではめったに見られない樹だけれど、好きな樹である。

ちなみに「やさしい」とか「温かい」というのが、木を扱う職人さんのカツラに対する印象だそうだ。木の比重や木の繊維の方向の関係から本当に温かく感じる材で、だから北海道では一番いい床はカツラのフローリングだという(「森の博物館」 稲本正 小学館)。

秋においらせ奥入瀬渓谷から八幡平にかけて紅葉の中で見たカツラはとりわけ綺麗だった。茶褐色に変わったブナ林の中に鮮やかな黄色に変わったカツラが点在し、さらに真っ赤なかえでがところどころにある。

この色彩が織りなす模様が広葉樹林の紅葉の醍醐味である。カツラのないとやっぱり紅葉は深みがない、とカツラの重要性を再認識した。

でも、カツラが最高に映えるのは春先の山の中だという。赤紫色と金茶色の中間の色の新芽が、周囲の緑の新芽の中で異彩を放ち、一見いっけんに値するという。まだ、その光景は見たことがない。体が弱ってくる前に、是非とも早春の山歩きをやって、カツラの燃える新芽を見に行きたいと思う。

麻布十番通りのクスノキもカツラも、まだ植えられたばかりで、直径は七、八センチにすぎない。その大木をたくさん見てきた僕にすれば物足りない。しかし、十年先、二十年先を想像すると楽しみである。神社の御神木などにはクスノキの大木が多い。そこまでは達しなくても、大きく育ったクスノキは街ゆく人に香りを放つだろう。カツラも、早春、初夏、初秋を通じて華やかさとやさしさを振りまくことになるだろう。間違いなく街の目玉になるだろう。こういう樹木を街路樹として植えることを決めた人の見識と感性には敬服する。


「なあんだ、店が閉まっているのか」

「すごいな―ここの鳩、人間を驚かない。人間から餌をもらおうとしている」

「すっかり堕落した鳩だ。中国だったら、捕られて食べられているよ」

「鳩はたいへんな御馳走だ」

「ヒッチコックの映画を見てから、どうも鳩は不気味で嫌だ」

友人の作家のすぎたのぞむ杉田望である。矢継ぎ早に大声で、気分をぶち壊すようなことを言い続ける。「骨董屋」の喫茶店で杉田と待ち合わせたのだけれど、今日は、商店街の定休日の火曜日で、店は閉まっていた。それで僕は店の前の「パティオ広場」で、杉田を待ちながら、都心に忍び寄る秋のわずかな気配も慈しむように楽しんでいた。それが、杉田の言葉で、一気にぶち壊された。

「それはそれでいいけれど、この広場に、童謡の赤い靴の女の子の像があるのを知っている?」と、振り向き、指さしながら杉田に言った。

「エッ、横浜だろう」

「そう、横浜にもあるらしい。でも、女の子は結核を患っていて、横浜から船に乗ってアメリカには行かなかった。今の十番稲荷のところにクリスチャン系の孤児院があって、そこで一人寂しく九歳で亡くなったんだって………」と、先ほど知ったことを説明した。

女の子の本名は岩崎きみこ。野口雨情は実際にあった話をもとに『赤い靴』を作詞した。赤い靴の女の子は私の姉ですという投書が北海道新聞にあって、それを当時、北海道テレビの記者だった菊池寛が追っかけて、こんな事実をつきとめた。

岩崎きみちゃんは明治三十五年生まれで、母親の岩崎かよに連れられて北海道に渡った。でも開拓地の想像を絶するような厳しさと、そこでの再婚話もあって、きみちゃんはアメリカの宣教師夫妻の養女に出された。かよは再婚した夫と開拓地で懸命に働いた。でも、その甲斐なく失意のうちに札幌に引き上げた。かよの夫は札幌の小さな新聞社に職を見つけた。そして、その新聞社に勤めていた野口雨情と親交を深めた。かよは世間話のつれづれに野口とに宣教師に自分のお腹を痛めた女の子を養女に出した話をしたのだろう。「きみちゃんはアメリカできっと幸せに暮らしていますよ」――こんなやりとりの中から「赤い靴」の詩が生まれたのだという。

後年、母かよは「雨情さんがきみちゃんのことを歌にしてくれたんだよ」とつぶやきながら、「赤い靴」をよく歌っていた。かよは、死ぬまで自分の娘のきみちゃんは宣教師夫妻とアメリカに渡り、元気に暮らしていると信じていたという。

ところが菊池寛が調べたら事実は違っていた。宣教師夫妻が任期を終えて帰国しようとした時、きみちゃんは結核におかされ、衰弱して長旅には耐えられない状況になった。それで鳥居坂教会の女児の孤児ばかりをあずかる孤児院にあずけられた。しかし、薬石効やくせきこうなく、明治四十四年九月十五日の夜、薄幸はっこうな九歳の生涯を閉じた。この孤児院は明治十年から大正十二年まで、今の十番稲荷のところにあったという。

「赤い靴いていた女の子 異人さんに連れられて行っちゃった………」

詞も曲も寂しい童謡である。こんな事実を知ったら、もっと悲しくなってきた。だいたい「赤い靴」というものは良くないものなのかもしれない。

アンデルセンの童話「赤い靴」もそうだ。裸足はだしで歩かなければならないほど貧しい娘がいた。でも可愛かったため、富裕な未亡人にもらわれた。娘は有頂天うちょうてんになる。もらった美しい赤い靴を喜んでは 履く。ところが、それは、いったんくと踊り続けて死ぬまで脱げない靴だった。娘は靴をいて踊り回る。やがてヘトヘトになる。そして、初めて自分が慢心してしまったことを悟る。でも靴は脱げない。それで足首から切り落す。そして反省を重ねてようやく許される――虚栄心を戒める話だそうだけれども、やや残酷すぎて、後味が悪い話である。


そう言えば、「骨董屋」の喫茶店には「きみちゃん通信」というのが置いてあった。それを見てからというもの、「きみちゃん」て、誰なんだろう、と引っかかっていたけれど、ようやく疑問が晴れた。

先日、近くの自動販売機でタバコを買っていたら、「こんにちわ」という明るい女性の声が背後でした。まさか自分のこととは思いもしないから、そのまま腰をかがめてタバコをとって、それから何気なく振り返ると、茶色のジャンバースカート姿の女性の後ろ姿が目に入った。「骨董屋」の喫茶店に入っていくところだった。そこの女主人だった。僕も通りで気軽に声をかけられる存在になってきている。いよいよ麻布十番の住人になってきたようである。

一九九七年秋 伴 友貴