ぼちぼちいこか(11)
東京最後の秘境のちょっとした異変 麻布十番

伴 勇貴(1997年09月)

麻布十番の年間の最大のイベントは八月の第四金曜日から日曜日までの三日間に開かれる麻布十番祭りだ。その日が近づいてくると、商店街にはソワソワした雰囲気が漂ってくる。祭りの当日ともなれば、自動車は通行禁止になり、さして広くない通りの両側は屋台で埋め尽くされる。お好み焼き、焼きそば、チョコ・バナナ、カキ氷、ポテト団子、生ビールなど変わり映えのしないものばかりだけれど屋台がたくさん並ぶ。

さらに、それとは別に麻布十番の有名なレストラン、中華料理屋、天麩羅てんぷら屋、焼鳥屋なども屋台を出すもので、大勢の外国人が見物に来るということと相まって、ちょっと変わった祭りの表情が生み出される。それが祭りの目玉になっている。十番通りはもちろんのこと、その一本奥に入った裏通り、十番通りと直角に交わる通りにも屋台があふ溢れる。

最近は、テレビや雑誌で頻繁に紹介されるものだから、この数年、外からの人がどんどん増えている。地下鉄の六本木の駅付近で、ツンツルのゆかた浴衣姿に興ずる外国人が目立つようになっている。そんな姿に刺激されてか、若い日本人にも浴衣姿が増えている。着付けが妙なのだけれど、どうもそれが最近のファッションになっているらしい。見慣れてくると、そんなものかと苦にしなくなってしまうのだから、僕はせっそう節操がないのだろう。

もっとも節操せっそうなどにこだわっていたのでは、いろんな格好の何万人もの人が、この狭い東京最期の秘境にドッと繰り出してくるのだから、とてももつまい。祭りになった途端に秘境は秘境ではなくなる。十番通りをわずか五十メートル進むのに一時間ぐらいもかかる事態になる。この雰囲気が良いんだ───こう言ってきき嬉々とする人もいるけれど、僕はもう駄目だ。最近は、十番祭りの期間中は麻布十番からの脱出を決め込んでいる。

祭りが終わって数日すると、後片付あとかたづけも済み、漂っていた熱気もしずまってくる。そして秘境の雰囲気も戻ってくる。

そんな九月に入って最初の土曜日の昼、久しぶりに友人の作家・すぎたのぞむ杉田望と麻布十番のど真ん中にある小さな広場、「パティオ十番」で待ち合わせた。前日まで検査入院で小さな病室に拘束されっぱなしだったので、気分転換したかった。いくら医者とも気心が通ずるれた病院でも嫌なものである。病室は綺麗だけれど、「病気」の「」が充満している。それが口や鼻ばかりか全身の毛穴から染み込む。だから一刻も早く身体からだを外気にさらし、「」を外に出したいという気分に襲われる。今回の検査入院でもそうだった。こういう時は、麻布十番をはいかい徘徊するのが一番である。

そうそう、報告しなければならないことがある。ちょっとした異変が麻布十番にあった。「パティオ十番」に面し、タイムスリップ感覚を満喫させてくれた喫茶店が店を閉めてしまった。もう儲かっているとは思わなかったけれど、趣味でやっているようだし、つぶれることはあるまい。こうたか高をくくっていたところ、見事に期待を裏切られてしまった。それで杉田とは、冷房がない「広場」で待ち合わせなければならない羽目に陥ってしまった。

もっとも、ちょうど第一土曜日で、ガラクタ市、正式に言うと「麻布十番のみの市」が「広場」で開かれており、退屈することはなかった。何かいい掘り出し物でもないかと、時間をかけ、ひやかし半分で眺める。こういう時間の使い方が気軽にできるのは至福のきわみである。

「何にもないな―」

「何にもないじゃないか─」

突然、背後で大きな声がした。杉田である。いつものリュックとジーパンのスタイルで現れた。腕時計を除けば、身につけているもの全ての合計は一万円にもならない、と豪語するスタイルである。

ちなみに杉田がしている腕時計というのは「インサイダー」のたかのはじめ高野孟から貰った香港返還の記念時計だ。「高かったぞ!」こう高野孟は言って、この腕時計を手渡し、杉田に「借り」を返したらしい。何の貸し借りだか分からないけれど、二人は、よく「貸しだ!」「借りだ!」とやっているらしい。腕時計の文字盤の中では、小さな登小平が手をチョコチョコと振っている。いかにも高野好みの一品である。いま杉田が身につけている物の中では、これがもっとも高価なモノであることに間違いはなさそうである。

その杉田の声で、ウサギが木の根っ子にぶつかって転げるのをジーッと待つ、そんな「待ちぼうけ」のスタイル気で店番していた中年の婦人と若い男性、その二人が目を上げ、一斉に冷たい視線を投げてきた。直ぐ立ち去らないとやばい。ヤバことになりそうな気配だ。

「すぐそばに喫茶店を見つけたから、そこへ行こう」

まだ粘る構えの杉田を急かせ、早々に退散した。行きつけだった喫茶店と広場をはさんで反対側の、狭い階段を上がったビルの二階に向かった。広場に面しているのだけれど、小さな看板が階段の足元に置かれているだけだったので、これまで店があるとは気が付かなかった。

小さなドアを開け、店の中に入って驚いた。骨董品というかガラクタでいっぱいだった。窓際の二つのテーブルと、真ん中の一つのテーブル、それと手前の大きなカウンターのところ以外は、ところせま所狭しとばかり家具や瀬戸物や身の回りの小物などが並べられている。壁にもいろんなものがぶら下がっている。土蔵の扉とか浮きの大きなガラス玉とか古い薬の宣伝ポスターといったものまである。

カウンターには女性が二人座っていた。店主と、その友だちというか、常連という様子である。僕らは迷わず窓際のテーブルに着いた。「パティオ十番」を一望できる場所である。下を見ると濃い緑の間にガラクタがたくさん並んでいる。

ついこの間までは目にまばゆ眩いばかりの新緑だったのに、もう秋である。あとちょっとすれば、木の葉が落ち、冷気を突き破るように枝がむき出しになるだろう。本当に時間の経つのは速い――。

「ウチも出しているですよ――」奥からの女性の声で現実に引き戻された。骨董品こっとうひんに関心があるとでも思ったのだろう。「抹茶がある」とメニューを見て杉田がいう。お菓子付きである。コーヒーよりは身体からだに良い。病院から出てきたばかりなので、すぐに身体からだのことに思いが行ってしまう。「それじゃ―、抹茶二つ」と威勢良く大声で注文した。

抹茶を飲んで、みずようかん水羊羹をつまむ。悪くはない。杉田は、こんな甘いのを食べても大丈夫か、と心配そうにたず訊ねる。「大丈夫、大丈夫。しっかり計算済みだよ。食べるのは半分だけだよ」と明るく答え、新しく買い求めた機器で血糖を測定し、インシュリン注射をする。これが効き出すまでに約三十分。ここでちょっと時間をつぶし、それから天麩羅てんぷら屋に行こうという算段である。

壁に掛かっているものや、床に置いているあるものを、あれこれ言いながら値踏みする。退屈することはない。聞けば、開店してから十年あまり経つという。わずら煩わしいこともなく、これから使えそうな店である。


「どう、おやじさん、祭りでもうかったでしょう」

「冗談じゃないですよ。忙しいことは忙しかったけれど、人は雇わなければならないし、出るものが多くて同じですよ。商店街の関係もあって仕方がないからやっているんですよ。もうただ、忙しかっただけ。焼き鳥屋なんかは、百万円以上を売ったと言っていますが、うちらは駄目ですよ」

「ハイ、ごち。今日は良いのがありましたから、入れておきますよ」

「いいね――。で、ハゼもそろそろじゃない」

「まだ東京湾のものは小さくて駄目だね。そう、あとひと月もすれば、いい形のものを出せますよ。もうちょっとですよ」

「嬉しいね。ところで、おやじさん。広場に面したところにあった喫茶店、どうして閉めたのか知っている?」

「う―ん。もともと洋服屋でね――。それが駄目になったので、喫茶店をやっていたんだけど――。やっぱり駄目だったのだろうなあ――」

「えェ――。洋服屋だったの――」

「そう洋服屋。それを止めて、喫茶店も止めたのだから、あのビルは誰もいなくなってしまったはずだ。で、どうするでしょうね。それにコーヒーなら、豚カツ屋の先の店の方が美味いよ。それもアイスコーヒーが。氷までコーヒーで作っているんだから」

「豚カツ屋が美味いのは知っていたけど、隣に、そんな店があったとは知らなかったな――。そうだ、ついでに聞くけど、そこの角の蕎麦そば屋と十番通りの奥の蕎麦そば屋、もともと同じ店だったのに、どうして仲違なかたがいしたのか、その理由も知っている?」

「や――。子供がいなかったんですよ。それで番頭の――」

「やっぱり、そんなことだと思ったよ」

カウンターで天丼を食べながらのよもやまばなし四方山話である。今日は、いろいろ聞いてやろう、と決めていた。麻布十番に移ってきたのは昭和二十七年のことで、その前は、ずーっと、赤坂の山王下でやっていたという。

なつかしい。亡くなったおやじ親父は赤坂の生まれで好物が天麩羅てんぷらだった。最期の入院前、親父を連れて行ったのも赤坂の天麩羅てんぷら屋で、そこで、お袋に内緒ないしょで、これも大好きだった熱燗あつかんを飲ませた。バレたらお袋がうるさいとためら躊躇うのを、黙っているから気にしなくていい。めてしまえば分からない。それに入院すると、しばらく美味いものを口にできなくなるからと言って勧めた。「それじゃ少しだけ」と、親父は本当に嬉しそうに飲み、ほんのりと赤くなった。つい昨日のことのようである。

お袋は親父は助かるものと信じ切っていた。お袋自身も具合が悪かったので教えなかったからなのだけれど、親父は末期癌だった。それも、ある有名な病院で、手遅れで手術はできないと言われたのを、今ではもう一線から退いている名医の誉れ高い知人の大学教授に頼み込み、大手術をしてもらい、それで生き延びた後の再発であった。「おまえの親父じゃ、いやとは言えないよ」と言って手術を引き受けた彼から、手術後、「できる限りやった。でも、俺が保証できるのは最大で二年だ。それまでに間違いなく再発する。再発したら、もう終わりだ」「しかし、よくまあ、こんなになるまで我慢したな――。やっぱり、おまえの親父だ」と宣告された。その通り二年目に癌は再発した。再発の状況をX線写真で見せられたけれど、本当にひどかった。どうあがいても無理だった。

この亡くなった親父なら、若い頃、この天麩羅てんぷら屋の山王下の店に通ったように思った。もう確認することはできないけれど間違いないと思った。


「おやじさん、話は違うんだけれど、このカウンターにこ 凝ったね。この厚い一枚板、目も通っていて凄いね」

「ひのき檜ですよ。前の持ち主がりにって、カウンターには厚い檜の一枚板を持ってきて、それに見て下さいよ、この天井。これだってこだわって木の皮や小枝を取り寄せて化粧したんですよ。それを手に入れたんですけれど、今じゃ、もう絶対に不可能ですよ。こんな店を作るのは」

待っていましたとばかり、得意満面で説明する。こちらも今まで分からなかったことが分かって、至って満足である。「これでまた話が書けるね」と、杉田が小声でそっと呟く。そう、話も書けるし、美味かったし、言うことがない。

「ごちそうさま」「毎度あり――」で外に出た。

締めくくりに、天麩羅てんぷら屋のおやじの言っていた喫茶店に寄った。豚カツ屋の隣には、確かに喫茶店があった。五、六人も入ればいっぱいになりそうな小さな店である。座ると同時に「アイスコーヒー、二つ」と注文した。それを飲みながら、置いてあった工事中の麻布十番を通る地下鉄の内部の写真を見た。見学会があって行ったそうである。そう説明する店のおやじに、天麩羅てんぷら屋のおやじにアイスコーヒーが美味いって聞いたから来たと言った。そしたら、おやじはけげん怪訝そうに、「へェー。毎日くるけれど、いつもきまってホットだよ」という。「えェ―」杉田とあぜん唖然として顔を見合わせた。

一九九七年秋 伴 友貴


今は「パテェオ十番」広場の横の二階にあった喫茶店も姿を消している。天麩羅てんぷら屋の親父も癌で亡くなった。元気そうだったのに、あっという間の出来事だった。久しぶりに顔を出した時、店を継いでいた息子から聞いた。しかし、その息子も店を閉めるらしい。確実に時代は変化している。当たり前のことなのだけれど………。

二〇〇〇年