ぼちぼちいこか(8)
カンボジア 輝く目の若い人たち

伴 勇貴(1997年04月)

感覚まで一致する入我我入の境地になる

「このごろ彼らのエロチックな信仰がわかりかけてきたんだよ。つまり、自分が抱いている女と感覚まで一致するようなるにゅうががにゅう入我我入の境地とでもいうべきもので、男は自分自身であることをやめずに女であると想像するまでになる。もう耐えきれないと思うくらいになる。人間の官能とは、なにも比べものにならない。そう、からだなんてものじゃないよ、女は。つまり女とは可能性だ、そうだとも」

パリから遺跡の彫刻を盗りにきた若いクロードに、案内役を務める、この地に長く住み、老境に入ろうとしているベルケンがつぶやく言葉である。アンドレ・マルローの小説「王道」(集英社「世界文学全集」―渡辺一氏・松崎芳隆訳)の一節だ。

すでに前衛作家として知られていたアンドレ・マルローは、アンコールワットから約四十キロ東北にある紅色砂岩で作られた瀟洒しょうしゃな寺院、バンテアイ・スレイがまだ法律上登記されていないこと知り、この遺跡の彫刻を手に入れようと考えた。一九二三年十月、マルローは妻と友人の三人でマルセイユから船でカンボジア向かった。アンコールの旧道(王道)の考古学調査という名目だった。マルロー二十二歳の時である。

十二月、三人はバアンテアイ・スレイにたどり着いた。そして壁面を飾る女神デヴァターなどの六点の浮彫(レリーフ)をはぎ取った。それを持ってプノンペンに戻ったところで捕まった。半年後の一九二四年七月、プノンペン地方裁判所で、古代遺跡出土品盗掘の罪でマルローと友人の二人は禁固三年の判決を受けた。しかし、一人フランスに戻った妻の呼びかけで文学仲間が出した嘆願書により十月、サイゴン高等裁判所の控訴審で執行猶予付きの禁固一年に減刑された。一九三〇年、マルロー二十九歳のときに出版された小説「王道」は、このときの体験をもとにして書かれた(「アンコールワット」ブリュノ・ダジャンス著 石澤良昭訳 創元社)。

「王道」を読み直し、そこに出てくるベルケンの言葉で、カンボジアのアンコールワットやバンレアイ・スレイなどの寺院を飾る女神デヴァターを、初めて見たときのことを改めて思い出した。

華麗で艶やかな女神像が戻ってきた。とても砂岩に掘られたとは思えない繊細で精巧な作りであった。「東洋のモナリザ」と呼ばれる微笑みをたたえた気品の漂う顔。少女のような可憐さを感じさせる細いうなじ。小ぶりながら、張りのある、ふくよかな胸。その隆起を飾る美しい装飾品。たおやかに伸びる腕。しなやかなくびれから豊満な盛り上がりへとつながる腰。その腰から膝下あたりまでをうすぎぬ薄衣がつつんでいる。

白州正子が「両性具有の美」(新潮社)の中で触れている性を超越した美しさに通ずるものもある。

何十体と並ぶデヴァターは、それぞれ微妙に違う。南国の強いに日差しにおくする様子もなく、生き生きと躍動し、のびやかに迫ってくる。日が傾いて、赤い夕日に浮き上がった姿には、思わず息をんだ。日本で想像する仏教の寺院とはまったくかけ離れた雰囲気だった。

上智大学外国語学部長の石澤良昭教授の案内で、寅さんや作家の杉田望など気の置けない人たち十人あまりで、アンコールワットなどのクメール文化を堪能しに行った時のことだ。それが初めてのカンボジア訪問だった。

郊外で地雷を予告なしで処理したようです

でも、二度目のカンボジアでは、女神デヴァターやマルローの「王道」に思いを馳せている時間的な余裕も気持ちの余裕もなかった。文化芸術大臣を表敬訪問し、関係団体の幹部たちと意見交換をすませたら、バンコック経由で帰路につかねばならないハード・スケジュールだ。プノンペンに二泊するだけである。アンコールワットなどのあるシェムリアップ市に立ち寄るなどおよびもつかない。

それにラナリット第一首相とフンセン第二首相との確執から、ややおだやかならぬ雰囲気が漂い始めてもいた。アポイントの最終確認も時間切れで取れぬままシンガポールからプノンペンに向けて飛び立った。あうん阿吽の呼吸の寅さんと僕の二人旅――「何とかなるさ。出たとこ勝負でいこう」ということになった。でも、一抹の不安は残っていた。

以前と比べると、修復が進み、行き交う車も多く、はるかに活気もあった。そして明るくなった街並みを抜け、観光客で賑わうホテルに着いてチェックインすると、不安も消えてしまった。大勢の観光客が夜遅くまでディスコに興じていた。ナイター設備付きのテニスコートでは、カンボジア人と思われる若者たちが、コーチについて練習していた。テニスボールを叩く音が遅くまで響いていた。

ところがだ。一晩経ったら、ガラリ様子が変わった。

「けさ大きな爆発音がありました。なんだかわかりません。まったく電話がつながりません。兵隊がでています。学校の授業は休みになり、生徒は家に帰されているようです」

朝予定より十分ほど遅れて、メコン川沿いにある宿泊先のソフィテル・ホテルに迎えに来たチェンさんが挨拶もそこそこに語る。興奮している。言われてみれば、ホテルの前には兵士の姿が見える。ただ事ではなさそうである。爆発音には気がつかなかったけれど、何かあったらしい。たしかに様子が変だった。

チェンさんは前にカンボジアに来た時、寅さんも僕も気に入ったガイドだ。空港の様子がややおかしかったこともあって、空港からの車中の緊急協議で運転手付きで、再度、彼を雇うことを決めた。プノンペン滞在中、チェンさんが身近にいれば、言葉が分かるし、何か起きても慌てなくて済むだろう。昨日、ホテルにチェックインする前、旅行代理店に立ち寄り、社長と交渉して彼を確保してきたのである。

チェンさんを雇ったことは正解だった。危なそうだったら無理しない――この原則を確認してホテルを後にした。チェンさんが気にしているので彼の子供の安否を確認し、それから文化芸術大臣や関係団体の幹部たちとの面会を試みることにした。学校は閉鎖され、すでに子供たちはスクールバスで帰されていた。チェンさんの自宅に行って子供たちの安全を確認し、シャッターを下ろし戸締まりを厳重にと指示するのを待って、僕たちは出発した。

チェンさんは、その間、あちこちに電話をかけ、事態の把握に努める。ようやく電話は繋がり始めたけれど状況は分からない。カンボジア語のやり取りでも雰囲気はわかる。不安が広がっているらしい。緊張感が伝わってくる。

訪問先の関連団体の事務所は中心街からかなり離れていた。住所と地図を頼りに、ようやく探し当てた。でも、文化芸術大臣との面会は駄目だった。先方からホテルに連絡あって指定された時間に訪問したけれど不在だった。

清掃係といった雰囲気の中年の男が近付いてきた。そしてニコッと笑うと英語で「どうしたのか」と語りかけてきた。文化芸術省の正面玄関から入ったところで思案に暮れていたところにである。説明しても仕方があるまい――そう思ったけれど、ともかく英語が通じるので事情を話した。

驚いたことに彼が国際協力関係の課長だった。去年、招待されて日本に半年ほどいたと嬉しそうに言う。そして大臣を探し回ってくれた。でも駄目だった。「昨夜のBBCのラジオ放送によると、どうも上の方でもめごとがあるらしい」見るからに人の良さそうな課長は、こう言って、すまなそうな顔をした。僕らを相手に、まだまだいろいろ喋りたそうだったけれど、ジープに乗った四、五人の兵士がニコリともせずに、こっちを見つめているので落ち着かない。お礼を言って、早々に立ち去った。正面玄関で名残惜しそうに手を振って見送ってくれた、よれよれの半袖、半ズボン、汚れた素足にサンダル履きの課長の姿が、いまも脳裏から離れない。

状況が判明したのは午後二時過ぎだった。どうも地雷の爆発らしい。郊外に集められた地雷が事前の予告なしに処理されたらしい――そういった情報が入ってきた。まずチェンさんがホッとした表情になり、それを見て僕らも安堵した。しばらくすると、ラジオからも同様の説明が繰り返し流れてきた。街の様子も落ち着き、際立った変化はない。マーケットも人でごった返している。釈然としなかったけれど、取りあえず胸をなで下ろした。

帰国子弟がカンボジア政府の裏方として働いている

ところで文化芸術大臣の示唆で、関係団体の幹部二人と会ってびっくりした。団体のメンバーは、ほとんど帰国子弟だった。戦乱を避け、欧米へ逃れ、そこで教育を受けてきた人たちだ。カンボジアが安定したので戻ってきて、あらゆる分野で政府と繋がって動いている。法律顧問は米国で弁護士をやっていた人だった。米国の大学で教授をやっていたとか、そうそうたる経歴の人たちが名を連ねていた。法律から経済から科学技術に到るまで、あらゆる分野で、カンボジア政府の裏方として働いていた。これから自分たちの国を作るんだと張り切っていた。

日本の商社の人たちの動きもさすがに早い。すでに、この人たちと接触していた。いろいろな名前が次々と出てくる。名刺のリストを持ってきて、これらの企業が、全部、自分たちに言えば日本政府や日本企業を自由に動かせるなどと言って売り込んできたという。彼らが「その通りか?」と聞くので、笑いながら大嘘だ、そうしたハッタリを言う手合いは気を付けろと言った。

日本政府や日本企業に向かっては、間違いなく「わが社はカンボジア政府の中枢に食い込んでいる」と、名刺を見せながら言っているに違いない。ただの口利き屋なのだから注意した方が良いと答えた。同じ日本人として、商売とは言いながら、あまりにもいい加減な説明をしているのを知って恥ずかしかった。

こうしたやりとりをそばで聞くチェンさんは、なんとなく不愉快そうな様子だった。彼らと別れたあと「彼らをどう思う?」と水を向けた。すると、せきを切ったように「一人はほとんどカンボジア語が分かっていない。彼らは一般のカンボジアの人たちのことが分かっていない。彼らだけで、この国をちゃんとできるとは思えない」という厳しい答が戻ってきた。

逃げ出せたのは一部の特権階級の人たちだろう。そんな人たちが平和になって戻ってきて、大きな顔をしている――そんな感情的な反発があるのだろう。だが同時に、それ以上に、チェンさんの顔は「自分たちがやるのだ!」という気概にあふれていた。最初に会ったときに比べると、はるかにたくましい。上智大学の石澤良昭教授が説明するクメール文化の話をテープに取って学生のように懸命に勉強していたチェンさんにビジネスマンの雰囲気が出てきていた。

「ずっとガイドを続けるつもりはないのでしょう。自分でビジネスをやろうと考えているのでしょう」と聞いた。するとニコッと微笑ほほえんで、「ええ、でも何をするかはまだ決まらないのです」と答えた。でも、すでに不動産の売買を始め、そのもうけで、郊外の工業団地に少し広い土地を買った。家も買ったし、もうかなり値上がりしていると嬉しそうに話した。

チェンさんが買った工業団地に連れて行ってくれた。市街から車で二十分あまり離れたところにあった。カンボジア中央を貫くメコン川の流域の広大で肥沃な平野を走る幹線沿いに作られた工業団地だ。途中にはレストランなどが次々と店を開いていた。縫製工場などいくつもの工場が操業していた工業団地に隣接する新設の工業団地の一画だった。

さほど広くはないが、自分の購入した団地の一画に立ったチェンさんはたくましく、目映まばゆかった。その姿に、先ほど合った白いキャンパスに向かって絵を描くように熱っぽくカンボジアの将来を語る若き帰国子弟たちの面影がダブった。光り輝く一面の緑の平原の中では、この広大な工業団地も小さな点にすぎない。むせ返る緑の香りと、南国の強い日差しの中で、底知れぬ若い力の息吹を感じた。

老いることこそ死なのだ

日本に戻ったら、あの地雷爆発騒動は、やはりラナリット第一首相とフンセン第二首相の武力衝突の第一弾だったことが分かった。その後のカンボジア情勢については、ここで改めて説明する必要はないだろう。また、あの陰惨いんさん殺戮さつりくの歴史がよみがえり、カンボジアの将来に悲観的な見方が生まれている。

でも、僕には、あのたくましいチェンさんや、希望に胸を膨らませていた若き帰国子弟たちのことが忘れられない。半袖、半ズボン、汚れた素足にサンダル履きの出で立ちで、義務教育の充実に頑張っていた課長の姿も目に焼き付いている。訪れた平和の喜びを全身で感じ、マーケットにごったがえしていた大勢の人たちや、子連れでレストランを賑わしていた多くの人たちのことも忘れられない。彼らが、時代に逆行することを許すとは、とても考えられない。紆余曲折はあるだろう。でも、カンボジアの将来は輝かしいものになるに違いない。そう思えるし、そうあって欲しいと心から願っている。

それよりも高齢化進む中で、若い人たちまでが輝きを失いつつある日本の方が心配になってくる。第一次世界大戦後の欧州に対する絶望が背景にあったのだろが、マルローは小説「王道」の中で、こうもクロードに語らせている。

「老いるということのほうがはるかに重大だ! それは自分の運命、役割、一つしかない一生の上に立てられた犬小屋をうけいれることを意味する……若いうちは死とはわかりはしないものだよ……」

「本当に生きている人間なんて、そうざらにはいない……誰だって考えはするさ……だが頭で考えたってどうしようもない。死とはそんなものじゃない。……死人を前にしたときじゃない……老いること、そう、老いることこそ死なのだ。とくに他人から切り離されて老いること。そして破滅に向かうこと。わたしに重くのしかかるもの、それは……わたしの条件だ。つまり私が老いるということ、時間というこの残忍なものが癌のように自分のなかにはびこってゆくことだ。とりかえすすべもなく……時間、まさにこいつだ」

まばゆいばかりの太陽と溢れる緑の中で、たくましく生活している人々を見ていると、日本の人たちは人間としての根源的な活力を喪失そうしつしつつあるように思えた。コンピュータやインターネットやマルチメディアがもてはやされる一方で、孤独を恐れて宗教に没入する人が増えて、消費支出の三%もが宗教に支出される「大宗教国家」になっているという(「せぬがよき 文化の黄昏」竹内弘 東洋経済新報社)。こういう日本が色あせて、くすんで感じられた。

アンドレ・マルローは没後二十年の昨年十一月二十三日、人間の尊厳と自由のために戦った国家的英雄としてパンテオン(万神殿)入りした。そこでシラク仏大統領は、マルローは、つねに懐疑的な気持ち失うことなく、しかも、その中で人々に方向と意味を示そうと努めたと、その崇高な精神を称え、次のように演説したという。

「パンテオンは追想の場ではありません。正義と、人間の尊厳と、自由への情熱と、抑圧の拒否のために生命を賭した偉人たちによる、諸価値の生き続ける殿堂であります……。アンドレ・マルローよ、あなたは“不安の人”でした。万人の仰ぐ規範でありながら、ひょっとして我々が間違っていたならとの疑問が常に働いていた」

マルローは、神とは違う、それでいて人間を越える偉大な精神性を追求し、次の文明はそのような精神的次元をもたない限り存続を期し難い、と主張していたという。そして日本文化についても深い造詣を持ち、「日本は精神性が一宗教の独占物とならない稀有な国だ。偉大な日本とは騎士道のそれだ。騎士道は兜にあらず鎧にあらず。真に己の意志するところを知り、その意志に全人生を捧げて悔いなき人々の全体にほかならない」と賛辞を送ったという。

でも果たして、いまわれわれは、かつてマルローが大きな賛辞を送ったような精神性について考えているのだろうか――。新聞やテレビで報道される日本の指導的立場にある人たちの発言を聞くと、さらに憂鬱になるばかりである。

一九九七年春 伴 友貴