ぼちぼちいこか(6)
シンガポール 人間は命令されたがっている

伴 勇貴(1997年04月)

シンガポール。清潔で、綺麗で、整然としていて、とても東南アジアにいるとは思えない。タバコやゴミのポイ捨てで罰金を取られるのはまだしも、樹木の一本一本が管理されていて自由にならないとか、TVカメラでしっかり監視されていて交通違反をしようものなら直ちに罰金の請求書が自宅に送られてくるなどと聞くと身震いがしてくる。長髪も禁止。日本の中学校や高等学校も顔負けである。しかも淡路島と同じくらいの大きさの島で、隠れたり逃げ込んだりするところがない。

いくら「アジアのミスター・クリーン」と称えられても、ここにズーッと拘束されるとしたら自分には我慢できまい。

シンガポール政府の元役人だった知人の中国系シンガポール人も「正直言って、息苦しくって、たまにはバンコックやマニラで息抜きしないとやってられないですよ」と真顔で語った。でもシンガポール人をやめる気はさらさらない。事業はシンガポールで展開するのが一番だけれども、生活はマレーシアやタイやオーストラリアなどでしたいという。

でも、彼の言うように二カ国を股に掛けてやれるのは、ほんの一握りの人だろう。ほとんどの人は、ここで仕事し、ここで生活するしかあるまい。こんな管理社会で、みんな本当にやっていけるのだろうか。いずれ軋轢(あつれき)が表面化するのではないか――。そう思った。もう十年ばかりも前のことだ。

ところが、久しぶりにシンガポールに行ったけれど、さらに綺麗にはなったものの大きな変化は見られない。管理が緩(ゆる)まる気配もない。「人間は命令されたがっているのです」というスロバキア生まれの社会学者スラヴォイ・ジジェク(一九四九年生、リュブリアナ大学社会学研究所哲学教授)の言葉を思い出した。

視聴者が参加しながら物語の筋を作っていく「選択可能な物語」(alternative narrative)がまったく受け入れられず大失敗に終わったことについて、スラヴォイ氏は興味深い発言をしていた。「選択可能な物語」――たとえば、主人公がレストランでガールフレンドを誘惑する。すると「誘惑が成功する」と「誘惑は成功しない」の選択肢が出る。そこで、そのいずれかを視聴者が選ぶと、それによって以後の物語の筋が変わる。こうした仕組みが組み込まれて作られる物語だ。これからのメディアのあり方を示唆する、と大きな注目を集めた。けれども、その後、どうなったか聞かない。スラヴォイ氏は大失敗であったという。誰もストーリーを選択したいなどと思ってはいない。根源的なレベルで、誰か第三者が決めてくれることを欲しているのです、と彼は断言する。

人は命令されたがっているのです。あり余るほどの自由にさらされることには、どこか恐ろしさがある。繰り返し、繰り返し、根源的選択を迫られるのですから。「主人」の機能を抜きにして、何かが強制されることなしに、物語という形式が生き残れるのかどうか、ということに私は疑問を抱いています。(「マルチメディア社会と変容する文化」NTT出版)

シンガポールのインド人

そうでも思わなければシンガポールはとても理解できない。たしかにマーケットなどへ出掛ければ、「東南アジア」の雰囲気を味わうことはできるけれど、バンコックを経由した後では、本物でない、人工的だ、という思いをぬぐい去れない。最初にシンガポールを訪れた十年ほど前から、この印象は変わらない。


「時間があったので、ちょっと歩いてあちこち見てきました」
「探したら、シンガポールにもインド人街がありました」
「やはり、ごろっと道に横になっていました。インドとまったく同じですよ」

アジア各国の言語のコンピュータ処理に関するシンポジウムに出席するため、一足先にシンガポールに入っていた東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所の町田和彦助教授が日焼けした顔に目をクリクリさせて話す。ゴミのポイ捨てで捕まえられる規制の厳しいシンガポールでもインド人は自己流を貫き通している。インド人が変えられるはずがないとは思っていたけれど、どうどうと道路に寝そべっているのを見てホッとした。インド人を管理するなんて、できっこないと思っていました、と嬉しそうに語る。

町田さんと、寅さんと僕との三人が、シンガポールのホテルで合流し、一緒に夕食にでかけたときのことだ。町田さんはヒンディー語系の専門家で、そのままインドの街中を歩いてもまったく違和感がないという雰囲気を全身に漂わせている。インドに入りびたれば、身につくというようなものでもあるまい。生まれついてのもののようだ。まだインドには行ったことはないけれど、そんな気がする。


「インドには本当に魔物がいるんですよ。ドロドロの――。それもたくさん。行きたいだなんて大丈夫ですか」
「エエーッ、魔物? どんな魔物ですか」
「町田さん、行きましょう。ね、連れてって下さいよ」
「学生にも話すんですよ。川にブヨブヨの死体が浮いているのなんて、どうってことはない。そこからちょっと離れたところでは沐浴している。道を歩いていると、ベロッと溶けかけた腕が横丁の暗闇の中からからヌーと目の前に伸びてくる。ヒョーとですよ。それだけじゃないんですよ。いっぱいあって――」
「………」
「………」
「で、人によっていろいろで、どういうのが怖いんですか──。インドのとりこになってしまう人が多いんですよ。そうなったらもう一般社会から見れば廃人ですよ。いいんですか。本当に――」
「エエーッ」
「………」
「もう普通の社会に戻れなくなるんですよ。戻るのに何年もかかるんですよ」
「………」
「本当ですか」
「すごく親切な人もいますよ。身も知らずなのに、家に遊びにこいという。そして歓待して、泊めてくれる。でも、そうなったらもう大変ですよ、本当に。突然、『成田に着きました!』って電話がくる。『ヤー、おじちゃん』ていう調子ですよ。ニコニコして、家族なんだから泊めてくれて当然という感じですよ。平気でいつまでも居候(いそうろう)をする。一日中、家にいてボーとしていたりする。悪気なんかまったくない。迷惑をかけてるなんて意識はまるでないんですよ。怖いですよ」

町田流話術にどんどん引きずり込まれている。驚かしながら興味をかき立てて、取り込んでしまう――もう怪談(かいだん)噺(はなし)である。そのまま「高座」にあがることができる。「講座」ではなくて「高座」である。

「ヌー」とか、「ブヨブヨ」とか、「ドロドロ」とか、「ヒョー」とか――。ともかく、こういう話をするときには、町田さんは「オノマトペ」を効果的に使う。「オノマトぺ」(onomatopee)とはフランス語で、擬音語・擬声語・擬態語を包括的に表す言葉である。それですっかり雰囲気が出来上がってしまう。ついつい引き込まれて、「エエーッ」とか、「………」とか、驚きながら、相槌あいづちを打ちながら聞いている。

「人間は自由によって何一つしていない」
「鳩が空を飛べるのは空気の抵抗のせいだ」

シンガポールの人口は三百万人弱。その七十六%は中国系。それに次ぐのはマレー系の十五%で、インド系はわずか七%を占めるにすぎない。でも、町田さんの「催眠術」にかかったみたいで、どうしても、そのわずか七%にしかすぎないインド人のことが頭から離れない。シンガポールに居ながら、インドのことが気になって仕方がない。

翌日からシンポジウムが始まった。三日間にわたって、各国の研究者から自国語のコンピュータ処理の現状と展望が報告された。心に残ったのは、タイ、マレーシア、フィリピン、それとラオスとモンゴルの発表である。日本を除くアジアの中ではタイが群を抜いている。将来もよく考えているし、足下も固めてもいる。熱っぽくネットワーク社会の将来を語るタイの「村井 純」と言われる少壮の研究者、そして現状を手際よく紹介する女性研究者――ともにひときは光っていた。マレーシアやフィリピンも思った以上に頑張っていた。説明する若い研究者たちのひたむきな姿勢には好感が持てた。機材もままならず、これからですとやや恥じらいながら説明するラオスやモンゴルの研究者たちはういういしくさわやかだった。

でも、シンポジウムの実質的な主催者、日本には正直なところややがっかりした。発表内容もそうだけれども、発表の仕方に問題が少なくなかった。一本調子で聞き手に訴えるものがない。聞き手の反応をうかがいながら発表するという配慮に欠け、熱意が伝わってこない。韓国も日本に似ていた。用意してきた文書をひたすら読み上げていた。でも、ともかく真摯で、その姿を見ていると、なんだか哀れに思えてきた。日本の場合には、残念ながら、韓国のような真摯な姿勢が感じられない。

ひときわ異彩を放っていたのはやっぱりインド人だった。発表は平凡なものだったけれどインド人の存在は目立った。必ずと言っていいほど各国の代表のなかにインド系の人が入っていた。それがわかりにくい特有の英語でまくし立てる。どうということがないと思うのに胸を張って、よく質問し、よく意見を言う。

このインドの人たちを黙らせたのは町田さんだった。町田さんは、招かれてシンポジウムで特別講演を行った。上智大学外国学部長の石澤良昭教授を中心に進めているアジア太平洋地域の多言語環境に関する研究活動について報告した。町田さんは、講演のなかで、コンピュータ化の進展に飲み込まれ、放っておくと、それぞれの国に固有の文字や言語が滅びかねない、と警鐘を鳴らした。それは固有の文化の破壊につながる。文字を単なる記号として扱うべきではない。その形や線の太さなどによって様々な意味合いを持つ。あらたまった字とか優しい字とか――。こういうことを大切にするから、一つの紙面に何種類もフォントを使う。だから、コンピュータで処理できる形で様々なフォント(字母)を用意することが重要で、そのために各国の関係者が協力することが大切だと訴えた。

インド人が噛(か)みついた。文字は記号であって、そこまで気を使う必要はない、というようなことを言った。町田さんは、ニヤッと笑った――僕にはそう見えた。町田さんの雰囲気は日本語でも英語でも変わらない。たしかにインドでは文字はあまり重要視はされていない。それはインドには口伝という伝統があるからであって、世界にはそうでない国が多い。日本だけではない。アラビア語でもタイ語でも字が大切にされている。それを無視してはいけない――こういったことをゆっくりとまるで学生をさとすように語った。町田さんの独壇場(どくだんじょう)だった。

「インド人は、昔から字を持っているのに、字をあまり大切にしない。大切なことは口伝する。そういう伝統があって、いまでもそらんじられない者は駄目だといった雰囲気があるのだから――」

こんなことを町田さんに聞いていただけに、インド人とのやりとりは僕にはおかしくてたまらなかった。口うるさいインド人も黙ってしまった。そのインド人の顔をじっと見つめて、「いいですね、分かりましたね」といった優しい笑みを浮かべて講演を終えた。寅さんと僕を相手に、怪談かいだんはなしをやったときと同じ話の運び方であり、間合いの取り方である。さすがに「オノマトペ」は使わなかったけれど。これを町田さんが、どうやって修得したのか、その秘密が分かったような気がした。

ただ理論や理屈だけでは国際的な場では渡り合えない。承伏(しょうふく)させることはできても、なかなか協力は得られまい。それぞれの国や民族の文化とか風土とか、そしてなによりも、その国やその民族の人たちに対する暖かい視線を持つことの大切さを、改めて思い知らされた。

その意味で、一概にシンガポールを厳しい管理社会だと決めつけることは間違いなのかも知れない。大部分を中国系が占め、実権を握っているけれども、その他の民族に対する配慮は日本人の想像を超える。 大多数を占める中国系住民がマレー系住民に指導されることを嫌い、一九六五年にマレーシアから分離独立し、シンガポール共和国が成立した。でも、もともとマレー人の土地であった事情から、政治の実権はリー・クアン・ユー首相以下、中国系の人たちに握られてはいるものの、大統領には中国系以外の人が選ばれることになっている。言葉もそうだ。国語はマレー語と定め、その上でマレー語、中国語、タミル語、英語の四ヶ国語を公用語とし、そして「行政上の用語」は英語にするという念の入れようである。実際に意味を持つ言葉には、いずれの民族のものでもない言葉を持ってきている。宗教も自由。そして国営放送もマレー語、中国語、タミル語、英語の四ヶ国語で放送している。

だから、管理が厳しい小さな島で、インド系住民は一割にも満たないのに、インド人街があって、そこでは、とてもシンガポールでは許されるとは思えない、道でゴロッと横になっている姿を見ることができるのだろう。

作家の白州正子が「名人は危うきに遊ぶ」(新潮社)の中で、「のう」の型に思いをめぐらし、最後に次のように締めくくっていた。

「人間は自由によって何一つしていない」とロダンはいった。また「鳩が空を飛べるのは空気の抵抗のせいだ」とは、たしかカントの言葉である。見かけ倒しの自由の中に道を失った現代人は、もう一度そこへ還って、本当の自由とは何であるか、見直して見るべきだと思う。(「能の型について」)

長い個室での闘病生活のとき、ロッド・スチュウアートが絞り出すように歌った「セイリング(Sailing)」を、よく口ずさんだものだ。ベッドから空を見上げ、あるいは窓越(まどご)しに暗闇(くらやみ)の中に輝く高層ビルを見ながら呟(つぶや)いた。「I am sailing, I am sailing………I am fying, I am flying like a bird cross the sky passing clouls to be near you, to be free………」

シンガポールを離れる前の最後の夕食を、町田さん、寅さんと僕の三人でとっているときだった。日が傾き、潮風に吹かれ、賑やかな会話が途絶えた一瞬だった。その途端、こんなことが一気に思い出され、噴き出した。

みんな、この店の名物の「ペッパークラブ」に夢中になっていた。黒胡椒くろこしょうで大きなかにを煮たもので、蟹が黒胡椒の実の中に埋まっている。とびっきり辛いけれど、不思議と蟹の甘さと良く合う。舌の中で、殻から出た蟹の柔らかい甘い肉と黒胡椒の辛さが混じり合う。絶品である。でも、黒胡椒の実をかじらないように注意しなければいけない。物思いにふけ,/rt>った瞬間、この大切なおきてを忘れてしまった。奥歯で「グキ」、途端に口の中は火の海。「ヒー。ヒュー。ヒヒヒヒー」僕にも、町田さんお得意の「オノマトペ」がうつってしまった。

一九九七年春 伴 友貴