ぼちぼちいこか(4)
共同体の力学

伴 勇貴(1997年04月)

食事を終えてホテルの部屋にもどり、テレビをつけた。ニュースステーションが始まっていた。話題はエイズ事件の阿部被告の元部下の証言だった。

なぜ安全性の高いクリオ製剤が開発されていたにもかかわらず使用しなかったのかという問いかけに対し、阿部被告が、かん高い声でクリオ製剤は注射器の針を詰まらせることがあって使いものにならないと主張していたことは忘れもしない。ヒステリックに、そんなものを使えば血友病患者の命に関わる問題であるといった発言を繰り返す姿を鮮明に覚えている。

ところが、元部下が、そんな事実は見たこともなければ聞いたこともなかったと証言したという。

阿部被告が血友病の治療で大きな貢献を果たしたことは分かるが、ことクリオ製剤に関する説明は、これではまるっきり違うのではないか、阿部被告は自分に反対する者は医学界に居られないようにしてやると凄んでいた、と久米宏が驚く。高成田亨が、どうなっているのかと困惑する。小宮悦子が医学界の体質はどうなっているのかと問いかける。それを久米は言いたかったことを先に言われてしまったと受け、ひとしきり小宮悦子と掛け合いを演ずる。いつもながらの軽妙な運びである。そして小宮に向けていた顔を正面に戻し、両手をやや肩幅より広めにテーブルにつけ、カメラに向かい改まった顔を作った。いつものパターンで、歌舞伎でいう「みえ見得」である。

「それでは次は行革です」と久米は話を切り換えた。三人に代わって、記者会見を行っている自民党の佐藤孝行が登場した。その画面を眺めながら、こうも軽いタッチで流されてしまったのでは堪らないと思った。

「白い巨塔」と呼ばれ、いくどとなく批判されてきた体質だ。いっこう改善される気配は見られないし、医学界ばかりか日本全体を覆っている。あの住専だって、全日空だって、このところ新聞を連日賑わしている野村証券や第一勧業銀行の問題だって無関係ではない。いま画面に流れている行革の問題だって大いに関係がある。怒ってうっぷん鬱憤を晴らすのも結構だが、怒って鬱憤を晴らせば晴らすほど、それで終わってしまうような気がする。だから怒って鬱憤の晴らそうとするのだが、どうしても立ち止まってしまう。

テレビというメディアの限界なのだろう。ニュースステーションでは歯切れの悪かった高成田も、つい先日、電子メールで次のように書いてきた。

「日本の行き詰まりは、大企業のシステムにあり、その根底にあるのは、封建制度が『近代』を経ないで、企業社会に移行したことに原因があるように思えてなりません。大学で、かろうじて学んだ経済思想として、もう一度、日本の会社主義という思想、信仰のありようについて、考えてみたいと思っています」

高成田が言っているように、いま求められるのは、体質という言葉で表されることの多い、問題の根底にあるものに対する洞察で、その一つの手掛かりは「信仰」とか「宗教」という言葉に潜んでいるようだ。組織や集団が、「てい」をなすために不可欠な諸要素と、それと個人との葛藤がもっとも純粋な形で観察できるように思われるからだ。

あの狂気に溢れたオウムは決して特異なものではない。オウムを破滅的な行動に駆り立てたは「共同体の力学」で、それはどんな組織や集団にも内在する。それがある一定以上の存在感を持ってくると、組織や集団の変容が顕在化し、問題を引き起こすのではないかと思う。どんな組織や集団も、そんな危うさや脆さを兼ね備えているとしか思えない。

我執と煩悩 ―― 問題を個人の未熟さに転嫁

若い頃、ヤマギシ会の共同体に参画した経験を持ち、その後、オウム事件に絡んで教職を追われた島田しまだ裕巳ひろみが反省を込めて宗教の諸要素――共同体、修行、生命主義、原理主義の持つ危うさについて書いている。(「宗教の時代とは何だったのか」講談社 一九九七年三月二十日 第一刷発行)

「ヤマギシ会の共同体で生活するなかで、行動の基準となっているのが、『我執がしゅう』という考え方である。人間は、それまでの経験や価値観、あるいは好き嫌いにとらわれることによって、客観性を失い、判断を誤りやすい。ヤマギシ会では、そういったとらわれを我執と呼び、我執からの解放を重視している。――この考え方は共感しやすかった。――恋の悩みに苦しんだことのある若者にとっては、我執というとらえ方は失恋や恋愛のもつれの原因を教えてくれるものに感じられた。――我執から解放されれば、恋に悩むこともない。私は特講を受講した直後、テレビで『風邪と共に去りぬ』の映画を見て、恋愛が我執にしか感じられず、映画がばかばかしく思えたことさえある」

我執がしゅうは、共同体で生活する人間の行動を律する、あるいは規制する尺度になる。個人は我執を捨てて、共同体の利害にかなう行動をうながされる。共同体全体の状況や雰囲気などが、その判断基準になる。個人は、つねに自分の言動が我執にもとづくものかどうかを気にしながら生活するようになる。主体性は奪われ、その生活は共同体にゆだねられるようになる。共同体の利害に反する行動をとる人間の態度を周囲が改めさせる際にも、我執という言葉が持ち出される。

このように島田は述懐し、続ける。

オウムの共同体では、ヤマギシ会の我執がしゅうの代わりに、煩悩ぼんのうという言葉が使われていた。いずれも、疑問を感じるのは、感じる側に問題があるからだという結論に持っていく役割を果たしていた。

「『それはあなたの考えであってグルの意志ではない』というオウムの言い方と、『あなたにはまだ執着する我がある。本物の生き方ができていないから、子供が暗い顔になるだ』と言うヤマギシ会における言い方は、問題を感じた個人の精神的な未熟さに帰着させようとする点で、共通性を持っている」

「その人間が精神的に調子が悪く、周囲から生活に打ちこんでいないと見なされると、我執や煩悩にとらわれている証拠として受け取られる。身体的な病や怪我であっても、精神のあり方の反映として解釈されることさえある。こういった状況の中では、個人はしだいに主体性を失っていく。そして、何か問題を感じたときにも、それには自分に理解できない重要な意味があるのではないかと考え、ひとまずそれを受け入れようとする」

修行とカリスマ性 ―― それを支える構造とメカニズム

我執がしゅう煩悩ぼんのうわざわいしていると指摘されることが、修行へと駆り立てる。その修行が共同体への帰属意識や主催者のカリスマ性を高めるのに大きな役割を果たしている、と島田は指摘する。

「自分の考えが残っているということは、修行が出来ていないことの明白な証拠であった。――これは修行者にとって強力な呪縛じゅばくであった」試練はすべて修行で、試練が困難であればあるほど修行としての意義は大きく、それを乗り越えることによってより深い信頼を得られると信じてしまう。そこでは、与えられた試練の意味を吟味するような余地はない。――このように元オウム出家者の高橋英利は語っているという。

そして、修行と主催者のカリスマ性について、次のように総括する。

「一般に、修行にとりつかれた人間は、体験を重ねれば重ねるほど、さらに新たな体験を求めるようになっていく。そうなると、修行はやがて苦行に行き着かざるをえない。苦しければ苦しいほど、達成感が大きいからだ。そして、苦行自体に快楽を感じていくようになる」――修行にとりつかれた人間は、主催者に、より厳しい苦行の機会を与えてくれることを望む。その関係は、精神的なサドとマゾの関係になぞらえた方が理解しやすい。

カリスマ性も、特定の個人に備わった能力や資質に基づくものと考えると判断を誤りかねない。個人の能力や資質よりも、集団の構造やメカニズムに注目しなければならない。オウムの場合で言えば、石井や村井のように、麻原に絶対ぜったい帰依きえする人間がいなければ、麻原は最終さいしゅう解脱者げだつしゃとして振る舞えなかったはずだ。彼らに感化されて、一般の信者は麻原を偉大なグルとしてあがめたのだろう。

「麻原に心の底から帰依きえしていない人間であっても、教団にグルイズムが成立していれば、それを無視することはできない。心のなかでは、麻原と自分とはそれほど大きくは違わないと考えていたとしても、その気持ちを表に出すことはできない。少なくとも帰依している『ふり』はしなければならない」

その代表的な人物は、あのじょうゆうだろう、と島田は回顧する。

ややくどいし、とりわけ目新しい指摘ではないが、ヤマギシ会それにオウムと挫折を繰り返した島田の証言だけになまなましい。我慢して読んでいると、切々たる島田の思いが伝わってくる。

日本の風土は「共同体の力学」に寛容

毎日、社訓を大声で合唱し、みんなの前で営業成績の上がらないことを自己反省する。涙ながらに自分の生い立ちから自分の弱点などを語って自己をさらけ出す。その上で、新たに目標を立て、その達成を誓う。みんなが、それを頑張れと激励する。社長や上司は親で、部下は子供などと言って、連帯感や一体感を強調する。一同、感涙にむせびながら、かけ声をかけ合って終わる。

もう完全に精神医療で言う集団心理療法の世界である。急成長企業の秘密などと称し、そんな光景が、やや賞賛をもって紹介されるのをテレビでも見たことがある。島田の本を読みながら、それを思いだした。「共同体の力学」そのものの世界だ。ヘッドギアかぶって一心に修行に努めるオウム出家者たちの映像とダブって浮かんできた。

こんな企業が社員にやる気を起こさせる企業ということで注目され、雑誌などでも紹介された。それも一社や二社のことではない。つい最近、強引な販売で批判を浴びた朝日ソーラーも、問題が表面化する直前まで、マスコミで、もてはやされていた。西田敏之が登場する派手なテレビ・コマーシャルで売るワ、上場するワで、脚光を浴びていた。トヨタも、同社の販売力に期待するとして、住宅分野での業務提携を誇らしげに発表したばかりだった。

ところが朝日ソーラーが批判の的になったとたんに、西田敏之は謝るし、トヨタも困り果てていると報道された。問題を犯しやすい危うい体質の企業であることぐらいチョッと考えれば分かるはずだ。それが分からなかったと弁解するようでは、オウムに深入りしてしまった島田裕巳と同じである。

西田はともかく、トヨダという日本最大の企業までが見誤ってしまったのは、どうしか。日本は「共同体の力学」に対して寛容な風土であるとしか思えない。

程度の差こそあれ、日本には「会社教」がまんえん蔓延していることと無関係ではあるまい。「会社教」の神髄は社員の「動機付け」と「忠誠心」。それを重視する経営が「共同体の力学」を必要とし、その助けを得て社員を滅私奉公型の会社人間へと駆り立てている。この土壌があるから、「共同体の力学」に対して、日本は寛容というか鈍感なのだろう。

一九九七年春 伴 友貴