ぼちぼちいこか(3)
美しさに対する感性

伴 勇貴(1997年04月)

「美しくないものはおかしい。どこか間違っている。だから美しいものを美しいと感じる感性を持つことが大切だ」こう言われて、突然、ギリシャ彫刻のデッサンを延々とやらされた。木炭で汚し、パン屑をまき散らしながらだ。それが大学の流体力学の講座の一環だった。何と言うことだ、と思いながらもデッサンそのものは嫌いではなかったのでやった。高校時代に芸大進学を勧められたこともあったぐらいだから、嫌なはずがない。

それから一年あまり後、ある機械の設計を行った。面倒な理論方程式を導き出し、計算尺で数値計算を行い、その結果をもとに図面を仕上げ、提出した。そうしたところ、ただ一言「この部分、不自然だな―」とつぶやかれた。流体力学・構造力学の大家で、某大手企業の役員をしながら講師として教えていた人だ。

設計したものは、まだ日本ではほとんど知られていない液体ロケット・エンジン用のポンプだ。米国から入手した、わずかな資料や写真などを手掛かりに、同僚と励ましあいながら仕上げたものだ。もちろん、その間、先生たちが、指導してくれるとか、教えてくれるということなどはない。「不自然だな―」と呟いた大家も知らないものだった。それは、「これは何に使うの?」と聞かれて説明したときの対応で明らかだった。それで「よく知りもしないのに――」と内心で反発を感じながら、不承不承、計算をチェックしてみた。すると間違いがあった。間違いを正し、図面を書き直して持っていったところ、これまた一言「うん。良いだろう」。直した理由も聞かなければ、とくに良いという理由も説明してくれない。

しばらくして、その大家から、物の周囲の流体の流れ、物の中を伝わる力の流れが、目に浮かび、そこにとどこお滞りがあるように感じられる場合には、どこか誤りがあるものだ、という話を聞いた。とどこおりがあると美しくない。美しいかどうか、不自然でないかどうか、それが判断の基準になるということだった。

それから三十年あまりが経過した。気がつくと、自分も、なんとなく「美しいかどうか」という感覚で物事を判断するようなっていた。振り返ると、これまでの間に、実に、いろいろなことがあった。某大手機械メーカーの役員と、ある機械部品の加工方法が話題になったことがある。話を聞きながら変だと思った。その部品の形状と、その加工時に工具に加わる力のイメージを重ね合わせると、どうしても妙である。もどって、ようやく使いモノになってきたパソコンを使って計算した。やっぱり変だった。工具に加わる力があまりにも大きく変動する。不自然である。しかし、機械の制御方法をちょっと変えれば、すべてが無理なく美しくなる。すごく単純なことだった。

その結果を話題提供の主の某大手機械メーカーの役員に話した。おかしい理由と改良方法について説明したところ、「いや―。いいところに目を付けましたね。実は、今、その点を考慮した機械を開発しているところなんですよ」という返事が直ちに戻ってきた。「やっぱり。そうですか―」と、ちょっと勇んでいた気持ちをくじかれてしまった。

それから数年後のことだ。「あの時はお世話になりました。すぐに、あの言葉をヒントに開発をしたんですが、その機械が大ヒットで、たくさん売れました。米国にも輸出しました。二百台以上も輸出したと思います」と、くだんの役員がシラッとして言う。新製品としてちょっと話題になった、一台二千万円ぐらいの機械だった。すっかり忘れていたのだけれど、瞬間的に「貸し!」という言葉が出てきた。そしたら「借り!」と即座に戻ってきた。笑い出してしまった。今も変わらぬ良き先達である。

余談だが、その後、またちょっとした制御方式のアイデアがひらめいたので、話をしたところ、今度は「それはいける。特許を出したほうが良い。取れるよ!」と言う。でも、それだけで良い気分になってしまい、まだ特許出願はしてはいない。

その二。「時間を作って見に来て下さい」ある大手メーカーの役員からの電話である。まだ日本に一、二台しかないという外国製の新しい装置があるという。持っていることも業界では秘密になっている。コンセプトはなかなかのものだった。でも、その仕組みを聞くと、機構上の不安ばかりが頭をよぎる。頼み込んで、装置の機構の心臓部をのぞかせてもらった。案の定、デジタル処理プロセスのスマートとは裏腹に、それを具現化する機構は技術的にまったく未成熟のものだった。

「ここに相当に手を入れないと実用にならなんじゃないでしょうか」

「そう思います?」

「ええ」

「でも、ここには手を触れさせてくれないんですよ」

「それじゃ駄目だと思いますよ。きっと保守ばかりに手間が掛かって」

「そうですか。いろいろやっているんですけれど、なかなかうまく行かないんですよ。外国では非常に評判が良く、もう商売になっていると聞くんですが。でも、やっぱり、そう思いますか」

それから数ヶ月後、この装置が脚光を浴びた。開発した外国メーカーは米国市場で上場を果たし、評判になった。それで気になって、役員に電話を入れた。

「あれが本当に使いモノになったのですか。それで何台入れるんですか」

「評判にはなっているんで、入れない訳にはいかず、入れますが、いいとこ数台で止めときます。ここだけの話ですがね。将来を考えて、勉強のつもりで入れます」

「そうですね。いずれ、こういう機械が実用化するのは間違いないでしょう。それに備えて勉強するという割り切りなのであれば、安心しました」

そんなやり取りをして電話を終えた。ともかく一台二億円ぐらいする高価な装置だったからである。その後、別の日本の大手メーカーが、その装置の国内販売を手掛けることになったなどと報じられたけれど、それが最後で、それから三年も経たないうちに、その装置についても、その装置を開発した外国メーカーについても、すっかり話を聞かなくなってしまった。

「やあ、完全に負けました」

この間、僕のところに訪ねてきた友人のアメリカ人が切り出した。この装置を開発したメーカーが米国市場で上場を果たした時、絶対にもうかるから投資しろとしつこく主張した人物である。無理なら日本企業を紹介してくれ、自分が口説くからと言い張った。「駄目だ。絶対に駄目だ。モノにならない」と主張する僕と意見が合わず、彼は独自に資金を集めて投資した。それで相当に損をしたらしい。彼との勝負では、これで三連勝である。

この友人は僕が判断を下した根拠を教えろと迫った。「美しさ」と言って、その説明をしようと思ったけれど、止めた。彼のバックには、それこそMIT出身の専門家などが大勢控えている。そんな連中とやり合うつもりはない。「フィーリング、フィーリングだよ。それだけだよ」と言ってごまかした。

その三。ある大手電子機器メーカーにデジタル衛星通信受信装置の開発を依頼した。システム設計やソフト開発や簡単なボード開発ぐらいならばともかく、デジタル受信機まるごととなると手に負えないからだ。それも開発中のシステムの端末として何千台も使う予定のものだったからである。「試作品が出来てきましたよ」という報告があった。それを聞き、打ち合わせを中座し、会議室に行った。すでに部屋にはメーカーのエンジニアを含め、六、七人が集まっていた。

「エエー。これじゃや駄目だよ」ケースが外されて机の上に載せられていた機器を覗き込んで、直ぐに叫んでしまった。隣にいた仲間の古参のエンジニアの顔を見ながら「ギガ帯という超高周波の電波を扱うのに、こんなんじゃノイズ拾って話にならないよね」と、同意を求めた。

「ううん――。そうですね。難しいかもしれませんね」「でも、ともかく動かしてみなければ」彼は極めてシャイな上に、慎重で口数も少ない。

しかし、結果は懸念した通りだった。それで仲間の古参のエンジニアと話したこと。

「何で、あんな設計するのだろう。基本の基本じゃないか。見ればノイズを拾うことぐらい分かりそうなものだ。高周波増幅回路を持つ真空管式ラジオも作ったことがあれば、一発で分かるだろうに………」

「そうですよね。そんなことも確認もしないで、もう型を起こしてプリント基板を量産する運びになっているという。どうするのでしょう。全部やり直しですよ」

「上司に分かる人がいないのかな。回路の論理設計が終われば、それでモノができると思うような人が増えているらしいが、困ったものだ。だからデジタルしかやっていない世代は困る」

「大会社なのだから、分かる人が居ても良さそうなんですけれどね――」

それから一週間も経たないことだ。その大手電子機器メーカーが無線技術者を緊急に求めているという、かなり大きい新聞記事が日刊紙の朝刊に載った。けっこう目立つ記事だった。あの問題になった装置に関連する技術を持つ経験者の募集であることは間違いなかった。

「やっぱり人がいないんだ。きっと甘く見ていたに違いない。でも、これで開発はなんとか成功するだろう」そう言って、大笑いになった。

デジタル世界で育った若い多くの技術者は、どうも回路の論理設計が終われば、後はCAD図面通りにプリント配線板を作り、それに部品を実装すれば、大過なく機器は作動すると思っているようだ。そいうタイプの技術者が幅を利かしているようだ。配線の中に電流が流れ、それが猛烈に変化する。それに伴って部品や配線の周囲の磁界・電界も猛烈に変化する。それが隣接する配線などにノイズなどを誘導する。決して0と1との組み合わせだけの綺麗なデジタルの世界ではなく、アナログの世界である。しかし、こうした電磁気学の基本をあまり考えなくなっているらしい。論理だけではなく、部品の配置や配線などに注意しなければならないのだが、すべてCADまかせらしい。

普通のものなら、多分、それで問題はないのだろう。しかし、ちょっとでCADでは想定されていないような条件だと、論理は間違ってはいないのだけれど、きちんと作動しないものになってしまう可能性がある。真空管式のラジオやアンプなどで苦労していれば、目に見えない電流や磁界や電界の流れが、部品と配線を見るだけで浮かんでくるはずである。それが美しく取り扱われていれば、大きな問題は起こらない。でも、基本を誤ると部品の配置から配線まですべてやり直さなければならなくなる。

デジタルの論理の世界を離れての想像力が働かないようだ。その後、デジタル衛星通信受信機の開発は全面的にやり直し、さらに何回もの手直しを経て完成された。開発を請け負った大手電子機器メーカーにとって、この開発は極めて良い教材になったことは想像にかたくない。この開発されたデジタル衛星受信機はある展示会に誇らしげに出品されていた。その後、同社では類似機器の開発も続けられている。同社発表の新製品記事を読むに度に、あの最初の驚きを思い出す。

その四。「なんだい、あの流体の温度を測定するために取り付けられた温度計の形状は。あれでは流体の流れの下流に渦が発生し、渦の発生に伴う圧力変動で温度計は繰り返し応力を受け、そのため金属疲労でこわれてしまう。これは初歩的なミスもミス。強度計算を云々する以前の形状の問題である。

いちもくりょうぜん一目瞭然で、流体力学の素人が設計したとしか思えない。流れの中の円柱の後ろには、必ず対象渦とか交互渦など様々なタイプの渦が発生する。有名なのは交互に発生する「カルマン渦」と呼ばれるものだ。そして渦が発生すれば、渦の発生に伴う圧力変動で円柱は繰り返し応力を受けることになる。こんなことは流程力学では常識である。

それでも流体が空気やただの水などならまだしも、相手は溶解した金属ナトリウムである。

円柱状の温度計が溶解金属ナトリウムの流れの中に垂直に立っている姿と、その円柱の後ろに発生する溶解金属ナトリウムの渦を思い浮かべると恐ろしくなる。比重は水より軽いとは言っても、粘性は水より大きいはずである。渦の発生に伴い、円柱は振動する。共振すれば、その振幅はさらに大きくなる。風速数メートルでも共振のためアメリカで吊り橋が落下したのは有名だ。振動で温度計の取り付け部分に金属疲労が起こり、ついには破損する。そんな可能性を残す設計を、最も安全性を求められる原子力発電所で行われていたなんて信じられない」

動燃の「もんじゅ」の事故をテレビで見て絶句し、こんなことを叫んだ。こんな自明の理のことを専門家とか評論家という人が出演し、ああでもない、こうでもないと言っていた。怒りを通り越し、滑稽

こっけいに思えた。直ぐに「しまった」と気付いた人たちがいるはずだ。少なくとも製作したメーカーの何人かは分かった違いない。先のデジタル衛星受信機の開発と同じで、計算の結果の如何いかんにかかわらず、図面などを眺めて、そのイメージから、ちょっと変ではないかとチェックするような人が居なくなってしまったのだろうか。図面を眺めて気になるからと、再チェックを指示するのに一秒も掛からないと思うのだが――。

数ヶ月後、事故調査委員会の正式報告として、流れの中に挿入された円柱状の温度計によって、その下流に渦が発生し、その渦ため温度計の取り付け部分が振動し、そのため金属疲労が起こり破損したと発表された。いかにも予測できなかったかのような説明だった。それで終わりである。マスコミも黙っている。しかし、そんな説明で、流体力学に関する知識を持っている人が承伏するはずがない。重大なミスのはずである。それを重大なミスではないと言うのであれば、本当に予測不可能なものであったと言うのであれば、そんなセンスのない、美醜の分からない技術者たちに任せていては、いったい、次にどういうものを作り出されるのか怖くなる。


こうした技術分野での「美しさ」に対する感性は、電子機器や機械の設計だけではなく、システムやソフトウェアの開発にも、肝心のところで求められることが多い。理論に裏打ちされたセンスが求められる。これは知識ではない。やはり「感性」と呼ぶほうがふさわしい。

「そりゃ感性で、生まれつきの天性のものだ。感性というかカンというか。それがいいヤツは、どの分野でも、何をやらしても、間違いないものだ」もう亡くなられた、ある大手機械メーカーの社長が言った。

「そりゃあ教育じゃない。天性だ。それを備えた者を探すしかない」

「俺は、このことを大勢の人間を使って体得した。カンのいいヤツか、そうでないヤツか。それが直ぐに分かるようになった」

声を一段と強めて言った。

最近、この亡くなった社長が折に触れて語ったいろいろな言葉を思い出すことが多い。技術についても、経営についても、あれほど研ぎ澄まされた感覚を持ったトップに会ったことはない。 若くして亡くなっただけに惜しまれる。時間を作って、墓参りに行きたいと思う。

一九九七年春 伴 友貴