ぼちぼちいこか(1)
更級蕎麦 麻布十番

伴 勇貴(1997年04月)

「小銭だ。間違えるといけねからね、手ぇだしてくんねえ」

「へえ、これにいただきます」

「そうかい。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、何時だい」

「へえ、四つで」

「五つ、六つ、七つ、八つ、………」

夜鳴きそばを呼び止め、食べ終えたあと、勘定を小銭で払う。一つ、二つ、三つと数え、八つまで数えたところで時刻を聞く。九つ(零時ごろ)とそば屋が答えると、とう、十一、十二と続け、一文ごまかして行ってしまう。これを見ていたぼおっとした男が自分も真似ようと、小銭を用意して、翌晩、そば屋を呼び止める。ところが時刻は四つ(午後十時ごろ)で早すぎた。それで損をしてしまう。有名な「時そば」という落語である。

もともと「時うどん」というかみがた上方落語であったものを明治の中頃に三代目柳家小さんがうどんを蕎麦そばに変えて東京に移したそうだ。大阪はうどん、東京は蕎麦というけれど、その蕎麦そのものもそうだった。そば粉をこねて薄く延ばし、細く切る――「そば切り」、いま普通に言う蕎麦は、江戸初期に朝鮮半島から渡ってきた僧の元珍が東大寺にきて教えた。蕎麦のつなぎに小麦粉を加えて、初めて蕎麦の麺を作ってみせたという。その技術が奈良から木曽路を通って江戸に伝えられた。

寛永(一六二四~一六四四年)の末ごろにはつじう辻売りが現れ、一八世紀初めごろには、そば屋が江戸の各所で見られたという。それ以来の伝統を持つ東京である。やぶ系、更科さらしな系、砂場すなば系と三軒のそば屋が並んでも商売が成り立つと言われる。そば汁が、一般にしょっぱいのが藪系で、甘いのが更科系、その中間が砂場系で、客の好みがはっきり分かれるからだ。

江戸時代は、やぶ系は職人好み、更科さらしな系はお屋敷町の出前中心、砂場すなば系はもっぱら町人相手だったそうで、その味の違いがいまに繋がっている。そば汁だけではない。蕎麦そばそのものにもかなりの差がある。やぶ蕎麦そばと言うとソバの実の皮も一緒にひ 挽いた粉を使った蕎麦、更科蕎麦と言うと「さらしな」と呼ばれるソバの実の中心部だけを挽いた白いそば粉、さらしな粉で作った蕎麦が浮かんでくる。蕎麦が好きな者なら、一言あるところだ。

この三系統の中で、藪系と市場を二分する勢いを持っている更科系のそば屋の発祥の地が麻布である。「『更科』は江戸麻布(港区)の永坂にできた『信州更科蕎麦処』と看板を掲げた店が最初で、産地からの直接販売を売り物にしたのがはやり、江戸全体に広がったといわれる」(日本大百科全書 小学館)。

いまも、この更科蕎麦を売り物にするそば屋が、麻布十番かいわい界隈に三軒ある。「麻布永坂更科本店」、「永坂更科布屋太兵衛麻布総本店」それと「総本家更科堀井」が張り合っている。麻布十番の名物になっている。

いずれもしにせ老舗の雰囲気で、そこにきて三軒はそれぞれ「本店」「総本店」「総本家」と名乗っている。いやが上にも、どの店が正真正銘のしにせ老舗なのかと想像力をかき立てられる。広辞苑(岩波書店)をみると「本店」は「営業の本拠である店」、「総本家」は「多くの分家の分れ出たもとの家」とある。いっぽう「デイリーコンサイス和英辞典」(三省堂)をみると「本店」と「総本店」は、いずれもhead officeで、「総本家」はoriginatorとある。こうしてみると「総本家」という名称を使っている「更科堀井」が由緒ゆいしょただしい老舗しにせのように思うけれども、正直なところ、似たり寄ったりで、わかりにくい。

「あっちの店が直系らしい。蕎麦が旨いし、汁も何とも言えない」

「いや、こっちの店が本物だそうだ。蕎麦がぜんぜん違うよ」

「あの店はここから別れた店。ここが本当の老舗しにせ。違いがわからなくちゃ―」

こんな会話が繰り返されることになる。でも、定かなことは分からない。それぞれの店の説明に頼らざるを得ない。蕎麦や汁の味は微妙に違う。それが「つう通」を自称する人や馴染なじみを巻き込み、「本店」「総本店」「総本家」論争に拍車をかけている。「旨い店」情報を追っかけているマスコミも巻き込まれている。そのせかどうかわからいけれど、どの店も繁盛している。なかなか高度な営業戦略だと思えなくもない。

昼めし時は、大変である。社長や重役らしき人が、運転手を待たせて食べに来ている。若い女性同伴の初老も少なくない。すぐにそれとわかる黒塗りの高級車が店近くの路上を占拠している。ベンツで乗り付ける一見してそれらしい風体の人も結構くる。ドッとドアを開けて降りてくる。そうなると駐車違反も何もあったものじゃない。ブラウン管で見慣れた人もよく見かける。グルメ探訪の中年女性のグループもいる。そんなこんなで満員で、長い行列ができている。それが日常の光景になっている。なかでは行儀良く、蕎麦を音を立てながら食べている。彼岸ひがんのころは、法事の帰りとすぐわかる喪服姿の人たちの一群で溢れている。ともかく三軒ともが、こんな状況なのである。

「麻布永坂更科本店」

三軒のなかで、もっとも目立つ場所にあるのが、高速道路が通っている新一しんいちの橋の交差点の角にある「麻布永坂更科本店」(港区麻布十番一―二―七)。溜池方面から来て新一の橋の交差点の手前、すぐ右側の坂の下の角にある。目立つ大きな建物で、駐車場もある。店内も綺麗で、テーブルや椅子や調度類も落ち着いていて、雰囲気は悪くない。二階もあって余裕がある。和服姿に身を固めた中年の女性店員が、女将の目を気にしながらテキパキと働いている。女将も年をとったけれども、相変わらず愛想はよく、帳場から指揮をしている。サービスという面では三店の中で一番だろう。

「ハイ、三万五千円いただきます」

「それではこれで」と一万円札を出す。

「ハイ、十万円お預かり。おつり六万五千円。大金持ちなんだから―もう」

「何また言ってんの――。そっちこそもうかってしょうがないでしょう」

わずか数十秒のやりとりである。ここの女将は、昼の混雑が一段落した後に行くと、なぜか、こう一桁多い金額を言いながら、ふざける。このやりとりを十年一日のようにやる。

ここでのおすす薦めはたねもの種物と一品もの。なかでもおろし蕎麦(冷たいものと暖かいもの)はいい。でも、定番のざる蕎麦などは、汁が今ひとつ物足りない。昔と比べて、味が少し変わったような気がする。蕎麦そば懐石かいせき。これは、試したのは一回だけれど、費用効果を考えると、お薦めしかねる。ちなみにホームページ『東京おいしい店リスト』(http://www.ckp.satonao/tokyo.html)のコメントは「ここは一品ものが充実している。焼き海苔、アジ二杯酢、つみれ、あんきもなどをつまみつつ熱燗あつかんをやるのが正解。蕎麦は更科の典型でさっぱりしているが、ワサビがいただけない」というもの。評点は十点満点で七点。

永坂にもっとも近いところに店を構えているし、この「麻布永坂」が直系と思ったことがあった。でも、店のパンフレットのどこにも江戸時代に麻布永坂に開かれた「信州更科蕎麦処」との関係は触れられていない。他の二店が、それを大きな売り物にしているのとは対照的である。場所も名前も一番それらしいけれど、血筋はよくわからない。

「永坂更科布屋太兵衛麻布総本店」

いっぽう「永坂更科布屋太兵衛麻布総本店」と「総本家更科堀井」の両店は、ともに江戸時代に麻布永坂で「信州更科蕎麦処」の看板を掲げて開店した老舗しにせであることを強調している。寛政元年(一七八九年)、蕎麦打ち上手として知られた信州の反物商たんものしょう・布屋太兵衛が領主・保科兵部小輔の勧めで転業したのが始まり。布屋太兵衛の祖先は、その百年あまり前の元禄初めに反物商として領主に招かれ、その江戸屋敷内(麻布十番長屋)に住むようになったという。

「今日は本物の蕎麦を食べに行こう」

「どこだよ?」

「麻布十番にある店だよ」

「ええー。遠いじゃんか」

初めて麻布十番で更科さらしな蕎麦そばを食べたのは、今から三十年あまり前のことで、店は「永坂更科」(港区麻布十番一―八―七)だった。鳥居坂下の、いま地下鉄工事が行われている大通りから下って、二本なかに入った麻布十番通りの真ん中まんなか付近の角にある。一緒によく遊んでいたHに誘われてだ。いまも不便な場所だけれど、当時もえらいところだと感じた。でも「本当に旨いから」という言葉には勝てない。タクシーで乗りつけた。

白くてやや細い「御前おまえ蕎麦そば」と、甘汁と辛汁とを好みに応じてあんばい塩梅して作るそば汁は新鮮で、たしかにうまかった。四枚を軽くたいらげた。旨いこと、一枚の量がやけに少ないこと、そしてHが商店街にある何気ない雰囲気のそば屋の引き戸に手をかけながら得意げに「ここが本家本元だよ」と言ったのを、いまも鮮やかに憶えている。あの茶目っ気たっぷりの気のいい慶応ボーイのHは婿養子となって、今は名門大手企業の社長におさまっている。

以来、ちょっと気張ったときには行くようになった。甘汁を使って焼き上げるダシ巻きをさかな熱燗あつかんで一杯やるのは悪くなかった。今では飲まないけれど――。

で、初めに触れた「麻布永坂」に通うようになったのは、それからだいぶ後のことである。店構えは立派だし、場所も引っ込んだ麻布十番通りの「永坂更科」よりも目立つ表通りの角にあり、気になっていた。それで「永坂更科」が混んでいて入れなかったときに飛び込んだ。十数年前のことだ。そしたらまあまあだったので、混み具合で、この二軒のどちらかに行くというのが習慣になった。

これに三軒目の「更科堀井」が加わったのは、この六、七年のことである。麻布十番通りを歩いて、ふと気がついて何気なく入った。それが旨かった。以来、この三軒のいずれかに足を運ぶようになった。

「総本家更科堀井」

「一番旨いのは更科堀井だよ。それに、あそこが直系だよ」

こう言ったのは友人のたかのはじめ高野孟である。テレビ出演に講演に「インサーダー」の執筆にと、いまだに超人的スケジュールをこなす高野の事務所からもっとも近いところにある。でも、それが理由という訳だけではなさそうである。高野は旨い店があると聞けば、平気で遠くて不便なところに飛んでいくからだ。とくに意識はしなかったけれど、言われてみれば、たしかに旨いことは旨い。

そば汁は甘汁と辛汁を好みで混ぜる。「永坂更科」と同じで、そば汁はなかなかいい。蕎麦は心持ち「永坂更科」よりも腰がある。それに熱々でカラッとした揚げたてのかき揚げを別に持ってくる、「かき揚げ天ぷら蕎麦」は絶品ぜっぴんである。もう姿を見なくなってしまったけれども、腰の曲がった女将おかみが帳場に座っていたのも風情があって好きだった。今は娘が代わって座っている。

この娘が、またハッキリとし、テキパキしている。そば屋に合っている。混んでいるときには、下手すると「食べさせてやっている」という顔をする「永坂更科」より、店員の対応もずっといい。この「総本家更科堀井」(港区元麻布三―十一―四)は麻布十番通りを六本木方面に向かって歩いていって、十番温泉を通り過ぎたところにある。間口が狭く、奥行きの深い店である。


改めていったい、この三軒のそば屋はどういう関係にあるのかと気になり始めた。愛読雑誌の一つ中高年向けの「サライ」(小学館)に記事が載っていたことを思い出し、調べたところ、やはり高野の言う通り、血筋では「総本家更科堀井」に分がありそうだった。

以前は「永坂更科布屋太兵衛」の当主は「信州更科蕎麦処」を開店した布屋太兵衛の九代目と紹介していたけれど(一九九五年五月十八日号)、その後「総本家更科堀井」の当主が布屋太兵衛の直系だと書いていた(一九九七年二月二十日号)。もっとも、そう書いてあるだけで、詳しいことはわからない。きっと老舗しにせなのだから、何か由来を書いたものがあるに違いない。気になり出すと、気になって仕方がない。

「そんなら貰ってきてあげるよ。ついでだから」

「永坂更科」で「御前おまえ蕎麦そば」を食べたあと友人の作家の杉田望が気軽に言った。「御前蕎麦」とは、白い「さらしな粉」で打った、さっぱりした味の蕎麦で、ここの看板メニューである。帳場の横から持ってきた「永坂更科のしおり」を見ながら、「やっぱり由来がいろいろ書いてある。ほかの店のも見ればもっと分かるだろうな―」と僕が呟いたのを聞いてのことだ。

杉田は自慢の愛車、イギリス製の赤い折り畳み式の自転車に乗っている。たしかに、それで行けば、ほんのひとっ走りである。今日は僕のおごりだったし、ちょっと近くの店で済ませたい用事もあった。

「じゃ―悪いけれどお願いするよ」と、杉田に甘えることにした。ジーパンにトレーナー。リュックを背負って、颯爽さっそうと赤いイギリス製小型自転車で麻布十番通りを行く杉田の後ろ姿は、年齢ねんれい不詳ふしょう職業しょくぎょう不詳ふしょうで、とても五十歳過ぎの小説家には見えない。

杉田から手渡された小冊子「更科八代目そば」で疑問は解けた。やはり直系は「更科堀井」だった。今まで分からなかった「更科堀井」の「堀井」の意味も分かった。

明治八年(一八七五年)名字必称の令により、職業にちなんだ屋号『布屋』改め『堀井』を名のり、五代目より堀井太兵衛として伝統の更科そばを今日に伝えております。――創業二百年、変わらぬ老舗の美味を今、直系八代目、堀井太兵衛の総本家更科堀井でお楽しみいただけます。


旨いものを気分良く安く食べさせてくれる。それが一番で、直系だろうが、なかろうが、どうでも良い。これが本音である。でも当事者はそういう訳にはいかないのだろう。「更科堀井」だって、こうまで直系だと言い張らなくても良いように思える。「永坂更科」だってそうだ。言うに事欠いて、おやっと思う説明までつけ加えている。

時の領主のすすめで故郷の更級郡の「更」と領主保科家の「科」を賜り、それに永坂の地名をつけ加え、「永坂更科」と命名されたのが、当社屋号のゆかりでございます。

もっともらしいが、ちょっと調べて見れば、古来、信濃国更級郡は更科郡とも書かれていたぐらいのことは分かる。平城京出土品の木簡には「更科郡」とあるし、一六八八年、芭蕉ばしょうが尾張から木曽路を通り信濃国更級郡にある姥捨山うばすてやまの月見に行ったときの俳諧紀行が有名な「更科紀行」だ。階段状の水田に映る「たごと田毎の月」などで有名なところだ。いずれも「信州更科蕎麦所」の看板が江戸麻布の永坂に掲げられる前の話である。

素直に「更科さらしな蕎麦そば」とは

(一)更科さらしなから産する蕎麦。上等な蕎麦として名高い。

(二)蕎麦の実の中心部だけをいて白いそば粉「さらしな粉」で作った蕎麦。

この両方の意味を持っていると解釈するべきだろう。直系論争で「永坂更科」が苦しい立場にあるのだろうけれども、それで焦って妙なことを口走らないことだ。

「面影やうば姥ひとり泣く月の友」(芭蕉)

歩けない老人を奥山に捨てるといううばすてやま姥捨山にまつわる伝説に思いを寄せての句だ。透き通った夜空に浮かぶ大きな月。その月明かりの中かで一人泣く捨てられた老婆。旨い旨いと賑わう店のなかで、その蕎麦のふるさと故郷に思いをは 馳せ、ふっともの悲しい気持ちに襲われる年齢になっている。

一九九七年春 伴 友貴