幕末維新に生まれた金属活字(8/8)

河野通

資金面では、大鳥は幕府(江川塾)により、木村は島津藩から(後には自己のに資金で賄い)、島は大学から資金を支給されている。29 本木はW・ガンブルの招聘は官費によったが、独立後は友人に出費を仰ぎ30、五代友厚からは前受金として支給を受けた。31

最後にマネジメントについてであるが、本木活字のみが残り、他は消滅した要因は、本木昌造自身の事業化への視点もさることながら平野富二の存在が大きい。本木は、自己の不得手な経営面をすべて平野に委ねたのである。

平野は冗費を省き、人員を有効に編成し、組織の役割と責任を明確にし、品質基準を定め不良品を排除した。その結果、コストは下がり、利益を増やすことができた。32 また優秀な技術者を集め33、積極的に人材を各地に派遣して販売網を拡充した。34 また単に活字の販売のみならず、印刷の需要に応じ、さらに印刷機の製造販売にも乗り出した。35 

本木と平野は、活字の完成を出発点として技術を公開し36、事業を飛躍させた。このことが、今日、本木昌造が日本の活字の父と言われる所以であろう。このことは、現在のデジタル化による情報革命の下でのベンチャービジネスの興亡についてもいることであろう。