時空の漂白 73      PDF (2011年12月16日) 

日本の空を日本の翼で              岡松壮三郎  

日本初の中型旅客機YS-11と日本航空機製造(株)

はじめに

わが家に、YS-11、2機が飛んでいる。1機は01号機、もう1機はJA 8741号機、勿論、模型であるが、東日本大災害で1機は棚から墜落し、翼が壊れたが直ちに修理が施され立派に就航している。

自分の通産省勤務の中で最も長く在籍したのが航空機武器課(昭和42年7月〜45年7月)である。ほぼ3年いた。その間、加藤博男課長、山野登課長の補佐としてYS─11の輸出案件、日本航空機製造株式会社(NAMC)の経営全般などに関与しただけに極めて思い入れがある。

わが家のYS─11のうち1機は、この課を去る時、思い出の品として頂いた。もう1機は後日、NAMCが解散した時、社内にあったものをNAMCに深く関係した人への記念の品として贈られたものである。

いつの日からか当時のNAMC課長連による私を囲む「岡松会」ができ、毎年年末近くに集まるのが例である。最初は10名で始まったが、残念なことに、1人欠け、また、1人欠けで目下7名の会になっている。やむえないこととはいえ寂しい限りである。これには当時New York在の国際営業課長だった伊藤健之助氏、当時、調達課長だった島津製作所前会長の矢嶋英敬氏ら参加して下さっている。

YS─11の生い立ち

民間航空機産業政策史として、やはりYS─11の生い立ちに一言触れておきたい。(これはもちろん筆者の同課着任前のことである。)

わが国の航空機工業は、終戦後の禁止令が解かれ、昭和27年4月に再開された。昭和31年重工業局航空機武器課長に就任した赤澤彰一氏は「航空機工業の再建のためには、わが国の民間航空、防衛、輸出に共通的に役立つ純国産輸送機を開発する必要性を力説し、32年度を初年度とする4〜5年の長期計画」を打ち出した。

この構想を実現するため、メーカー各社、ユーザー各社、また、関係省庁(運輸省、防衛庁、科技庁(航空技術研究所))との精力的な話し合いが繰り返しもたれ、後のYS─11として実現していく。翌32年に鉱工業技術研究補助金3500万円が認められ、「(財) 輸送機設計研究協会」(これが後にY、Sの起源となった)が発足、「5人のサムライ」と呼ばれた方々(堀越二郎、太田稔、菊原静男、土井武夫、木村秀政)が設計に携われた。

この方々から「航空機の設計は、自分で新しくクリエートするものだから、根本的にはアイデアが物を言うが、年齢的に60歳を過ぎたらもうダメだ」といった趣旨の話しが赤澤課長の耳に入り、これら50歳台の有能な設計者たちの意欲が枯渇しないうちにということもあり、踏み切らせた、と言われている。

(この項は梅沢喬二氏著「翼はよみがえったYS─11、国産プロップ・ジェット旅客機完成の記録昭和39年」に負う。同氏は日本航空新聞社の記者でほとんど毎日、航空機武器課に顔を出し情報収集していた。)

設計案として、国内需要を考え、①1200mという短距離離着陸性(STOL性)、②航続距離800〜1200一㎞、③60人乗り、④低翼、⑤双発ターボ・プロップ・エンジンなどが決まった。

この基本構想を実現するため、前年成立していた航空機工業振興法を改正し、官民共同の特殊法人日本航空機製造株式会社(NAMC)が昭和34年6月に設立された。

試作1号機の初飛行が昭和37年8月、運輸省の型式証明取得が39年8月、量産1号機は40年3月に運輸省航空局に納入され、航空各社へは4月から始まっていった。輸出に必要なアメリカ航空局(FAA)の型式証明は9月に取得できた。

わが国航空機産業政策の戦後の第一歩はこのようにスタートしたのである。この間、赤澤璋一氏の並々ならぬ熱意がメーカー各社、ユーザー各社、関係省庁を動かし、さらに戦前から軍用航空機の設計に携わっていた人々の意気込みがここまで引っ張ってきたのである。

国内販売

YS─11の国内販売は、民間機と官需機に分かれる。民需機は全日空、日本国内航空、東亜航空であるが、開発の最終段階で機の安定性から主翼の上反角を2度あげるなどの改修等(いわゆる三舵改修)が入ったために、1年半近い遅れが出た。

この結果、全日空が予備契約20機をキャンセルし、オランダのフォッカー社製F27フレンドシップ機の購入となったことが痛かった。この他、海外市場でも、大口需要が競合機種(F27、アブロ748、コンベア600)に抑えられてしまった。

これに対し、官需機としては海上保安庁、防衛庁、運輸省があり、採算的にはプラスだった。特に防衛庁機の受注は、性能についての厳しい注文はあったものの、Salesに伴うリスクがないばかりか、厳しい注文に応えられれば、それに掛かったCostに適正利潤を上乗せしたものが保証されただけにNAMC経営上はプラスとなったと言える。もっとも、YS─11の総生産機種182機のうち、防衛庁機、海上保安庁機、運輸省航空機用機(フライト・チェック機)を含め、いわゆる官需は34機であった。

YS─11の輸出案件

わが国初の中型旅客機YS─11の輸出は、わが国航空機業界としては経営陣の上から下まで尽く初めての体験であり、文字通り、手探りの状態であった。

国内エアラインへのデリバリー1号機が40年4月、最初の輸出案件(フィリピン向け)が40年10月、私の航空機武器課着任が昭和42年7月であるから、ある程度軌道に乗りつつあった時期と言える。

フィリピンのFOA航空での就航はその後四機保有となり、ハワイアン航空の三機受注とともに次への発展を予測させていた。

この間、NAMCは日本の航空機に全く馴染みのないユーザーの掘り起こし(「インド製の自動車を誰が買うか」と言われたと、今から45年近く前の話であるが、YS─11の輸出担当者は述懐している)のためには、実機を見せることが必要と海外へのデモンステレーション・フライトを41年の秋にアメリカ、42年に南米、カナダへと精力的に行った。

また、アメリカ・シャーロット社から、輸出市場に合った仕様への適合を求められ、50号機以降生産の機体から大幅の改修が行われた。いわゆるペイロードを1トン増やし、これに伴う数々の設計変更、改修が行われた。この改修によるYS─11Aの誕生なかりせば、累計182機の生産につがらなかったと言われている。

これらの成果の一つとして、ペルーのLANSA航空向け商談が始まったが、契約はリース・パーチェイス方式であり、この件について輸銀融資を付けるべく奔走した。これは、大蔵省国金局出入りの先駆けであった。

YS─11の購入希望エアラインは経営状況が苦しいところが多く、その他の案件も含め、融資返済が確実であることの苦しい説明を強いられた。最初からのパーチェイスは無理ということで、初めてこのリース・パーチェイス方式をとったが、以後、これが相手方エアラインにYS─11の購入条件とされていくことが多くなった。

YS─11の輸出案件で一番大きかったのはアメリカのPiedmont航空向けで、10機の購入プラスOption10機というものであった。同社は、North Carolina州Winston-Salem市に本社を置き、このエリアの航空会社としては最大手で、Washington D.C.への路線を持つことから、後日、筆者がNew York 駐在中に出張先のNational空港で見掛けることとなり、改めてWhite Houseの上を飛ぶYS─11の雄姿に感激したものである。

このPiedmont航空への計20機の販売には、その前提として前述の膨大な改修要求があり、その結果、NAMCは多大の支出を余儀なくされた。しかしながら、Piedmont航空との出会いがなければ、競争の激しいアメリカのローカル・エアラインで新鋭機として活躍し、名機と言われるようになることはかなわなかったとの評価がある。 

とは言え、売り込みにあたって大変な苦労があり、後日、次第に明らかになっていくかなり多額の裏取引があったようだが、当時筆者は知るよしもなかった。

その他いくつかの案件があったが、先述のようにポイントは輸銀融資を取り付けることで、案件ごとに大蔵省国金局の担当課に日参し了解を得なければならなかった。また、当然のことながら、輸出案件は長期の延べ払いであったが、返済期間中に襲った円高の流れは、NAMC経営に大きな赤字をもたらすことになった。

さらに多くのケースで輸出先のエアラインが使用している機材の下取りを求められ、引き取った、それらの中古機の販売がNAMCにとって経営的に多くの負担となっていった。

事業計画と資金調達

当初のPay Lineが何機であったかについて情報はない。いやむしろ具体的な数字はなかったということのようである。この辺が、後述するように国家プロジェクトなるが故に前に進めることしか考えていなかったというのが真実であろう。

記録を辿ると、「昭和36年度の時点で150機の量産計画が策定されているが、これは輸出50ないし100機程度、国内民間向け30ないし50機程度、防衛庁50機程度の需要が期待できる」(前出 梅沢氏の著書による)としている。しかし、この時点ではまだ生産コスト、販売価格などが未確定であり、これはあくまでも一つの需要見積もりと言うべきものである。

NAMCの経営上の課題は、販売先の確保とともに事業を円滑に進めるための資金調達であった。ここでその仕組みに触れておくと、NAMCは毎年度の事業計画で、何機の生産、うち国内向け何機、輸出何機と見込む。前述の通り、国内販売については、官需機分はそれぞれの省庁の予算に計上され、民需分は開銀融資を、輸出機については輸銀融資を見込む。残りの必要資金は借入金(または社債)で賄うこととなる。日本興業銀行を幹事銀行に協調融資団がこれを実行する。うち80%は政府保証付き、20%は民間独自融資である。大蔵省の許可する範囲で、この資金の一部は政府保証債で調達された。この政府保証枠は、大蔵省理財局・主計局との予算折衝で決定された上、実行の案件ごとに個別の承認をとっていた。なお、開発関係資金は、原則、出資金で賄われている。

こうした流れのなかで一つのエピソードとして、三菱信託銀行虎ノ門支店から10億円の無担保、無保証融資が実行された。当時、NAMCの資金繰りのため、加藤航空機武器課長自ら熱心に金融機関巡りをしておられたが、たまたま同行の支店長は、加藤課長の説く航空機産業の発展に理解を示し、独断で10億円の融資を決定してくれた。たまたま同行にいる友人に聞くと行内でも大いに話題になったそうである。

YS─11は、このような人々に支えられていたのだ。

これらの仕組みがうまく機能するには、年度当初の見込み通り、実機の引き渡しが実行されなければならなかった。

ファーンボロー・エア・ショウ

YS─11の絶頂期は昭和43年9月のロンドン郊外のファーンボロー・エア・ショウでのデモ・フライトであろう。航続距離に短いYS─11をはるばるロンドンまで飛ばすには客席をすべて取り外し、ここに燃料を積むためのバグタンクを置くことにより可能となる。この機を、試作一号機テスト・パイロットを務めた近藤機長と長谷川機長がはるばると操縦していった。筆者は英国航空機工業会の招待で現地にいた。

イギリスのエア・ショウであることから、本来は軍用機、民間機を問わす、英国が生産に関わっている機種に限られるが、英ロールス・ロイス製のエンジンを搭載していることからYS─11は特別にデモ・フライトの機会を与えられた。

3日間にわたるエア・ショウの2日目、YS─11の出番となった。この時、とんでもないHappeningがあった。ちょうどYS─11のデモ・フライト直前に欧州3カ国の共同開発による新鋭対潜哨戒機ATRANTICが大きな機体を、Royalブースの隣で見ているわれわれの前を、ゆっくりと片肺(片方のエンジンを止めて)飛行をして見せた。そしてデモを終わり右手遠方にある格納庫を越えるところで失速しゆっくりと墜落して行き、黒煙がもうもうと立ち上った。もちろん、場内は騒然、われわれの隣のRoyalブースの隣のブースにいた墜落機のPilotの夫人が失神したという。

ここでデモ・フライトは中断かと思ったが、消防車のサイレンの鳴り響く中、YS─11は滑走路を滑り始めたのにはびっくりした。あとでPilot近藤さんに聞くと、離陸を躊躇しているYSに管制塔から「Take Off ! Take Off !」の催促があったという。

7人を乗せた飛行機が墜落してもShowの進行を促す神経は、われわれは持ち合わせていない。YS─11はゆっくり上昇し左旋回して、低空で滑走路の上を一度飛んで見せ、二度目はまさに片肺飛行をして見せた。事故があった直後だけに、はらはらしながら見守ったのは筆者だけではなかった。そもそもデモ・フライトはその機の持っている性能を誇示し合うものだけに時々こういう事故があると言われた。ショウのフィナーレを飾る英国空軍機によるアクロバット飛行を緊張しながら見たことは言うまでもない。何しろわれわれのブース目がけて急降下してくるのであるから。

航空機事故調査委員会と機体メーカー

YS─11の全日空松山空港沖墜落事故があったのは41年11月である。運輸省に事故調査委員会が設置され、筆者の着任後も引き続き調査が継続していた。こういうときに機体メーカーはどのように身を処すべきかについてNAMCの技術担当役員であり、YS─11の設計者であられた東條輝雄氏は筆者に「原因がはっきりするまで機体メーカーは謝ってはいけない」といわれた。そして事故調査委員会の席上でもご自分の見解を貫かれた。

「Pilotは着地地点を誤り、離陸のやり直しをした。いわゆる、ゴーアラウンドでこの時のパイロットの心理として今着陸し損なった雨に煙る滑走路の明かりを求めて、身体を左前に倒しながら左の窓から身を乗り出すように振り向いたであろう。この時、操縦桿を左前方に押してしまったのではないか?」。

これに対し、元日航Pilot出身の著名な委員は「このPilotは飛行時間何万時間のベテランで彼が操縦ミスすることはあり得ない。これは機体に何らかの欠陥があったとしか考えられない」と主張され、何となく議論をリードしていく様子であった。

この発言について傍聴席にいた筆者はたまりかね発言を求め、「この委員会は事故の原因について科学的に調査を進めるためのもので、経験豊かなこのPilotが操縦ミスをするはずがないということで議論が進むのは納得できない」旨発言をした。

通産省の一課長補佐が傍聴席から発言するのは異例のことであったが、機体メーカー所管省として納得できなかったが故で、よく発言を許してくれたものと感謝している。

この委員会の報告書にどのように記載されたかは定かではないが、ある資料によると「事故原因を特定できなかったが、パイロットミスをほのめかして」いるとのことで、YS─11が欠陥機種であるという結論にならなかったことだけは確かである。

YS━11の後継機と世界の潮流

YS─11の売れ行き好調を受け、当然のことながら後継機開発計画が進む。これは「YX」と名付けられていた。

昭和43年度予算でその調査費の予算要求をしたところ、紆余曲折があったが、予算折衝最終段階でK主計局次長に陳情に入った加藤博男航空機武器課長は、「YX開発などとんでもない、YS─11のために使った55億円を耳をそろえて持って来い」と怒鳴られた。

これは当時主計局中に知れ亘った。加藤課長は控え室で心配して待っていた筆者に「これで予算は付くぞ。もし付ける気がなければ、怒ったりしないよ」とほくそ笑まれたのは今でも鮮明に覚えている。果たせるかなYXの調査費として1億5000万円が認められた。

この計画は、具体的には、OR(オペレーション・リサーチ)計画として、近藤次郎東大教授のご指導を頂きながら約3年間の勉強の末、YXの青写真ができ「YS ─33」と名付けられた。これをもとにユーザーへの打診が開始された。筆者も先述のファーンボロー・エア・ショウの後、YX用のエンジン3社、機体メーカー4社、エアライン1社を訪問し、「こういうコンセプトの新規開発の計画あり」とYXの三面図を持って歩いた。

この時期の世界の航空機は革新の時代であった。日本航空機工業会の面々と訪ねたイギリスのロールス・ロイス社のダービィ工場では、カーボン・ファーバーを使ったフロント・ファンエンジンRB211の開発試験を進めていた。おびただしいカーボン・ファーバーの残骸が印象的であった。

オランダのフォッカー社のあとフランスでは、同工業会有森専務理事とツールーズにあるシュド・アビエーション社を訪ねた。ここでは超音ジェット旅客機コンコードの1号機の試作中でリベット打ち作業中の広い主翼の上を歩かせてもらった。

アメリカに渡り東海岸でエンジン・メーカーGE社とP&W社を訪ねたあと、西海岸へ飛び航空機メーカーのコンベア社、ロッキード社、ボーイング社の三社を訪ねた。ボーイングではシアトル工場のさらに北にあるエバレットに巨大な新工場を建て、丁度B747型機の試作一号機をロールアウトしたところであった。その時、地上から見上げた巨大なB747に度肝を抜かれたことは言うまでもない。

このように世界の航空機産業が飛躍しかけたこの時期に、このYX計画はPaper Planの段階から進まなかったことは誠に残念である。

YS━11に学ぶ 開発段階

Chief Engineerの責任範囲は極めて重い。技術担当重役としてNAMCにおられた東條輝雄氏は、大変立派な人柄と使命感を持たれた方で経営者としても優れた見識を持っておられた。個人的にもなんどもお話しを伺う機会を持ったが、YS─11のChief Engineerとしての苦悩は並大抵のものではなかった。そもそも航空機、それも民間旅客機を丸ごと一人で責任を持って取り組まれた際に、もっとも大事にしたのは性能計算と総重量管理であり、一定の性能を維持しながらいかに総重量を減らすかは民間航空機の営業に大きく関わる“payload”に効いてくるだけに最大の配慮事項であったという。そしてそれを生産に移すことを考えれば、いかに工程管理していくか、具体的には、いかに工数を減らすか、手際よく作業できるようにするか、さらに作業上の問題として作業員の手が届くか、修理がいかに上手く進められるかなどは図面上だけではどうしても無理で、いわゆるモック・アップ(実物大に木製の模型)を作って作業員の手が入るかを確かめる必要がある。

これらを含めて、もちろん他の多くの設計者の作業が支えることではあるが、すべて隅々までChief Engineerとして責任を持つことである。

さらに、民間機であることから性能と製造costとのTrade Offをいかにバランスさせるかは、重要である。我が国航空機産業は、軍用機開発については戦前から多くの経験があったが、性能重視の軍用機とは異なり、コストがProject遂行の上で大きなファクターになったことはなかったといえる。

次に大事なことは開発ScheduleとMarketabilityの関係である。

軍用機であれば実戦配備上の必要性から開発Scheduleが決められるが、民間機の場合はユーザーであるエアラインの注文に応えられるものではなくてならず、しかも競合機種とはもちろん性能上の勝負となるがエアラインの整備計画との関係からこちらの開発Scheduleの変更を待ってはくれない、すなわち、MarketabilityからみてScheduleの管理は極めて重要である。

新機種の開発にあたって大事なことの一つにいかに性能の新規性をアッピールするかであり、エンジンの選択が大事な要素となる。航空機製造では、ご存知のように、自動車の場合とは異なり、機体メーカーとエンジン・メーカーとは別である。エンジンは機体の信頼性と同程度に、いやそれ以上に信頼性が求められるだけに新機種の開発にあたっては信頼性のある既存のエンジンを使うか、いわばワンランク・アップした新エンジンを使うかが大きな選択になる。YS─11の場合は、前者すなわち安定した性能の評価が高いロールス・ロイスのダート10型ターボ・プロップ・エンジンを選ぶと同時に、プロペラもダウティ・ロートル社(イギリス)のものを選択した。

搭載機器・部品についても同じことがいえる。新しい計器・部品の開発を関連メーカーに求めるにはYS─11計画では無理があったため、主として既存の部品が選ばれ、新Partsなどの併行開発を進めたものはほとんどなかった。

開発の最終段階はいかなる条件が整えばGo aheadを掛けるかであるが、確定受注件数に加え、オプションがカウントされる。何機を以てブレーク・イーブンかは極めて経営上難しい、しかし、最も大事なデシジョンである。

 どこまで発注が伸びるかは、市場規模予測、そして当該機の評価にかかる。ただ言えることは、純民間Projectに比べて政府関係Projectは甘くなりがちである。まして戦後の日本航空機産業の振興を狙いとしてスタートしたYS─11の経営判断については、それが当てはまるであろう。

生産段階

YS─11計画は国家Projectとして機体生産は機体メーカー6社が関わったいわゆる分担生産で行われた。日本の機体メーカーは防衛庁機について機種ごとに分担生産を行っており、それ自体は問題ない、言い換えれば、手慣れた手法であった。

Final Assemblyは三菱重工(株)の小牧工場で行われ、そこに関係五社が分担部分を持ち込み治工具で位置確認しながら組み立てられた。ここでの経営上の課題は分担生産故のTotal Cost 管理の難しさであった。これは営業が始まってから大きな課題となってくる。

相次ぐ改修

誠に当然のことながら、YS─11の顧客へのdeliveryが始まるに伴い様々な注文がでてきた。改修は、Mustの改修(FAA対応)とBetterの改修(顧客対応・居住性など)とに分けられる。

前者は、技術的に改修することが航空局またはアメリカ航空局から求められたもので必須のものであり、それに対して後者は顧客からの注文に応えて行うもので営業上求められる改修である。

この結果、経営面への影響としては、部品として新旧両部品を保管しなければならない。しかも、エアラインとの契約上定期航空便で5機以上飛んでいる間は当該部品の供給義務があると定められているため、新旧部品の保管費用が発生する。旧部品だけでなく、旧々部品、旧々々部品と改修が出る度に溜まり、この費用は馬鹿にならないばかりか、NAMC終了の時にもどこに保管し供給を続けるかは大きな負担となった。良かれと思って行った改修がどれだけコスト負担になるかまでは十分計算があったとは見られない。

これらは言い換えれば、技術的判断(安全面)と営業面の判断と経営面の判断(Cost管理)が一体的になされていたかどうかは疑問である。

改修のもう一つの波及として、治工具の関係も同じことで、改修に伴い必要な新たな治工具は当然製作されたが、同時に改修前の治工具にも先に述べたと同じ理由で、将来とも保管・管理義務が生じていた。

販売段階

わが国初の民間旅客機の販売は国民の期待を担って華々しく国内に、海外にと発展していった。

182機=国内民間機75機、官需機34機(海上自衛隊10機、航空自衛隊13機、海上保安庁5機、運輸省航空局6機)、輸出13ヶ国76機(合計が182機を超えるのは民間機から官需へ、輸出先から官需へ、官需から輸出へ、官需機から民間機へなどと転籍したものがあることによる)

販売の歴史を見ると、国内から始まり海外へと発展していく。いずれにしろ延べ払いが大原則(先述の通り、輸出機について、為替レートの切り上げ(円高)が大きく経理を圧迫することになる)であるため、国内の販売に見合い日本開発銀行からの融資、輸出については日本輸出入銀行からの融資、さらに不足分は政府保証付き民間の協調融資(社債)で財務・経理は回っていく仕組みであった。

当然のことながら航空機武器課としては、開銀分について大蔵省理財局資金第一課との折衝、輸銀融資分については輸出案件ごとに国際金融局に日参し輸銀保証の取り付け交渉を、さらに政府保証枠については理財局・主計局と折衝した。

とくにアメリカPiedmont社への輸出案件は、10機プラスOption10機という最大の案件だけにかなりの時間を割いて輸銀融資の条件を充たすように一方では契約の修正を、他方では例外的に輸銀融資の道を開くように、NAMCと輸銀の間に立ってまとめ上げた。

通常、通産省が個別の輸出案件について、ここまで係わることはないが、国策会社NAMCの製品の輸出であるだけに放っておけないものであった。輸銀融資がリース契約に適用されるかについて議論となったが、リース・パーチェス契約とすることで切り抜けた。

販売条件については、他の航空機の売り込み条件とのMatchingであることが、通常の輸銀融資を超えるソフトな条件であっても認められることから、当該エアラインへの競合機種の売り込み条件を調べることが勝負の分かれ道になった。

しかし、そうは言っても、これがなかなか把握し難く、かなりきわどい議論の末どうにか認められるというものであった。そうは言っても、このソフトな条件での輸銀融資が認められないことには輸出はできなかった。

 Marketの動向は、わが国初の国産旅客機にとってまことに厳しい環境だった。当時のわが国には民間航空機販売のプロが不在であり、通常エアラインごとに担当商社が決まり、NAMCのセールスマンと同道しながら、相手エアラインとの接点を見出すべく悪戦苦闘の繰り返しであった。

経営面から言えば、Market Priceとは関係なしで決まる生産Costとの間に、Cost削減へのフィードバックがなされる仕組みになっていなかった。

CostはCost、Sales PriceはSeles Priceで別途決定される仕組みは、これを仕切るNAMCに逆ザヤが生ずることになる。

しかし、これも直ちに判明するのではなく、複雑なSales条件と多岐にわたる生産コストの積み上げは後日明らかとされ、それがNAMCの経営を赤字体質に追い込んでいった。これについてはもともと予定されていたとしか考えられない面が強い。

部品供給  アフター・セールス・サービス

航空機は安全面からの厳しい規制から、Flight Hourなどに応じて部品の交換が義務付けられている。例えば、タイヤは4回の着陸ごとに、ランディング・ギヤーは1000時間ごとの点検という具合である。

ということは、航空機メーカーはそれらの消耗品・部品等の供給責任を持つ。しかし、同時に独占的供給権を持つことになり、基本的には収益源となると認識して良い。

一般家電製品については、製造中止後七年間の部品管理・保管義務があるが、YS─11の場合は、前述の通り、定期航空便で5機以上飛んでいる間は当該部品の供給義務がある。これは10万点を超える部品からなる航空機については大変なことである。もちろん、エアラインが身近に保管するもの、航空機メーカーが部品保管センターを持つものなど様々であるが、YS─11の場合には、輸出機種について、これをカバーするための人的、物的負担は、コスト計算を超えて大きな負担となっていた。

耐久消費財の販売の常識として、アフター・セールス・サービスは欠かせない。まして厳しい安全性が求められる航空機においておやである。民間機のセールスが初体験のNAMCにとっては、アフター・セールス・サービスも初体験であった。

もちろん購入者としてのエアラインに対するメーカーの体験から学ぶことになるが、そのTechnical Support Team (Tech Rep) の充実を、限られた技術者を割いて行わなければならず、その人材の確保、配置など、相変わらず経営は試行錯誤の繰り返しであった。

このような試行錯誤のプロセスで思い出されるのは、いわゆる「Lockheed 事件」である。航空機のような大型の機材を売り込む時には、競合機種との販売合戦に際し、初号機の売り込みがすべてであるということである。

最初の1機が入れば、エアラインの方針として、部品の保管体制、パイロットの訓練・習熟、メンテナンスの容易さ等から、出来るだけ機種統一を図ることがコスト削減となる。

もし、機種統一を行わず、新たに競合機種を入れるとなると、関連ラインが複数となってしまう。それだけに初号機の売り込み合戦は、常軌を逸したことになり易い。それでも初号機が納入できれば、かなりの出血受注でも、後継機の受注で十分ペイさせることができる。

YS─11の輸出商戦は、こういう環境の中で繰り広げられた。それだけにかなり厳しい条件も飲まざるを得なかったのである。そしてこれが後継機の発注に繫がれば良かったが、必ずしも当初の思惑通りにいかなかったのが、YS─11のSalesの実際であった。

中国市場開拓の夢

STOL性能を誇る中型機YS─11の有望輸出先として、その航続距離も考慮し、発達しつつあった中国市場へのアクセスの検討を始めた。ところが、機体本体ではなく搭載されている機器、とくに電子関連部品の中に当時のココム規制に抵触するものがかなりあることが明らかとなった。

そこで、当該部品のココム対象外への載せ換えも検討されたが、異なる部品では既存のスペースに収まらず、あるいは重量との関係から構造上不可能との結論になった。

このことは開発計画段階からマーケットを予測して部品の選択まで行わなければならないということになるが、最初の民間航空機の開発にあたりそこまでの配慮を求めるのは無理と言わなければならない。

後継機を生かす

これらの事項はすべて後継機があって初めて生かされることである。しかも、Sales面でも後継機があるかないかはエアラインが機種の選定にあたり大きな考慮要因となる。YSに継ぐYX計画が頓挫したことはYS─11のSalesにあたり、特に後半において競合他社との関係で苦戦を強いられることになった。

最期に、YS─11を愛し、NAMCに情熱を注いだ仲間たちのために、YS─11の航空機としての素晴らしさに触れて筆を置く。

「YS─11は数々のトラブルを次々に消しゆき、昭和43年時点では1機当たり飛行時間月300時間以上、定時出発率99%を誇る高い信頼性を持つ航空機となった」と言われている。また、機体の頑丈さは軍用機の性格から求められたため、「安全率を過大なまで確保し、主翼について約19万時間、胴体は約22万5000時間に相当する疲労強度試験」を行っていた。(Wikipedia 「YS─11」による)

筆者もこの実験が行われている現場を訪ねている。輪切りにした機体に水圧をかけて実験が行われていた。月300時間、年3600時間の運行とすると60年以上の飛行に伴う疲労に絶えるといった疲労強度試験であった。

現に「その丈夫なつくりから、輸出された機体はまだ現役であり続けている」(同上)という。

後継機を生かす

去る2011年8月28日(日)に「YS─11を誇る会」が開かれた。これは当時YS─11のために「青春を捧げた人々」(NAMCの営業担当役員であられた遊佐上治氏がよく使われた言葉)約50名(発足当初は約70名だったが、年々欠けて)が、ことあるごとに集う。今年は40名が集い、先述の矢嶋英敏氏の旭日重光章の「叙勲を喜ぶ仲間の会」であった。

同氏はYS─11の部品の調達、次に輸出関連セールスマンとして苦労の多い人生のスタートを切られ、その後、(株)島津製作所にスカウトされ、最後は同社の社長、会長として多くの分野で数々のご功績を積まれた方である。当日は同氏を囲み、彼の栄誉を称えるとともに、YS─11のためにそれぞれ心血を注いだ往時を偲んだ。

YS─11の雄姿はまだ彼らの心の中で飛び続けている。

本稿についての文責は全て筆者にあるが、本稿をまとめるにあたり伊藤健之助氏、矢嶋英敏氏、西田和夫氏(当時財務課長)、いずれも「岡松会」のメンバーのアドバイスを頂いている。ここに記して、心から感謝を申し上げます。

なお、本稿は時評社「時評」2011年9月号掲載「民間航空機産業政策史 第三回」と10月号に掲載「民間航空機産業政策史 第四回」に掲載された記事に写真などを新たに加えたものである。