わが青春の譜(2)(2/3)

山岡浩二郎

呉の生活

ところで、海軍とは、ごく一般的にいって、狭い軍艦のなかの生活が基本であるから、梯子段は二段ずつ駆け昇ったり、集合命令が下ればかならず五分前に整列するなど、たえずスマートさと敏捷な行動力が要求された。

同時に、昭和十八年(一九四三)十月、学徒動員で、明治神宮競技場で出陣学徒壮行会が行なわれた折、ときの東條首相は「われ、これで二個師団の兵を得る」と喜んだのに対し、米内海軍大臣は「彼ら優秀なる学生に与える兵器なきを憂う」と言ったことに象徴されるように、陸軍にくらべて海軍は、兵士の一人ひとりに、それぞれがその機能を発揮できる場所を与えてやろうという点では、はるかに優れた組織であった。つまり人をどこまでも人と見る海軍と、人を一個の兵士としか見ない陸軍とでは、大きな隔たりがあったのである。

技術将校仲間でも、この傾向はいかんとなく発揮された。技術関係では(つまり学卒でも士官学校や兵学校を出ないものは)、階級の最高は少将であるが、管制本部の近藤市郎少将、造機部長の加藤少将ら、上はこの少将から、私のような若僧の中尉にいたるまで、全員が一家の家族のような雰囲気があり、私たちエンジニアの卵たちをたいそう可愛がってくれた。とりわけ私は、いずれはディーゼルエンジンをつくっている会社(現ヤンマーのこと、当時は海軍標準型ディーゼル発電機を製造していた)にもどるんだから、ひとつ仕込んでやろうということで、よく面倒をみてもらったように思う。

学校を卒業したばかりの若い士官にとって、海軍はよきにつけ悪しきにつけ、ずいぶん驚くことが多かったが、とにかくこの国の最高の技術とスタッフがそろっているところだけに大いに勉強になった。バルブ担当官になったことも、メーカーにとって必要な資材の発注から作業分析、工程管理など、工場管理全般にわたる管理手法、あるいはバルブ屋の経営管理にいたるまで、のちのち実際に役立つことが多かったが、これも管制本部の近藤少将以下、呉工廠の先輩方のおかげであったと今でも感謝している。

さて、呉工廠時代は、仕事の面だけでなく生活の面でも将校はたいへん恵まれていた。食べ物にも不自由はなく、将校だけが利用できる水交舎に集まって、食事をし、酒を汲みかわし談笑したり、球突き、テニス、卓球などのスポーツなども楽しんだものだった。なかでもテニスはコートが二面あり、デビスカップの日本代表選手にもなった山岸主計中尉がおり、私はむろん腕前にはずいぶん差があったが、持ち前のきかん坊で、彼によく相手をしてもらったものである。

一方、家庭のほうは、家内はそれまで家事らしい家事をやったことがなかったし、おまけに呉に来てから生まれた赤ん坊を抱えて、てんてこまいの暮らしを続けていた。私の当時の月給は戦時手当を入れても百二十円ぐらいでむろん赤字の連続だった。現在ヤンマーの常務をしている大石則忠君のお父さんの亮一氏が、その頃孫吉社長の秘書のような仕事をしていたので、必要の都度、汽車に乗ってわざわざお金を届けてくれた。そのうち、孫吉社長が一万円をポンと出してくれ、「今の家では狭くてやっていけんだろうから、適当な家を買ったらどうだ」と言ってくれた。

そこで買ったのが、呉市の郊外で、射的場の下、港の荷揚げ場に沿った海岸通りという、工廠では係長クラスの地元の人が住んでいる、静かな人家の少ない古い町並みの一角の坂道にあった、離れとちょっとした池つきの庭、隣りには二軒貸家もついている家だった。離れには、水交舎のマネジャー(コック長)をしていた目辻さんの東京の家が空襲で焼けたということから、彼の母親と妹さんを入れてあげ、貸家は工廠の友人たちに貸すことにした。それでも母屋はずいぶん広かったので、加藤少将はじめ工廠の人たちにも気楽に出入りしてもらうようにし、いつのまにかわが家は私設の社交場のような雰囲気をかもし出すようになっていった。目辻さんが気をつかって、買い出しの途中に立ち寄っては鯛やハッサクを運んでくれたり、周囲の地元の人たちもみな、情に厚い人たちで、洗濯などの家事仕事なども手伝ってくれたりしたので、こちらに移ってからは、家内もずいぶん暮らしよくなったと思う。

呉が百機の艦上機の爆撃によって壊滅的打撃を受けたのは、昭和二十年三月十九日であった。マリアナ沖海戦の敗戦によって工廠入りしていた多くの艦船のうち、戦艦大和、巡洋艦矢矧の二隻を除いて、在泊有力艦艇のほとんどが戦闘能力を失ったといわれる空襲である。

この頃の私は、呉の南方にある倉橋島で、トンネルを掘ってつくった地下の施設で、特殊潜航艇のような特攻兵器の開発に従事していた。その日も勤務のため埠頭のほうへ歩いていたときだった。突然警報が鳴り、たちまち一トン爆弾、三トン爆弾が雨あられのように降ってきたのである。見上げると、まさに自分の頭上で爆弾が投下されるのがわかった。加速度のおかげでそれは遠くへそれたが、もう逃げてもムダなことだけははっきりわかった。私は覚悟をして、松の木の根元にあぐらをかき、運がよければ助かるだろうと、敵機が通り過ぎるのを待った。

軍の重要な部署は、工廠のうしろの山をえぐった、頑丈な鉄扉の奥の洞窟内にあったから無事だったものの、工廠のほとんどはこの日に壊滅、ドックもガタガタになって使えなくなってしまった。そして、挺身隊の若者をはじめ五千人もの人々が死んだ。私の家は郊外にあったために助かった。空襲の知らせに、孫吉社長からは一万円の見舞金が届いたが、早速私はそのお金で頑丈な防空壕をつくることにした。奥行き十メートルのコの字型の穴を堀って、奥には三畳ほどの部屋をしつらえ、鉄の扉をつけた。直撃弾を受けないかぎりは大丈夫のはずで、緊急特には、いつも面倒をみてくれる近所の人たちとともに入ることにした。