わが青春の譜(3)(2/5)

山岡浩二郎

旧海軍の技術書招聘

長浜工場での生産再開と時期を呼応して、孫吉社長は昭和二十年の十一月には小型船用ディーゼルエンジンの開発に着手した。そのため、私は孫吉社長に提言して旧海軍から優秀な技術者をヤンマーに招聘することを実現した。

いうまでもなく海軍には私の友人がたくさんいた。工廠の機械工場に行っても、鋳物工場へ行っても話はよく通じ、ヤンマーなら行ってもよいという人たちはずいぶんいた。私は大学のクラスメートだった安間恒夫君(彼自身もヤンマーに入り尼崎工場長まで勤めたが、残念ながら若くして亡くなった)が横須賀の機関実験部にいたので、彼にもエンジン関係の技術者の人選を頼むことにした。

安間恒夫君(右・当時ヤンマー尼崎工場長)

総勢十七名がこのときヤンマーに入社したが、このメンバーには忘れがたい人が多い。なかでも、もっとも忘れがたいのが、潜水艦をはじめ、魚雷艇やハイスピードのモーターボートなどのクラッチを担当していた設計主任で、少佐相当官であった野中技師である。

船用エンジンをやるには減速機も必要だし、トランスミッションも要る。そこで野中技師を迎えたのだが、たまたま前後して、のちにヤンマーの専務取締役になられた、元横須賀海軍工廠の機関実験部に勤務された横井元昭技術中佐が入社されたことにより、横井氏とは海軍時代からずっとそりが合わなかったということで辞めてしまい、家族七人を連れて、郷里の佐世保に帰ってしまわれた。その後、神戸の川崎造船に入って、潜水艦部長として活躍されたが、横井氏がエンジンについては秀れた専門家だったものの、クラッチは専門外の方だっただけに、まことに惜しい人材を失ったという気がする。

左から2人目 横井元昭氏、右端〔山岡浩二郎〕

また、海軍時代、造機本部の部長をしておられた時津三郎中将が、戦時中の交流のお礼ということで滋賀の家に訪ねてこられ、「おれもつかってくれんか」と申し出られたことがあった。地位が地位の人だっただけに、どこかの役職に就いてもらえばよいというわけにもいかず、佐賀県の唐津に唐津ヤンマーという会社をつくって、代表者に就任してもらった。

この時津造機本部長の下におられた近藤市郎少将も、このときヤンマーに入社された技術陣の一人であった。のち副社長になられたが、思えばこの時ヤンマーに入社した旧海軍の技術陣は、それこそそうそうたる顔ぶれであり、ヤンマーが今日あるための大きな礎石であったという気がしてならない。

近藤市郎氏

これは海軍とは関係ないが、この時期ほど私は工作機械の必要性を痛感したことはなかった。孫吉社長は、「浩二郎、お前はエンジンのことは学校と海軍で十分勉強しているから安心して任せられる。しかし、ヤンマーには工作機械のわかる者がいないから勉強せよ」といわれ、当時、普通旋盤を製造する大塚鉄工所という会社を経営しておられた大塚石松氏の自宅に、私を連れてうかがい、直接教えを請うてくださった。のちこの会社が住友に買収され、会長にまつりあげられてしまったのを機に、孫吉社長がヤンマーの取締役として迎えられるが、まさに「工作機械の神様」で、私にはうってつけのよい師匠であった。

大塚石松氏(中央)・孫吉社長(右)と