わが青春の譜(3)(3/5)

山岡浩二郎

賠償指定工場

昭和二十一年十月、企業再建整備法制定。これは戦争で傷手をこうむった企業が立ち直るためのさまざまな施策を盛り込んだ法律であるが、会社もこの法律に基づいて再建整備計画の策定に取りかかったその矢先、突如として、胸に刃をつきつけるように飛びこんできたのが、GHQ(連合国総司令部)からの、長浜工場、神崎工場(元尼崎製作所)ともに賠償指定工場にするという命令書であった。戦時中、航空機のエンジン等重要な部品をつくったというのが、賠償工場指定の理由だった。正直なところ、これにはまったく途方に暮れてしまった。というのは、この命令はGHQの中間賠償指令に基づいているが、GHQの命令は絶対的なものであり、連合国占領下の当時の日本では、日本人はただ屈伏するしか他に道がなかったからである。賠償工場になるということは、GHQの接収工場になったということであり、自由な生産はいっさい出来なくなるということであったから、企業としては事実上の自殺を強要されているといってもよかった。 とにかくディーゼルエンジンの注文は殺到しており、折角の再建努力を水泡に帰すようにしてはならないという思いから、再三再四、GHQに足を運び、小型ディーゼルエンジンがわが国の農漁村の食糧増産には欠くことの出来ないものであること、日本の産業復興にとって必要不可欠な動力源であることを必死になって訴えた。その努力のかいあって、何とか平和産業への転換が認められ、賠償指定工場の解除を受けたが、「これで思う存分のことができる」と思ったときのすがすがしい感動は生涯忘れられない。

印象深いのは、賠償指定に命ぜられたとき、孫吉社長が長浜工場に来られて、全員を集めてされた訓示だった。 「この建物までは持っていくまい。諸君たちとこの建物さえあれば、私はかならずディーゼルをつくっていく。鍋や釜はぜったいにつくらんから安心するように」私の頭のなかには、この時の孫吉社長の毅然たる態度とその力強い声が、いまだにしっかりと染み込んでいる。私は海軍から帰ったばかりでこのとき二十八歳だった。よし、海軍で学んだ貴重な経験を生かして、新しく一からやっていこう、どんなことがあっても、この長浜から離れまいぞと、深く意を決したものだった。

賠償指定工場になったことで、浮き足だった者もむろんいた。時の工場長であったN専務を筆頭にした工場幹部の一部の者たちは、もうヤンマーは潰れるぞといいながら、辞める準備に没頭していた。工場のなかで顔を合わせても目を反らせ、何となくそらぞらしい態度をとる者が目立つようになった。そのなかに購買担当の係長もいた。

どうも様子がおかしいので、私は本社に連絡して、信頼のおける三宅日出雄、嘉瀬井良太郎の両君に来てもらい、いろいろ調べてもらった。すると案の定、N専務を中心にしたグループがあって、下請けに精米機や粉砕機の部品を、エンジンの部品だといつかってつくらせ、それを持って逃げ出そうとしていることが判明した。長年世話になった社長の心を踏みにじり、会社を裏切った工場トップにあるまじき行為は断じて許されるものではない。早速辞めてもらった。戦後の混乱期の世相の一面ともいえるだろうが、あったことはあったこととして恥をしのんで書きとめておく。

さすがにこのときは社長も同情してくれて、「浩二郎、こんなに混乱したらどうしようもあるまい。本社に来い」と声をかけてもらった。 「いや、ぜったいに大阪へは行きません。呉にいるときから、もう一度技術屋として、長浜で一工員になったつもりで頑張ろうと決心して帰ってきたのですから」と即座に返答した。

賠償指定工場の解除に奔走していたときのことだが、GHQと交渉をするのに通訳が必要になった。たまたま高月町に高齢者であったが、米国のカリフォルニアから帰国した人がいて、英語がしゃべれるということからお願いすることにした。ところが肝心の交渉の席上で、こう言ってくれ、ああ言ってほしいと言っても、そんなことを言うと相手が怒り出すといって、どうしてもこちらの意思どおりに話そうとしない。反論するようなことはいっさい伝えてくれないのだから、これではどうしようもない。

私は中学時代、医者を目指していたので、英語よりもドイツ語に力を入れた。だが、英語もまずまずだったので、話すのはともかく聞くほうは何とか聞けた。だから聞いていて、私たちが言ってほしいと思っていることを、そのまま伝えていないことだけはよくわかった。そのとき、私は、やはり言葉というものは、自分でしゃべらなければ、相手に十分意思を伝えられないことを痛感した。それからは英会話の勉強に熱中し、懸命になって自分で話すことを心がけた。

幸い、交渉の過程で、大津の米軍駐留部隊のプレイガーという大尉をはじめ、多くの士官連中と知己になることができた。週末には工場の来客用の施設にもなっていた向陽館へも来て酒を飲んだり、ダンスをしたり、琵琶湖周辺の観光や鮫ケ井の鱒釣りに案内したり、まるで彼らの休日秘書みたいなかっこうとなってたいへん親しくなった。おかげで英会話はみるみる上達し、その分、日増しに心が通じ合うようになり、県知事からも、「山岡さんのところへ行ったあとの大尉は機嫌がよいので、どうかお願いします」とまでいわれるようになった。のちこのときの語学力が、欧米諸国との取引や外国の方々との個人的なつき合いに、大いに役立ったことは申すまでもない。この経験から、私は常日頃、社員たちに、ことあるごとに英語の勉強をおこたらぬようにやかましく勧めている。勉強をしておくと、自分が言いたい心、相手が言いたい心が、お互いに伝わるから、海外に出ても、より楽しく過ごせるし、また、真からの友情を育むことができる。語学の勉強はまさに「友情をつくる貴重な投資」であるからだ。

この苦労のかいあってか、やがて「長浜工場の接収解除の申請をしてやろう」ということになり、プレイガー大尉の帰国後は、後任のブルーベーカー少佐の尽力で、ついに日本では第一号の接収解除工場になることができた。運輸省の奥井局長、仲谷資材課長等、解除に協力してくださった方へもここであらためてお礼を申しあげておきたい。

先にもちょっと述べたが、その頃、私は家族が疎開していた高月町の東阿閉から長浜まで毎日通勤していたが、このあたりは豪雪地帯で、冬の日には腰までつかるような深い雪におおわれ、長靴をはいていてもなかまでどぼどぼになることもあり、とうとう両足がリューマチのようになってしまった。

孫吉社長が見るに見かねて、「浩二郎、N専務が住んでいる向陽館はあんなに大きいんだから、お前たち家族は、奥のいちばん広い座敷に住めばよい」と言ってくれたことから、そこに居を移すことにした。

しかし、後から思えば、N専務にすれば、その頃はヤンマーを退くための下工作に懸命になっていたときでもあった。煙たくもあったのだろう、きわめて水臭く、台所もつかわせてくれない。私たちは仕方なく縁側にカンテキを置いたりして食事をするありさまで、家族が皆ずいぶん不愉快な思いをしたものだった。

向陽館の奥座敷