わが青春の譜(5)(1/3)

山岡浩二郎

欧州視察旅行

この時期になると、農村では、従来の足踏み脱穀機にかわって動力脱穀機が急速に普及しはじめるようになった。それにともなってヤンマーのエンジン需要も日増しに増え、インド貿易などで、他社との競合に立ち遅れていた農村市場の回復も、おかけで大きく前進することになった。

そんな矢先であった。私は孫吉社長から、「浩二郎、これからはとても月に二千台や三千台をやっていたんでは間に合わんぞ。機械もこれでいいということはないはずだ。

もともと、このディーゼルという名は、発明者のルドルフ・ディーゼル博士の名をとったもので、元祖はドイツやないか。ドイツヘ行こ。おそらくドイツやそのあたりの国をまわれば、もっといい小形のエンジンがあるはずや。

欧米視察旅行で大阪駅を出発する孫吉社長一行

型を開発し、これから市場へどんどん普及しようとしているが、もしドイツあたりにこれより優秀なエンジンがあったら、K型にこれ以上投資したらえらい目にあう。ということは、今のうちに外国メーカーとの提携も考えとかないかんというこっちや。ひとつ世界中を見てまわろうやないか」と言われたのである。

こうして昭和二十八年(一九五三年)二月から約五ヵ月の日程で、ドイツを中心に、イギリス、フランス、スウェーデン、イタリア、デンマーク、アメリカ、カナダなどを見学して歩くことになった。

ところが当時はまだ外貨事情がわるく、外務省から海外出張の許可をとるのも並大抵ではない時代であった。しかし幸いなことに、ヤンマーはインド貿易で多額の外貨を稼いでいたので、通産・大蔵両省にも働きかけて、何とか許可を取りつけることができた。しかもふつうは一、二名が限度のところを、孫吉社長、大塚氏、横井氏に私の四人、それに京都大学のディーゼルエンジンの権威であった長尾不二夫博士が、この方は文部省の許可をとって加わって、それにさらにこの頃アメリカのコロンビア大学に留学中だったヤンマーの淳男現社長が欧州で合流、当時としては破格の総勢六名というメンバーの旅になった。

ちょうどミュンヘンに滞在していた時だった。日本の留守部隊の責任者だった川本良吉常務(のち副社長、元満州住友金属社長)から、「横水エンジン月産五千台完遂」という電報が入ったのである。ドイツで八方手をつくして調べてみたが、これといったエンジンが見当たらなかった折だけに、これはまことに朗報であった。

「よし、ドイツで探しても我々のエンジンより優れたものはないことがわかった」「農用エンジンだけではなく、横井さんに今度は立型のディーゼルにしてもらって、手漕ぎでやっている小規模経営の漁民にもつかってもらおうじゃないか」と、話し合い、私は社長から、「一万台やろうや、おまえ、つくる自信あるか」と、いわれ、「ああ、やりますよ」と、元気よく答えたものであった。

そこで一行は、残された日程を当初のエンジン調査から、今後の増産体制の強化に備えての、生産体制の視察研究や工作機械の物色に主眼を置きかえ、著名工場を訪問した。

翌年秋、ふたたび私は、今度は鈴木次長を同伴し、再度欧米諸国を訪問するが、この二度にわたる視察の旅が、長浜工場量産体制の礎石となったのだった。

また、このとき、私たちが欧米各国を視察して、K型以上のエンジンがなかったことは事実であった。そして昭和三十年(一九五五年)に入ると、ドイツ発明家協会は、孫吉社長に対し、小形ディーゼルエンジンの実用化による功績に対し、ディーゼル金賞牌の授与を決定、多用のためニュールンペルグ市の授与式に行けなかった社長は、のち駐日ドイツ大使の手を経て受けとった。