わが青春の譜(7)(5/5)

山岡浩二郎

創業三十周年からの回想

さて、話はとんで、舞台は昭和六十二年(一九八七)年のブラジルヤンマー創業三十周年の年に移る。

この年十月には小形エンジンの生産台数は六十万台を突破、従業員も千三百人を数え、立型ディーゼルエンジン、ガソリンエンジン、耕うん機、噴霧器など、製造・販売品目も次々に拡大、創業三十周年を記念して、十一月には画期的な新商品トラクタ二機種を市場に提供するなど、すでに昔日の面影をしのびたくとも、しのぶよすがすらないほどに大きく成長していた。そして、このトラクタは発売に先立って、十月二十三日から開催された「第五回ブラジル輸送機器展」に出展。オープニングセレモニーに臨席されたウーゴ・カステロ・ブランコ商工大臣から絶賛の言葉を頂戴している。

さらに、この年、ブラジルヤンマーにとって二重の喜びとなり、また誇りとなったのは、ブラジルの有力経済誌『エザーメ』が、この国の化学、機械、自動車など三十一の分野の企業の中から、その年顕著な業績をあげた会社・団体にあたえる「一九八七年度最優良企業」にブラジルヤンマーが機械工業部門のトップとして選ばれ、十月一日、ジョゼーサルネイ大統領臨席の場で、受賞の栄に浴したことであった。

ブラジルヤンマー操業30周年記念式典
(インダイアツーバ市立体育館)

祝賀パーティーでのアトラクション
(ノ・ナ・マディラ楽団)

私はこの創業三十周年の記念式典に出席するため、十月末になって五年ぶりにブラジルを訪問した。訪れるたびにブラジルとわがブラジルヤンマーの発展ぶりには、その都度目を見張ってきた私であるが、創業三十周年という節目となるべき意義深い年を思ってこの地に立つと、あらためて設立当時のあれこれが思い起こされ、よくぞここまでりっぱな会社に成長したものだと感無量の気持でいっぱいになり、同時に将来を眺望しながら、ブラジルヤンマーの存在価値にあらためて深い感動をおぼえた。

どうして、日本から進出したたくさんの会社が撤退したなかで、日系企業としては数少ない長い歴史をもつ、ここまでの企業に成長しえたのだろうか。一口にいって、ひとつは徹底した現地主義を貫いたこと。いまひとつは、政治、経済、社会情勢全般にわたって激変を続けたブラジルの国内情勢を、たえず敏感に把握し、適切な舵取りをおこたらなかった、歴代経営陣と社員の並々ならぬ努力に尽きるといえるだろう。

思えば、設立当初からブラジルに渡った人々のなかには、夫人をはじめ一家をあげてブラジルに渡り、創業期の苦難にめげず、一生懸命に働かれた佐藤仁初代社長(当時、ヤンマーディーゼル取締役・後専務取締役)をけじめ、同じように家族を連れてブラジルに渡った人も多く、その中には佐藤初代社長はじめすでに亡くなった方もいるが、今なお、現地に留まって活躍している人々もいる。その一人ひとりに私は頭部下がる思いがする。むろんそこでは、気候、風土、習慣などがまるでちがう異国の地で、夫人の内助の功をはじめ、家族の方々の協力が大きな支えになったことはいうまでもない。ブラジルで生まれ、ブラジルで育った子どもたちもたくさんいる。ブラジルを第二の故郷として、りっぱに成人して、ブラジルの地でそれぞれの道で活躍している二世もいる。

第5回ブラジル輸送機器展に出典の新商品トラクタの前で
(前列左端後藤社長、田中専務(右端)と)

このときのブラジル入りで、私がひどく驚き感激させられたことは、いま述べた中の一人として、工場開設時からの出向社員である脇坂万平君の母親とりさんがおられて、九十歳とは思えぬ元気な姿で、私たちを出迎えてくださったことである。とりさんがブラジルに渡られたのは六十歳を越してからであった。以来、ブラジルの地に溶け込み、ブラジルの人々を友とし、ブラジルを第二の故郷として、お孫さんにかこまれ、幸せで安穏な日々の今日まで、息子の万平君を支えて頑張ってこられたのだ。とりさん自身が、ブラジルヤンマーを支えたりっぱな一人といってさしつかえないだろう。

90歳とは思えぬ元気な脇坂とりさんと力一杯の握手

ついでながら、私も昭和三十八年(一九六三)十一月二十五日、ブラジル紋章協会からブラジルの発展に寄与したということで、ジョゼ・ボニファッショ・デ・アンドラーダ・エ・ジルバ文化章を授与された。まことに光栄かつ誇りとするところだ。

ブラジルヤンマーが創業三十周年を迎えるにあたって、インダイアツーバ市のジョゼ・カルロス・トニン市長は、「インダイアツーバ市の歴史は、ヤンマーの歴史であると言っても過言ではありません。わが市ばかりかわが国にとっても重要な企業であり、今後のいっそうの躍進を祈念してやみません」という賛美の言葉を贈ってくれた。今も私の心に深くしっかりと刻み込まれている。

最後に、創業三十周年でブラジル入りした翌年二月、私は先に述べた脇坂とりさんから一通の手紙をもらった。当日の記念祝典のようすと、ヤンマーブフジルのために粉骨砕身した人々の気持がかえってよくわかるような気がして、ここに原文のまま紹介することにする。

日本のお正月は身の縮む思いがするのですが本年はとてもお暖かでした由ブラジルは例年にない暑さで夜もねられない位です。

市中はビールやアイスクリームで一時しのぎをしている有様やがてくるカンナバールで踊りまくらねば承知出来ない人々はどんなことでせう皆々様お元気でいらっしゃいませうか奥様とお目にかかれませんでしたので残念でございました。

私は寒さにはとても弱いのですが暑さには強い方ですので何とか元気にして居りますから御安心下さいませ過日沢山の写具をお頂戴致しましてほんとうに有がとう御座いましたよい思い出となります。

一九八七年十月二十六日はブラジルヤンマー創立記念日で私共の忘れることのできない喜ばしい日です。

日本から社長様始め皆様が御来伯下され盛大に記念祝賀会が挙行されましたこの日は朝早くから晴渡り野辺の草木に宿しか露もキラキラと光り輝いて共に今日の喜びを祝福してくれるかのやうでした。

広い会場には日伯の旗が高く風にたなびいて広い広い会場は紅白の布で飾られ生け花はあちこちにおしげなく心うきうきしました初日の祝典日は私は家で留守番でしたがシュラスの香りが風に送られて……

翌二十七日午後五時より田中様(注・ブラジルヤンマー現社長当時専務)のお宅で記念祝賀パーティが開催されましたのでこの時とばかり勇んで出かけました会場はすっかり出来上がっていて皆様をお待ちしていました本社から社長さんその他のお客様につづいてサンパウロのお客様が……

庭木の緑も電気の光で輝き美しさも一しおでした私はお二人の山岡様(注・現ヤンマー淳男社長と筆者)を待ちかまえていたのもむべなるかなでした又お二人の山岡様も満面二コニコで力一杯握手で元気ですね若いなと年は……と聞いて大変に喜んで下さったので涙しました。

社長さん覚えていてくださいましたかとお尋ねしたらそれは脇坂さん忘れませんよのおことばが返ってきました時の嬉しさ……

大恩人の山岡浩二郎さん手を握り旧交の親しさと喜びを体一ぱいに表して喜んでくれました元気だね年とらないねと喜びを満面に私はこの嬉しさ一生忘れませんお陰様で病気一つせずゆったりとくらせてるわが身の幸を初代社長に続いての山岡様に御厄介になって居ります

その大恩に感謝して居ります

有がとう御座いました

呉々もお体御大切になさって下さいませ

視力が薄いためだんだんわからないよみにくい字になりました御判読下さいませ

一九八八年二月三日

脇坂とり

山岡浩二郎様

判読できないどころか、九十歳とはとても思えないしっかりしたペンクッチの手紙である。

(つづく)