わが青春の譜(12)(2/4)

山岡浩二郎

コミュニケーションで切り開いた黄金時代

そこで相談に乗ってもらったのが、当時、大阪サッカー協会の会長であった川本泰三氏であった。この人のアドバイスと協力を得ると、早速その頃早稲田大学にあって、全日本の代表選手に選ばれるなどきわ立った活躍で注目を集めていた釜本邦茂君を、何としても確保するべく乗り出した。

「今の日本のサッカー界は東高西低だ。関西の地盤を高め、ひいては日本のサッカー界の全国的な振興を図るためにも、ぜひ君に一役買ってもらいたい。それは君が出身地の関西にもどってきてくれることだ。」と、一生懸命、熱意をこめて説得した。

こうして、釜本君は私たちの熱意と主張を理解してくれ、また彼も血気盛んな頃だったから、強いチームヘ行くよりも弱いチームに加わって強くしてやろうという気概に満ちた気持ちで、ヤンマーの一員になることを承諾してくれた。

しかし、サッカーはチームプレーであるから、いくら釜本君が秀でた選手であっても、一人の孤軍奮闘では勝負には勝てっこない。そこで私は、この年、釜本君以外にも十名におよぶ有望な若手選手を採用、さらに日本サッカー界としては初の試みとして、ブラジルから日系二世のネルソン・ヨシムラ君(現・吉村大志郎)を招請してチームを固めたのである。このブラジルから選手を導入するという発想は、遡ること十年前から、もしこのようなことがあればと想定して私の頭のなかにあった。

そのきっかけになったのは、先にも述べたが、昭和三十年(一九五五)に入ってまもなく、ブラジルに現地生産拠点を設けるべく、数回にわたって現地を訪れたときのことだった。日本からの進出企業としては先駆者的な存在であったブラジル東洋紡を訪問、初代社長であった大谷二一氏から貴重な参考意見をいろいろおうかがいした折、同氏が小学生の頃からサッカーに親しまれ、全日本の代表選手にも選ばれるほどの、サッカーマンであることを知ったのである。今も八十歳を超してなお、お元気で、つい先頃まで宝塚ゴルフクラブの理事長などをなさっておられたが、弟さんも学生時代はサッカー選手で、東大を出てから朝日新聞社に入られ、著名なサッカー担当記者になっておられたということだった。

ヤンマーサッカー部の黄金時代を築いた釜本邦茂選手(左)とネルソン吉村選手、中央はメキシコオリンピック代表選手にもなった湯口栄蔵選手

こんなことで、ちょうどヤンマーのサッカー部ができた頃だったので、盛んにサッカー談義に花が咲いた。いうまでもなく、ブラジルはサッカーの本場であるから、ブラジルサッカーについても談はおよび、そのうちにふっと頭に浮かんだのが、ブラジルから優秀な選手を日本に招請して、日本でプレーしてもらえば、日本のサッカー振興にも役立ち、面白いのではないかということだったのである。

この話を日本サッカー協会にもちかけたところ、規則上は外人選手を導入することに支障はないが、「ブラジルの選手なんか入れてもチームのプラスにはなりませんよ」というような意見が大勢たった。これを無視して、私は吉村君を招いたのである。ヨシムラ君のイニシアルはY、釜本君はK、そして私の名前はK・Y、そこでこのコンビに「KYシステム」という呼び名をつけることにした。

と、いって、この二人だけではチームは強くなるはずはない。この釜本・ヨシムラ両君のテクニックを何とか吸収しようと、若手選手加熱心に練習に励んでくれた結果、個人技は徐々に確実に上達してきたが、これだけでチームカが向上するというわけでもない。

経営において組織運営がもっともたいせつなものであるのと同じで、サッカーにおいても真に戦えるチームにするためには、チームの方針・目標・戦略および運営上の諸問題などが、上から下へ、下から上へとスムーズに通るコミュニケーションが不可欠である。そう思った私は、運営を監督やコーチにまかせるのではなく、多忙ではあったが合い問を縫って、たいていの試合に出かけ、アドバイスをしたり、ときにはきついこともいったりして一体感に心がけることにした。

おかげでチームは実際に強くなった。「KYシステム」で攻めたら得点にもよくつながった。昭和四十三年(一九六八)に天皇杯で初優勝、四十六年(一九七一)日本リーグ初優勝、さらに四十九年(一九七四)には日本リーグと天皇杯の二冠征覇と、みごと、KYコンビでチーム力を高めて一大旋風を巻き起こし、日本サッカーリーグを大いに盛りあげたのである。JSLでは押しも押されぬ、安定したAクラスチームと目されるようになった。

しかし、ていねいにその間を眺めていくと、勝てる試合を落としたり、負けっぷりのよくないゲームをしたり、けっして自慢できるものばかりではなかったことも確かである。

「釜本邸いないと勝てないチーム」というような批評もあったが、これは別段気にもかからなかった。

「釜本」という実力ある個性をフルに発揮させるためには、イレブンがいかにうまく連繋ある動きをして勝ちに導くか、これがサッカーのチームプレーであり、個性そのものまで減却させてしまったのでは何の面白味もない。要は運営上のバランスの問題であろう。釜本を乗り越えてゆく、つぎのストライカーやポジションのエキスパートがなかなか育たず、いつも釜本君にもたれてしまって、そのうちにバランスを狂わせ、チームの沈帯がはじまるというようなことは、よくあるもっともわるいケースである。

これが五十年(一九七五)の日本リーグ優勝後にはじまったわがチームの低迷であった。これではいけない、もう一度基本からやり直せ、ということで、五十三年(一九七八)度から釜本君に監督をまかせ、プレイングマネージャーとして二足のワラジをはいてもらい、チームの体制の立て直しをはかることにしたのであった。