わが青春の譜(13)(1/5)

山岡浩二郎

地域社会との融和

長浜のテニスコート

企業が地方で存続するのにもっとも大事なのは、何といっても地元の人々と友好と融和のきずなを結ぶことであろう。それが地域社会の発展にとっても、企業の発展にとっても、ともに欠かすことのできないたいせつな要件であることはいうまでもない。ヤンマーは初代孫吉社長が滋賀県湖北の出身ということもあって、戦後、会社が大きくなるにつれ、長浜を中心にした湖北一帯で果たす役割は必然的に大きなものとなった。

私は、終戦直後から、長浜工場をヤンマーの主力工場に育て上げるために踏ん張ったが、地域社会の復興と発展に役立つことであれば、労を惜しんではなるまいと、官公庁、団体、その他地元有力者の多くの方々と接し、行政ヤンマーディーゼルサッカー部は昭和三十二年(一九五七)に創部した。

すでに述べてきたように、私は元来スポーツが大好きで、戦後海軍から復員して長浜工場に勤めるようになって行政面についても積極的に協力し、社会・文化・体育等の諸方面にわたって大いに援助してきた。なかでも、私自身スポーツが何より好きだったから、少ない余暇をやりくりしては、地方の行事にも参加、テニス、卓球等、愛好者の人々とプレーを通じて交わりを深め、仕事を離れて、プライベートな面からも心の通う友情を深めた。

中でも長浜は古くから軟式テニス(現在はソフトテニスという)の盛んな土地柄で、戦後、市に体育協会が創立されるや間髪を入れず庭球協会をつくろうという機運が高まり、昭和二十二年(一九四七)に長浜軟式庭球協会が設立され、私が初代の協会長に推された。

といっても、その頃はテニスコートといっても学校の施設しかなかったので、私は会員の要望に応えるべく、二十六年(一九五一)、当時、長浜市内高田町の長浜電報電話局の裏にあったヤンマーの私有地を、テニスコートとして市教育委員会に寄贈することにした。のち電報電話局が拡張されることになってこのコートはなくなったが、これを基礎として代替地をもらい、今では湖岸の豊公園のなかに十二面のりっぱなテニスコートができている。

ヤンマーの私有地寄贈でできた初の長浜市民テニスコート

豊公園にある12面の長浜市民庭球場

前河敬造氏(右)と

私は長くこのコートを愛用し、テニスを通じてたがいの親睦の糧を求め、のちのちの思い出の場としてもらいたいと願っている。幸い今日までは、現在協会の顧問をされている前河敬造氏が長年協会長を務められ、この趣旨の下に後輩を指導し、心血を注いでこの伝統を守ってきてくださった。だが、世が移り変わるにしたがって、こうした経緯もいつのまにか忘れ去られるようになってきた。多少残念な気がしていたところ、平成六年(一九九四)一月になって、同じ思いの前河氏が、「山岡浩二郎氏と長浜市民庭球場について」と題した銘板を、テニスコートのクラブハウスに掲げてくださった。

一九四五年(昭和二〇)八月、第二次世界大戦が終結し、戦後の復興行政が進む中で、長浜市教育委員会の管掌の下に、ようやく公共的スポーツ機関として長浜市体育協会が創立された。軟式庭球もこれに呼応し、既存の「長浜レーククラブ」「不惑クラブ」が中心となり、これに諸官庁はじめヤンマーディーゼル、鐘淵紡績、近江ベルベット等の実業団が加わって長浜庭球協会の創設が図られた。

初代会長には、当時から地域社会各方面で多岐に亘って協力され、また、スポーツ振興、とりわけ軟式庭球のため物心両面で多大のご厚意とご指導をお寄せ頂いていた山岡浩二郎氏を推載、めでたく一九四七年(昭和二二)、長浜庭球協会として弧々の声をあげることとなった。

直ちに上部団体である長浜市体育協会並びに滋賀県軟式庭球連盟に加盟し今日に至っている。

勿論のこと、協会発足当時は協会としてのホームコートとなる施設はなく、会員全員が等しくテニスコートの新設を待ち望んでいた。こうした中、協会の切なる懇請に応え、山岡浩二郎氏の格別のご厚意で、当時、市内高田町長浜電報電話局の裏にあった私有地をテニスコート用地として、長浜庭球協会を経て長浜市教育委員会に無償でご提供して頂き、ここに会員待望のテニスコートが出来る運びとなったのである。建設に当たっては、市ご当局のご配慮に加え、会員の労力奉仕による汗の結晶もあって、一九五一年(昭和二六)秋、見事二面のコートが長浜市民コートと冠し完成した。

同氏の「社会人のふれ合いの場、スポーツの殿堂として、また、湖北一市三郡の青少年の健全な育成のため」というご趣旨により、湖北一市三郡の中学校、高等学校が当協会の加盟団体になったのも、この時機からである。

一九五二年(昭和二七)、このテニスコートの完成を祝し、併せてこの年発効された講和条約を記念して、第一回ヤンマー杯軟式庭球大会を開催、更に後年、ヤンマー杯壮年大会(現、壮年・レディース大会)が催され今日に至っている。

また、このテニスコートでは、県体をはじめ各種多くの大会がもたれたが、テニスのみならずスポーツ施設そのものが皆無の時代であっただけに、思い出の多いコートであった。

一九六二年(昭和三七)、長浜電報電話局の増築のため、同テニスコートを譲渡する事となり、同地寄贈時のヤンマーディーゼルと市当局の覚書に従い、代替として現在の豊公園内に移設されたのである。その後、このテニスコートの名称は「長浜市民庭球場」と改称され、全国高校総体、全国実業団大会、びわこ国体をはじめ数知れぬ大会が開催されている事は周知のとおりである。

このようにして、長浜ソフトテニス協会は、この長浜市民庭球場の歴史と共に歩み、われわれ協会員は栄光ある協会から蔭陽に亘り、大きな恩恵に浴している。偏えに協会の始祖ともいうべき大恩人の山岡浩二郎氏のお陰である。

われわれ協会員は、各諸先輩の教えを守り、この事を永く後輩に語り伝え、テニスコートに立つ時、いつまでも感謝の気持ちを持ち続けたいと希うものである。

平成六年一月

前河 敬造

前河敬造氏作の銘板