わが青春の譜(13)(3/5)

山岡浩二郎

長浜工場随感

ヤンマー杯中断のことは一例に過ぎないが、私は近年、ヤンマーとくに長浜工場の地域社会との交流の在り方が、たいへん気になっている。もともとここは、初代孫吉社長が郷里に工場用地を求め、昭和十七年(一九四二)に休業同然だった長浜チリメンの織物工場を買収し、現在の長浜工場の基をつくられたのだった。

戦後、孫古社長は私に、「湖北は冬場の雪の影響で貧しい農家が多い。この人たちのためにわしは仕事をもってくるんや。どうせ都会は、労働組合運動が強くて仕事にならん。長浜を中心にやろう」といわれた。私も、「わかりました。やりましょう」と、次々に分工場をつくり、かつてチリメン業に携わっていた多くの人たちに、ヤンマーで仕事をしてもらうことにした。

これは元を正せば、孫古社長の郷土愛から出たものであるが、歴史的観点からみれば、地場産業として零細なチリメン業しかなかった湖北に、機械製造という新しい産業をもたらした産業構造の大きな転換であった。郷土を愛し、湖北の発展とヤンマーの繁栄を願う孫吉社長は、再三述べたように地域社会との融和をたいせつにし、長浜にくれば多くの人たちにあって話を聞き、学校がピアノを欲しいといえばピアノを寄付する、こうしたことに金がいるといえば寄付をする、そして一人ひとりの訴えを相手の立場に立って聞かれた。こうして戦後、長浜工場は地域とともに発展した。

長浜小学校に寄贈された孫吉社長のピアノ開き
(演奏するのは山岡浩二郎の長女 悦子)

ところが近年はどうだろうか。その後の長浜工場の幹部の全部が全部ということではなく、また、そんなことをいったとはあえて思いたくないが、「経費節減だからそんなもんあかんヽ帰れヽ帰れ」というようなことが多かっだのではないだろうか。心から地域を愛しヽ感謝の気持ちがあるならば、もうすこし言い方もあるのではないかと思う。地域あってのヤンマーであることを、今一度肝に銘じてもらいたいものだ。