わが青春の譜(13)(4/5)

山岡浩二郎

東阿閉会館建設のこと

最後にもうひとつ、孫古社長の思い出として語っておきたい。たしか、私が長浜工場長になる直前の昭和二十六年(一九五一)の暮れか、二十七年の初めの頃だったと思う。

「浩二郎、わしは今、この物心ともに混乱して希望を失っている時代に、阿閉の皆さんに何か活力と自信をもってもらうためにも、老若男女を問わず、すべての人たちが和気あいあいと集まれる公民館でも建ててあげたら、と思うとるんやが」と、孫吉社長から相談されたことがあった。

「建てるからには単なる集会所ではなく、測定機を入れて、精密測定の研究所をつくったらどうでしょう。」 「それはおもろいな。」「あのあたりは雪が多いし、農業だけでは儲からんから、精密測定植を入れて、若い人たちに測定をやってもらったら勉強にも励むだろうし、さらに勉強したい者は大学も目指すでしょう。」

建築は当時ヤンマーの施設部長だった西村九郎君が担当、具体化することになった。折から昭和二十八年二九五三)二月には孫吉社長を先頭に、私もふくめて主力メンバーは欧州にエンジンの視察に出かけ、欧州諸国でいろいろな建築物を見る機会に恵まれた。

区役所のような建物にも、みな屋根の上に塔がそびえている。教会の窓には美しいステンドグラスがいっぱい入っている。阿閉に会館を建てるからには、みんなに親しまれ後世に永く残るものにしたいが、それにはヨーロッパ風の建物がいいなあということになって帰ってきた。

もどってみると、建築はだいぶ進んでいたが、上層部をちょん切って塔をつけようなどと大騒ぎになって、結局は数年がかりで研究もし、施工にも時間をかけて、昭和三十三年(一九五八)秋になってようやく完成した。建物の構造、デザインとしては耐震、恒久的な鉄筋コンクリート造りとし、外観は欧州でみたもののうち、もっとも印象的だった高い塔屋の聳えるゴシック風にすることとし、あれこれ検討した結果、最終的にストックホルムのシティホールに似たものとなった。

東阿閉会館の全景

私が忘れられないのは、このときの孫古社長のたいへんな熱の入れ方だ。故郷に対する愛がどれほど深いものか、どれだけ地域の人々の生活のことを考えておられたか。少なくとも私の目が黒いうちは忘れることはない。

孫吉社長は日頃から「人生というものは運、不運に左右されることは大きかろうが、どんなばあいでもつねに誠実さと感謝の心を失わないで努力しておれば、よき協力者を得て道も開け、入から感謝されて、美しい世界が自ずから開けてくるものだ」と、いわれ、そこから「美しい世界は感謝の心から」という座右の銘が生まれた。

孫吉社長次期室の掛軸(孫吉社長逝去1年前に書かれたもので、向陽館(現紅梅荘)奥座敷に掛けられている)

そして何よりもまして故郷を愛し、湖北の発展に情熱を燃やされた。また、たくさんの人が工場に来てくれているので、この地に何か報いたいといっておられた。東阿閉会館はその感謝の心の表現だったろう。地域社会との融和をけっしておろそかにしてはなるまい。孫古社長の遺志にそむいてはなるまいと私は固く心に決めている。