わが青春の譜(13)(5/5)

山岡浩二郎

社名のディーゼルについて

「ヤンマーディーゼル」という社名は、昭和二十七年(一九五二)に「山岡内燃機株式会社」から、初代孫吉社長がみずからの意思で改称されたものである。だが、私自身、孫吉社長がどういう理由で「ディーゼル」とつけられたか、その真意がわかったのは、昭和二十九年(一九五四)にディーゼルエンジンの発明者、故ルドルフ・ディーゼル博士の子息オイゲン・ディーゼル博士が来日され、折から病の床にあった孫吉社長を見舞われたそのときであった。その場の同席者は私を除いて皆故人になってしまったので、その経緯を知るものは今では私一人になってしまった。

ディーゼルエンジンは、フランス生まれのドイツ人ルドルフ・ディーゼルによって考案され、その後急速に発達した。ルドルフ・ディーゼル博士はミュンヘンエ科大学に学び、卒業論文で『合理的な、内燃機関の設計』を書くなど内燃機関の研究に没頭、一八九三年『合理的熱機関の理論と構造』でディーゼル機関の原理を発表、机上の空論とまでいわれたきびしい世評に屈せず試作に試作を重ねて、九八年ミュンヘンで最初の機関を公表して実用化に成功、一躍世界の注目を浴びた。ディーゼルエンジンとは、このときから発明者の名をとってつけられた名前であるが、これはまさにドイツ人固有の合理主義に基づいて発想された成果であった。

ルドルフ・ディーゼル博士

ディーゼル博士は、空気が圧縮によって赤熱化することを利用し、この高熱で燃料を燃やせば複雑な点火装置は不要になり、しかも熱効率の高い内燃機関ができると考えた。また燃料は、ドイツが石油資源に乏しいことから石炭の活用を考え、微粉炭の使用を試みた。

ルドルフ・ディーゼル博士が製作した世界最初のディーゼルエンジン

このように、博士は燃料の使用量が多くしかも熱効率のわるい蒸気機関や、従来の内燃機関にかわる動力源の必要性に着目、当時省資源の必要に迫られていたドイツの国策に沿って、内燃機関の研究開発に没頭、ついに成し遂げたのである。合理的内燃機関と称する所以である。

来日されたオイゲン・ディーゼル博士は、脳溢血で倒れ自宅で静養中だった孫吉社長を訪ね、孫吉社長がドイツのアウグスブルグ市ウイッテルバッハ公園内に寄贈された、「ディーゼル記念石庭苑」のお礼などを申された。この「ディーゼル記念石庭苑」というのは、ブラジルヤンマーのところでふれた例の日本式庭園のことである。

さて、オイゲン・ディーゼル博士が来訪されたその日であった。孫吉社長は朝からふだんとは見違えるような緊張した面持ちで、そわそわと落ち着かない様子だった。そして、オイゲンさんと顔を合わすなり、開口いちばん、「私はルドルフ・ディーゼル博士の功績を讃え、この由緒あるディーゼル家の心を後世に伝えたい一心から、無断で社名にディーゼル家の家名をつかわせていただきました。このことがいつも気がかりになっていたのですが、この際あなたにお詫びを申しあげ、何とかお許しをえたいと思います」と、深々と頭を下げられたのである。このときの挨拶で、孫吉社長がルドルフ・ディーゼル博士の偉業を讃えるとともに、その時代のニーズに沿った「合理的な原動力」をつくるという信念をこめてヽディーゼル博士の家名を社名に使った真意を私たちはほんとうに知ったのだった。

オイゲンさんは、思いもよらぬ孫古社長の冒頭のこの言葉にたいへん驚かれた様子であったが、「いやいや光栄の至りです。どうぞお気遣いなくお使いください」と心から喜んでくださった。そのうえ、「あなたこそが父の意志を継いでくださる方だ。父の遺品は私が持っているよりも山岡さん、あなたに持っていただくほうがふさわしい」と言って、ディーゼル博士が生前愛用されていたワイングラス、インクスクンド、ステッキといった遺品の数々を、孫吉社長に贈られたのであった。

オイゲン・ディーゼルご夫妻(西宮市甲子園の孫吉社長宅にて)

ところで、近年、巷では、NOx、がどうだこうだといろいろやかましいようである。しかしこれは不合理なエンジンをつくっているからであって、NOxの出ない合理的なエンジンをつくることこそが研究開発の最重要課題であろう。私はことあるごと、研究開発にたずさわる技術者諸君に、毎日最低三十分は燃焼問題を考えろといっているが、果たしてやっているだろうか。おまけに驚いたことには、世間のNOx論議にかまけて、ヤンマー社内で、社名の「ディーゼル」は会社のイメージをわるくするからこれを取り除いてはどうかという意見が、何も知らない若手社員から出ていることである。とんでもない話である。今こそ初代社長が社名に選ばれた意を体して、この社名に誇りと自覚を持ち、徹底して燃焼問題の研究に取り組み、時代のニーズに沿った今の世代にふさわしい、合理的エンジンの開発に邁進すべきではないか。

そういえばルドルフ・ディーゼル博士がパテントを取得してから百年目にあたった一九九三年には、これを記念して、米国の有名なディーゼルエンジンメーカーであるカミンズ社の創業者の一族であるライル・カミンズ氏が、七百数十ページにおよぶくわしい『ディーゼル』という本を出版した。私もいささかの援助をしたが、ルドルフ・ディーゼル博士の真の価値を知る人は多いのである。

私はオイゲン・ディーゼル博士が孫吉社長を見舞われたときの写真を見るたびに、社名にディーゼルとつけられたときの決意を思い出さずにはいられないのである。


あとがき

思い立って、折にふれて書きとめていたものを整理してみたら、とうとう一冊分の量になってしまった。すべては本文中に記したとおりだから、あらためてここに書き足すことはもうない。

ただ、まとめ終えた今、しきりに思われるのは、かつてひとつ屋根の下で同じ釜の飯を食った大阪高等学校時代の寮生仲間のことである。競って哲字書や内外の小説を読みあさり、夜遅くまで、時には夜が白むまで酒を汲みかわしながら、純粋な心で国家存亡から恋愛論にいたるまで議論を戦わしたことは、忘れ難い青春時代の充実した一時期であった。

それだけに、いまつくづく感じることは、私の人生観なり、ものの見方、考え方の根底に流れているものは、この寮生時代に培われていたんだなということである。「三つ子の魂百まで」ならぬ「大高察八十まで」である。

私は、今でも美しいものを見て美しいと感じる心をもっている。美しいものを見て美しく感じないのは、たとえ年若くとも既に老化しているのである。こうした心も、みんなと語り合った寮生時代に私の心に植えつけられたと思っている。

そんなわけで、本の題名として私のいまの気持にぴたりとするいいものがなかなか決まらなかったが、過ぎし日がそうであったように、今も青年の心意気で過ごしていることを考えれば、当たるとも遠からずと自認し、「わが青春の譜」とした。私の意とするところを、お汲み取りいただければ幸いである。

一九九七年五月

山岡浩二郎