大阪の明治・大正・昭和初期のカラー印刷(4/8)
市田幸四郎とその時代(1885~1927年)

元凸版印刷株式会社専務取締役 河野通

市田幸四郎の幼年・少年時代

市田幸四郎個人に関することは「市田幸四郎小伝(16)」に詳しい。その「生いたち」の項には次のように書かれている。

「生いたち」

幸四郎は明治18年(1885)1月15日神戸市で呱々の声をあげた。父は氷見良明(鐘紡重役)で、8歳の時――明治26年(1893)に市田家の養子に入った。市田家は明治3年以来当時の英国領事ガールス氏などの勧めにより、写真業を営んでいた。神戸の市田写真館は日本の写真界の始祖として日本全国にあまねく知れわたり、長い間その道の名舗としてゆるがぬ地位を占めていた。

神戸一中~神戸高商という当時関西での秀歳コースを明治40年23歳で神戸高商第一期生として卒業した。高商の同期生には東京海上の社長鈴木祥枝、満鉄理事の竹中政一、二期後輩には石油王の出光佐三、四期後には自民党の石井光次郎の諸氏など実業界・政界に重きをなしている有能な人物がいる。

初代の校長は硬骨漢で知られた水島銕也で、徹底した松下村塾的教育を施したものである。幸四郎は特に語学と数学が得意であった。茅の海に面した六甲続きの山陰に建てられた木造数屋の校舎で、明朗闊達な学生時代を送り、元気のはけ口をスポーツに求め、硬球テニスのチャンピオンとして猛練習に若き日を過ごした。当時の神戸高商は東京一ツ橋の高商とならび称せられた日本で2 つしかない4 年制の高商で、校門を出れば世間はすぐ一人前の紳士として遇した。またそれだけの実力があったのである。

幸四郎は神戸にとどまり、三代目の後継者として家業の写真館を手伝うことになったのである。市田家は代々のクリスチャンであったから、幸四郎も若き日には聖書を読み、讃美歌も唄い宗教的教養も身につけた。後年オフセット印刷の企業経営にあたり今から40数年前に8時間労働制を実施するなど社会主義的施策は、宗教的ヒューマニズムから出たものと思う。

夫人四寿子は明治26年2月6日東京麻布材木町に生まれ、父は有名なキリスト教の伝道者・金森通倫氏で幼時生母と死別(5歳の頃)市田家に引き取られ、幸四郎と早くから許嫁のような間柄であった。明治40 年暮れに結婚、翌年長男左右一(工学博士・切手収集家で有名)が生まれた。

「キリスト教が仲介」

さらに同書の「史談会」の中の「市田幸四郎の生い立ち」という項には、「神戸市に日本で1、2という市田写真館というのがありまして、代々男子後継者がなく、三代目に鐘紡の重役である氷見さんの四男の幸四郎さんを8歳の時に養子に迎えました。」という記述があった。

しかし、幸四郎氏が養子に迎えられることになった経緯、そのきっかけは定かではなかった。多分、同じ神戸に居て、顔馴染みだったということなのだろが、何かもう一つ理由が欲しいと思った。何かヒントが得られないだろうかと、市田幸四郎の8歳までに関する記述を調べたところ、インターネット上に明治22年(1889)に神戸に開園したばかりのプロテスタント協会の幼稚園「頌栄」に市田幸四郎は通っていた、その第1 回卒園生であったという記述を見つけた。「市田幸四郎小伝」には、一言も触れられていなかったことだった。

NHK大河ドラマの「九鬼(17)奔流ほんりゅう」の実現・招致を目的として2000年に発足した「NPO法人ドラマ九鬼奔流で町おこしをする会」のホームページに「幼児教育の系譜と頌栄」(18)と題し、明治22年(1889)に神戸市中山手通りに開園したプロテスタント教会の頌栄しょうえい幼稚園(19)の歴史が掲載されており、その中に市田幸四郎は第1回卒園生だったという記述があった。

認可後初の卒業式を迎えるに先き立ってそれまでの卒業生のうち、和久山きそ、三宅夏、荻田文、村上静、黒住未野に服部兵庫県知事より「幼稚園保母免許状」が「無試験検定二合格シタルヲ以テ」という理由によって交付されたが、その披露は1909(明治42)年3月27日午後2 時より、第12回保母伝習所卒業式席上で行われた。この日の来賓は150余名、頌栄史上かつてない盛会であったという。
この日祝辞に立ったのはアメリカン・ボード代表、J・H・ペティー、同志社社長に就任草々の原田助、高等科第1回卒業生杉山(広瀬)恒子、第1回頌栄幼稚園卒園生市田幸四郎であり、その後田中兵庫県視学官の勧告、ハウ女史の手による卒業免状と免許状授与があって感激のうちに終了した。(20)

これらを読んで想像が膨らんだ。もちろん、一連の情報が真実であることが大前提ではあるが…………。

多分、次のようなことだったのだろうと…………。

氷見幸四郎(後の市田幸四郎)は、神戸に設立されたばかりのプロテスタント教会の頌栄幼稚園に通っていた。一方、「市田幸四郎小伝」には「市田家は代々のクリスチャンであった」とある。しかも「市田家」は明治3年(1870年)創業の「市田写真館」という当時、神戸では有名な写真館をやっていた。出会わないはずがない。そこで氷見幸四郎は「市田家」に見初められたにちがいない。

頌栄幼稚園は、1889(明治22年)、神戸市中山手通り 5 丁目に、アメリカ人宣教師アニー・L・ハウによって設立された、神戸で最も長い歴史のある幼稚園の一つです。ハウは、日本における幼稚園教育の先駆者の一人であ り、本園は、日本にまだ幼稚園がほとんど存在していなかった明治期から本格的な幼児教育を行い、そのことは GLORY KINDERGARTEN の名で広く海外にまで知られておりました。:参考

「代々男子後継者がなく」とあるように、初代の市田左右太(1843~1896)には男子後継者がなく、二代目として石田左右太(1859~1930)を養子で迎えたが、その二代目も結婚して何年も経つが、子供が生まれる気配がない。平均寿命が40歳ぐらいだった時代のことである。初代は気掛かりで仕方なかった。そこでクリスチャンであった初代は、ちょうど教会が運営し始めた頌栄しょうえい幼稚園の最初の園児であったことで知っていた氷見幸四郎を養子にしたいと父親の氷見良明氏に頼み込みこんだ。氷見幸四郎は4男であったこともあって、父親は了承し、養子が実現した。それが明治26年(1893)、氷見幸四郎が8歳のときのことで、その時には、すでに初代は50 歳、二代目も34歳になっていた。

そして氷見幸四郎は三代目になる者として、初代の意向で二代目の養子になった。初代が奔走して、二代目に続いて三代目の養子を迎える手はずをすべて整えた。これが真実だったのではないだろうか。

なお、「市田幸四郎小伝」では、氷見良明は「鐘紡重役」だったことが強調されている。確かに「鐘紡」(21)は一目を置かれた会社だったことがある。しかし、時代がまったく違う。

氷見幸四郎を「市田写真館」の後継者として養子に迎える話が行われた時代では、鐘紡は、その数年前の明治20 年創業の新興企業で、その重役だった父親にとっても、明治3年創業で、すでに神戸では確固たる基盤を築き上げていた「市田写真館」の後継者として4 男を養子に出すというという話は、決して悪くはない、むしろ大変に良い話だったと思う。8歳の氷見幸四郎が養子となって、三代目市田左右そう太た となるはずの市田幸四郎となった。

しかし、その3年後の明治29年(1896年)、初代の市田左右太は53歳で亡くなってしまった。二代目が37歳で市田左右太となった。市田幸四郎が11歳の時であった。

それから1年あまりの後、キリスト教の伝道者・金森通倫氏の娘、5歳の四寿子が生母と死別したために市田家に引き取られる。後の市田幸四郎の夫人である。早くから市田幸四郎の許嫁のような間柄で、幸四郎が神戸高等商業学校(現在の神戸大学)の第1回生として卒業した年、明治40年(1907年)暮れ、幸四郎22歳、四寿子16歳で結婚し、翌年長男左右一(工学博士・切手収集家で有名)が生まれた。

市田幸四郎 神戸高等商業学校時代(19歳頃)

ここまでの市田幸四郎の生い立ちを辿ってくると、一貫して流れているのはキリスト教であったように思える。

なお、市田幸四郎氏は、庭球部を創設した人でもあったという。神戸大学庭球倶楽部のホームページには、以下の「燦然と輝く我が凌霜庭球倶楽部」という投稿が掲載されていた。

過去に幾多の名選手を世界の檜舞台に送ってきた輝かしい歴史を誇る吾が硬式庭球部は筆者の生まれる26 年前、1905年に神戸高商学友会内に創設された。勿論当時の様子などは筆者の知る所ではないが、幸にして硬式庭球部創立50 周年、75 周年記念誌が夫々発行されており創設時の事情から時代の移り変わり、その間に輩出した数々の名選手の国内に留まらず世界を舞台とした活躍振り、それぞれに拘わる逸話などが豊富に記載されている。それらは与えられた字数では到底語り尽くせるものではないが、これを参考に筆者なりに纏めてみた。疎漏の部分については何卒お許し頂きたい。
緑荷生のペンネームで実に延べ20 年通算95 回に亘り凌霜誌に「好漢列伝」と題する人物紹介を書かれた故岡誠二凌霜庭球倶楽部会長(明治45年卒6回生)は創設期の事を「当時開校後間も無い事とてテニスコートなど完備しておらなかったが1 回卒業生の市田幸四郎氏は自費を以って選手用のコートを新しく作り自分が中心となって同好者を集め茲ここに神戸高商庭球部を創設した大恩人であった」と言っておられる。

これを読むと市田幸四郎氏は神戸高商庭球部の創設者でもあった。卒業後、テニスコートなどが完備していなかったので自費で作り、自分が中心になって神戸高商庭球部を創設した。それは明治45 年、市田幸四郎氏が卒業してから5 年後、27歳の時であった。先にプロテスタント教会の頌栄しょうえい幼稚園の記念式典に市田幸四郎氏が卒園生として出席したことを紹介したが、これはその3年前の明治42年、24歳の時であった。若い頃から多方面で活動していた市田幸四郎氏の人となりがうかがわれ、興味深い。

  1. 「市田幸四郎小伝」谷本 正:昭和54年(1979)
  2. 九鬼:古くから海上路の要地である三重県尾鷲市の一地区の名称で、九鬼一族の発祥の地。九鬼一族は熊野水軍を率いて織田信長、豊臣秀吉に仕えて軍功を上げる。秀吉の朝鮮出兵などで水軍総督。徳川の時代になって、水軍を恐れた徳川家康のために摂津三田(現在の兵庫県三田市)と丹波綾部(現在の京都府綾部市)へ分割・転封される。
  3. http://www.nogami.gr.jp/rekisi/syouei100nen/0_hyousi.html
  4. http://www.glory-shoei.ac.jp/youchien/his/index.html
  5. http://www.nogami.gr.jp/rekisi/syouei100nen/7_6_musiken.html
  6. 鐘紡:明治20年(1887年)に東京綿商社として創立し、紡績会社として創業。明治から昭和初期にかけて国内企業売上高一位を誇り隆盛を極めた。また、鐘淵デイゼル工業(現・日産ディーゼル工業)や茨木自動車(近鉄バスの一部)などの異業種を傘下におさめていた。しかし、1945年の敗戦で国内外の工場を失い、ゼロから再出発となった。
    旧経営陣が公職追放され、1947年に武藤絲治が社長に就任。各種事業の統合整理と同時に新規事業も推進し、企業の骨格を確立した。1968年、武藤絲治は会長に退き、45歳の伊藤淳二が社長に就任した。伊藤は武藤路線を推進した。
    この若くして社長になった伊藤が長らく居残ったことが結果として災いになったと言われる。事業目標を達成できなかった時には売上を水増しするといった粉飾が行われるようになり、それが2000億円以上の債務超過となり、最終的に2005 年、カネボウは上場廃止となった。時の社長をはじめ経営陣は証券取引法違反で逮捕された。
    2007年、カネボウの解散が決定。紡績は2004年に廃業しており、様々の部門売却が行われた後、最終的にカネボウのホームプロダクト・製薬・食品はクラシエグループ、化粧品はカネボウ化粧品に継承されることとなった。