大阪の明治・大正・昭和初期のカラー印刷(7/8)
市田幸四郎とその時代(1885~1927年)

元凸版印刷株式会社専務取締役 河野通

市田幸四郎と中西虎之助

オフセット印刷そしてHB特許製版

市田幸四郎は8歳の時、明治26年(1893)に初代の市田左右太(1843~1896)の養子となった。しかし、養子になった数年後、初代の市田左右太は50 歳代で亡くなり、市田幸四郎は二代目の市田左右太(1859~1930)の下で育てられた。彼が神戸商業高等学校を卒業した明治40 年(1907)は日露戦争後の企業熱が最高潮に達した時期であった。こうした世情を反映してか、市田幸四郎は写真館の経営だけでは満足できず、館内にコロタイプ写真印刷工場(32)を設け、宣伝用の写真帳の制作を始めた。

22歳のときである。得意先は造船会社、汽船会社、私鉄会社などで、次第に株券や社債券、乗車券などの有価証券の注文も増えてきた。しかし、それは自分のところでは印刷できないので専門の印刷所に回す、ブローカーのような仕事であった。そんな経緯から市田幸四郎は市田印刷合名会社を設立し、凸版印刷の関西代理店となった。明治43年(1910)、25歳のときである。

しかし、義父の二代目の市田左右太は、こうした印刷事業の拡張には消極的であり、市田幸四郎が独断でポッター社の自動オフセット枚葉輪転印刷機を発注したことから、ついに市田家から市田幸四郎を除籍(分家創設)してしまった。大正2年(1913)、28歳の時のことである。

それでもくじけることなく学友などからの資金面、事業面での協力を得て初志を貫徹した。市田印刷合名会社の事業を進める一方、中西虎之助と折半の出資で、大正3年(1914年)、東京の神田・鎌倉河岸(33)オフセット印刷合名会社(34)を設立。アメリカのハリス社のオフセット枚葉輪転印刷機とポッター社の自動オフセット枚葉輪転印刷機を導入して事業を開始した。出来映えの素晴らしさと印刷速度でオフセット印刷に対する評判を一気に高めた。なお、市田幸四郎は、この輸入したポッター社のオフセット枚葉輪転印刷機の組立にあたった中村鉄工所の浜田初次郎・職長に無償で組立図を譲り、浜田初次郎はそれで国産最初のオフセット印刷機を完成した。大正3年(1914年)のことであった。

ここで忘れてはならないのは「本邦オフセット印刷開拓者 中西虎之助」(増尾伸之著 昭和31年(1956))という本も出ている中西虎之助の果たした役割の大きさである。

中西虎之助は明治23年(1890)に10年間勤めた、京都で最初の活版印刷所、點林堂印刷を辞めて独立し、中西英整堂を作り、明治25 年(1892)頃から京都の村井商会のタバコ包装紙の印刷を受注し、明治26 年には工場を拡張した。当時、タバコは民営で、東京の岩谷商会と京都の村井商会が激烈な競争をしていた。包装紙で凝るのみならず、タバコに美人カードを付けたりしていた。

村井商会タバコ工場
http://shigeru.kommy.com/renga5.htm

村井商会は明治32年(1899)、アメリカとタバコ製造について技術提携を行い、印刷機もアメリカから石版ではなくてアルミ版を使用し、インキの付いた版への用紙の加圧方式も板を置いてその上から圧力を加える平圧方式ではなく、円筒状のローラで加圧する円圧方式の印刷機を輸入した。京都・東山に煉瓦造りのタバコ製造の新工場を建設する同時に、タバコ包装紙の印刷のために東洋印刷を設立し、村井吉兵衛が社長となり、中西虎之助を専務取締役に迎えた。しかし、日露戦争を契機に政府は明治37年(1904)、タバコの専売化を行ったため、村井吉兵衛はタバコ製造工場を大蔵省専売局に売却するのと併せて東洋印刷も大蔵省専売局に売却し、それで手にした膨大な資金で銀行、別の様々な事業を手掛けることになった。そして東洋印刷は専売局伏見工場となった。

こうした村井吉兵衛動きを事前に察知した中西虎之助は明治36年(1903)、東洋印刷を辞め、明治21年(1888)設立の中井印刷所の中井徳治郎と組み、アルモ印刷を設立。中井徳治郎が社長、中西虎之助と中井利正が専務取締役となり、営業を開始した。この間も中西虎之助はアメリカから導入したアルミ版の技術を惜しみなく知らせたため大阪では急速にアルミ版化が進んだ。その恩恵を受けた1社が明治10年(1877)に中田貞炬が創業した中田印刷だった。中田印刷の中田熊次は凸版印刷と提携して仕事量が増えたこともあって、明治38年(1905)に日本精版を設立し、アルミ版を使った平板印刷を推進することになった。

市田幸四郎は続いて翌年の大正4年(1915)には大阪梅田に市田オフセット印刷合資会社を設立した。市田、30歳の時のことである。それに伴い市田はオフセット印刷合名会社の出資分の1 万円を中西虎之助に譲渡すると同時に、彼が発注したポッター社の自動オフセット枚葉輪転印刷機を引き取り、自分の設立した市田オフセット印刷合資会社に設置した。同時に凸版印刷の関西代理店としての活動も終了した。そして市田は大正5年(1916)には、残っていたオフセット印刷合名会の持分5000円も譲渡し、そこから完全に手を引いた。

なお、オフセット印刷合名会社は、当初から意向があった凸版印刷によって大正6年(1917)に買収され、オフセット印刷合名会社の鎌倉河岸の工場は凸版印刷の神田分工場となった。大正7 年(1918)、設立からわずか4 年足らずでオフセット印刷合名会社は解散されて消滅した。機械設備と事業全てが凸版印刷の下谷区二長町(現在の台東区台東1 丁目)の本社工場に移転された。これを契機に凸版印刷の本社工場のアルミ印刷はすべてオフセット印刷に切り替えられることになった。オフセット印刷合名会社の存在期間は短かったが、日本の印刷業界に与えた影響は極めて大きかった。

市田幸四郎は大正6年(1917)、市田オフセット印刷合資会社を市田オフセット印刷株式会社に改組する一方、多色カラー印刷の改革を模索している中で、アメリカではHB プロセスと呼ばれる製版法が開発され、普及し始めているという情報を入手し、その特許権の買い取り交渉を始めた。市田33 歳のころである。バッファロー市にあるヒース平板会社の技師ヒューブナー(Huebner)と、共同経営者のブライシュタイン(Bleistein)の頭文字をとってHB 製版法と名付けられた。(35)市田はアメリカのHB特許会社(Huebner-Bleistein Patents co.)と交渉したところ、30万円(36)という金額を提示された。当時の事業規模では、とても一社で応じられる金額ではなかった。

そこで市田幸四郎は、凸版印刷(株)、東京印刷(株)、小島印刷(株)、(株)秀英舎(37)(株)精美堂(38)に話を持ち込み、市田オフセット印刷(株)との6社のシンジケートを組織し、大正8年(1919)、伊東亮次・東京美術学校助教授(後の印刷学会会長)、浜田初次郎(浜田印刷機製造会社設立者)、小島初夫とともに渡米し、特許契約料30万円で契約を締結した。そして大正9年(1920)に日本HB 特許製版(株)が設立されることになった。その事務所は凸版印刷(株)の本社内に置かれた。初代社長には(株)秀英舎の社長が就任し、HBプロセスの第一号機は大正9年(1920)に市田オフセット印刷(株)(海老江工場)に設置された。翌大正10年(1921)、第二号機は凸版印刷(株)(下谷工場)に設置された。しかし、この間、各社の思惑の違いから相次いで各社がシンジケートから離脱し、二代社長は凸版印刷の井上源之氶がなった。

この日本HB特許製版(株)の運営は、市田オフセット印刷(株)と凸版印刷(株)と、後に市田オフセットと日本精版が合併して誕生した日本精版印刷(株)の3社によって行われることになった。類似の機能を持つ装置を、大正11年(1922)には(株)精美堂が、そして大正13年(1924)には(株)秀英舎が導入する状況になった。

HBプロセスの導入のため市田幸四郎は大正9年(1920)に大阪・海老江に2000坪の土地を求め新鋭の工場を作った。この時の借り入れをした岸本銀行が第一次大戦後の不況で倒産したため資金繰りに困り、結局、大正12年(1923)、ライバルの日本精版印刷に吸収合併され、精版印刷株式会社(39)となった。

そして市田幸四郎も引退を決意したのだという。しかし、まだ38歳であって、周囲はこれを許さなかった。大正13年(1924)、浜田初次郎など多くの支援者によって新たに東京に市田オフセット印刷株式会社が発足した。事業は順調に推移したが、それから3年後、昭和2年(1927)3月2日、市田は竹橋付近で交通事故にあい、2日後に亡くなった。享年42歳であった。そして指導者を失った東京に新設された市田オフセット印刷(株)は、後に大日本印刷(株)の前身の一社となった日清印刷(株)(40)に吸収された。

一方、精版印刷(株)も昭和19年(1944)に凸版印刷に吸収合併され、凸版印刷大阪支社となった。市田幸四郎が印刷業界に残した業績、市田幸四郎が育てた人材は、主として凸版印刷と大日本印刷の大手2社に別れて引き継がれ、カラー印刷の発展に大きな貢献をすることとなった。

○製版技術の変革
初期には石版石の上に直接画像を書いて版を作った。それが砂目スクリーンの登場で簡便に効率良く良いものが作れるようになる。この技法をクロモ石版と言う。(このためのスクリーンは初め輸入していたが明治45 年、大日本スクリーンの創始者石田旭山により国産化)。明治22 年、森川印刷の森川桑三郎はこの技術を修得した。それまでは墨刷りの輪郭に手で彩色していた。それが日清戦争を境に急速に普及し、専門の画工が輩出した。そして古島印刷、中井印刷による引札のブームが起こった。
市田幸四郎が活躍するのはその後の事。クロモ石版によるカラー印刷の大競争時代が始まり、その全盛時代をへて光学的に製版する方法へと代わり、HB製版へと移った。
○印刷版材の革新
初めは銅版とか石版、木版に画像を作っていたが、明治32年京都のタバコ会社村井商会がアメリカから石版でなくアルミ版を使い、それまでの平圧でなく円圧方式のアルミ輪転四六倍版印刷機を輸入して、東洋印刷株(中西虎之助)を作った。これ以降急速にアルミ版に変わった。(オフセット輪転機が導入されてからは取り扱いが難しく版材は亜鉛板になった。アルミが復活するのは1960年代になりPS版が普及するようになってからのことである。)
  1. コロタイプ写真印刷:Collotype:ギリシャ語で“にかわの”という意味。ガラス板に塗布したゼラチン感光剤を版とする写真印刷法。印刷過程でインクの透過のためのスクリ ーンを必要としないプロセスで、精巧な複製には適するが、版の寿命から大量印刷には適さない。
  2. 鎌倉河岸:家康入城のころから、付近の河岸には多くの材木石材が相模国(現在の神奈川県)から運び込まれ、鎌倉から来た材木商たちが築城に使う建築部材を取り 仕切っていた。そのため荷揚げ場が「鎌倉河岸」と呼ばれ、それに隣接する町が鎌倉町と名付けられたという。
  3. 資本金3万円。それを折半。現在の価値で1億円程度。
  4. HB製版法:HBプロセスについては添付資料を参照されたい。
  5. 現在の価値で10億円程度。
  6. (株)秀英舎:大日本印刷(株)の前身の一社。大日本印刷の前身は秀英舎と日清印刷。秀英舎は東京・京橋に明治9年(1876)設立。日清印刷は東京専門学校(後の早 稲田大学)の印刷所として明治40年(1907)設立。昭和10年(1935年)に両社が合併し、大日本印刷(株)となった。
  7. (株)精美堂:共同印刷(株)の前身の一社。共同印刷の前身は博文館印刷所と精美堂。博文館印刷所は博文館(明治20年 東京・本郷で創業)の出版社の印刷部門とし て明治 30 年(1897)設立。その博分館印刷所に勤務していた大橋光吉が明治39年(1906)に設立したのが平版印刷の精美堂。大正15年(1925)、 博文館印刷所と両社は合併して共同印刷(株)となった。
  8. 精版印刷株式会社:精版印刷合資会社は明治38年(1905)、専売局の煙草包紙の印刷のために発足。大正5年(1916)に明治 37 年(1904)創業のアルモ印刷合資会社 と合併し、社名を日本精版印刷株式会社とし、さらに大正12年(1923)に市田オフセット印刷株式会社を吸収合併して精版印刷株式会社となった。
  9. 日精印刷(株):日清印刷は東京専門学校(後の早稲田大学)の印刷所として明治 40 年(1907)設立。昭和 10 年(1935 年)、明治 9 年(1876)設立の秀英舎と合併 し、大日本印刷(株)となった。