凸版印刷45年を振り返って(3/8)PDF

河野通

1-8 紙器 サントリー/カルピス/アサヒビール

昭和34年、35年当時、凸版印刷の管理方式は証券とか出版向きで、包材のように受注は即納入、売上げにつながり、しかも同じものをエンドレスに生産、納入することを前提に組み立てられてはいなかった。

在庫とか返品とか、いわんや長期在庫、過不足処理などは想定されてはいない。勿論見込み生産などは今でも認知されていない。しかし、これは考えて見るとおかしなことで、包材のビジネスとは、そのようなものとの認識あるいは前提で管理方式を組み立てないと、無理と歪みが出て来るのでなかろうか。

在庫をもたないと客先の要求を満たせない。いかに在庫リスクを最小にしながら、納期に対する対応を満足させるかの仕組を作ることが大事である。いまでもリードタイムがとれる仕事、技術力あるいは企画力といったことでとれる仕事が中心になっている。管理とか会計システムそのものを包材ビジネスの業態にあった仕組に変えていくことが望まれる。業務改革の中で取り上げられれば素晴しいことだが………。

さて紙器をやり始めたら、ちょうど高度成長期の始まりの時期だったこともあって、大変に面白かった。当時は無我夢中だったが、今から考えると何もかも新しいことなので、全部自分で考えて実行した。だれも先生はいないし、教えてくれる人もいない。生産管理、工程管理、在庫管理、品質管理、SQC、IE、管理のことなら何でも勉強した。P.ドラッガーの「現代の経営」に出会ったのもこのころのことである。家内の父の紹介であった。以来私はドラッガーの信奉者になった。彼の本は殆ど読んだ。

サントリー杜は当時まだ寿屋といっていた。洋酒ブームが起こり、ギフト商品として洋酒の詰め合わせがよく売れた。現在のギフトボックスと殆ど同じである。当時寿屋のデザイン室には柳原良平、開高健など今では有名な人が駆け出しで沢山いた。

化粧箱の蓋はオフセットで刷り、身と中仕切りは段ボールまたはその上に布張りをする。さらに瓶の破損を防ぐため仕切の裏に補強をする。最近のものは省資源とコスト削減のため随分改良されて簡潔になっているが、最初の頃はとにかく見栄えを良くすることと、輸送中に破損しないよう強度に重点がおかれた。そのため部品点数が多く、組み立ての工数がかかった。全部手内職にばらまいて作業を行ったので、この管理が大変であった。

書籍は何台もの折をまとめなければ製品にならないので、部品管理の概念を持っているが、概して印刷物は部品点数も少なく、組み立て工程も単純である。しかし、贈答箱の場合、一品目でも工程の異なる数点の部品からなり、これが何品目もある。またトラック一杯積んでも600ヶとか1000ヶ、それを毎日何千、何万個納めなければならない。

しかも今でいうジヤストインタイムで、先方のコンベヤーラインにあわせて納入する必要がある。嵩が大きいため、先方にも在庫のスペースがないからである。組み立て型の工程管理について勉強になった。

しかし、サントリーのギフトケースについては、その後、私はもう一度苦労することになる。この時も転勤1年で呼び戻され事態を収拾することになった。

ともかく包材のビジネスでは、緻密な計画とリアルタイムの進捗状況の把握、差異に対する迅速なアクションが必要である。明日は何とか、これは明日考えよう、というような先送りがカスタトロフイーを引き起こす。

私は印刷業の進捗管理は、生産現場の生産実績のリアルタイムの把握が先ず最優先事項と考える。こられなくしては多品種、大量、短納期の生産活動を効率良く行うことは不可能である。

最近の業務改革の議論のなかでこの点が軽視されているのは残念だし、方法を誤りかねないので危惧している。先達の苦労した経験を生かしてほしい。

同じ時期、中元贈答品として大量に出たのがカルピスの詰め合わせ箱だった。500円、750円、1000円、1300円、1500円売の5種類程で500円売の2本入りなどはロットが多いときには100万ヶを超えた。

3月頃から始まり8月1週目が最後の納品になる。ところが7月中句からの最後の1月は売れ行きが良い時は、追加が出て緊急生産しなければならないし、売れ行きが悪い年は生産を止めなければ大量の在庫が残る。注文数だけの売上、入金は出来るが、1年間倉庫に保管しなければならない。このあたりの読みはゲームみたいなもので、ドンピシャリと予測が当たったときは営業、作業共々大喜びしたものである。

日置前専務とはこの頃からの営業/作業の相棒であった。単品マスセール時代の典型的商品として懐かしい時代である。カルピスはこの成功にあぐらをかいて消費者の嗜好の変化を掴みきれず、長い停滞の時期に入る。復活するのは現カルピス社長の小林公生さんが役員になられたころからである。小林さんは大阪支店にもおられ、凸版のパッケージツアーにも参加していただき、私も同行した思い出がある。出世されて嬉しい。

同じ時期のもう一つのマスセール商品は、贈答品として人気があった瓶ビールの半ダース、1ダース入りの箱である。中元商品で今では段ボールケースあるいは中味が缶になっているが、当時は瓶ビールのみで、しかもオフセット印刷してからチップボールに合紙して打抜き、金具止めして箱にしていた。関西では朝日ビールが贈答品としては圧倒的に強く、これもカルピス同様天気が良ければどんどん売れて追加の対応に苦労した。

サントリー、カルピス、朝日ビール向けのビジネスはいずれも贈答用の季節需要のものであった。これ以外にも歳暮の時期には清酒の贈答箱があった。これも最盛期には600万ケースを超える受注をこなした。これらの季節需要に支えられて紙器の仕事は拡大の道を順調にたどった。

この傾向が変化してくるのは48年のオイルショック以降であり、省資源、過大包装の排除といった世の中の流れの変化が紙器の在り方を変化させ、その流れは今でも続いて包装容器リサイクルヘと向かっている。

1-9 高度成長時代 花王の成功

昭和30年代後半からの高度成長期のもう一つパッケージ業界に与えたインパクトは、食品、家庭用品の著しい売れ行きの増加である。その一つに家庭用合成洗剤がある。

花王石鹸(現往の花王)は我が社の創業以来の古い大切な得意先であるが、戦後は占領軍の命令で会社が二つに分割されていた。そして会社が倒産するかどうかの瀬戸際の時、元社長の丸田芳郎さんが当時アメリカで開発されたばかりの、合成洗剤を独自の技術で合成し商品化することに成功された。

丁度ラジオの民間放送が始まったころで、ワンダフルの名前でコマーシャルを打ち大ヒットした。この時の包装はまだ紙の袋で、我が社で印刷して花王さんが詰めておられた。袋の色が赤色だったので赤ワンダフルといっていた。

当時家電の三種の神器の一つに電気洗濯機があり、どんどん売れていた。洗濯機では石鹸は使いにくいし、汚れもとれにくい。それに対し合成洗剤は良いことづくめで、どんどん売れた。

そのため花王ではスイスの SIGの高速自動充填機を導入して対応することになった。これを機会に包装も袋から紙器に変更することになった。すでに欧米では洗剤に紙の容器が使用されていたが、日本では始めての試みだった。難しい点は、粉を直接紙の箱にいれ、漏れないようにする、また湿気が入らないようにすることである。吸湿すると洗剤がケーキ化して固まってしまう。また洗剤は台所とか風呂のような湿度の高い所に置くことが多いので耐水性も必要など始めての課題が多かった。

それと当時の紙器への充填は手作業が大半で自動充填など殆ど経験がなかった。怖いもの知らずで、立ち向かい、花王さんにも色々指導していただいた。このあたりの経験が後にも述べるが、標準化、さらには紙器の CADへと繋がる流れになる。

昭和37年頃になると50円売から、100円売へ、さらに200円売りへと量の増大と大容量化が進んだ。さらに充填スピードが上がる。大阪から和歌山の花王さんへ確実に納入するため現地にデポを作ろう。さらに充填適性の向上のため、現地にグルアーを置こう、ということで現在の関西容器和歌山工場(現凸版プラスチック)の所に土地を購入し、分工場を設立した。

後にはオフセット印刷機も設置し、花王向けの生産はここをメインにした時期があった。その後、印刷がオフセットからグラビヤ、即ちボブストチャンプレンヘと移行し、和歌山工揚はグルアー工程と新しくプラスチックのブロー容器を花王向けに生産するようになる。

これが関西でのプラスチック事業の始まりである。洗剤容器はその後もどんどん成長を続けるが、昭和48年のオイルショックの時の洗剤パニックあたりを期に、大形化からコンパクト化へ、さらには液体化へと多様化、軽量化と成熟期を迎えた。我々はこの時期を通して花王さんとともに成長させていただくことができ、かつ技術も磨くことができ、さらに丸田元社長をはじめとする中川前会長、常盤前社長などの経営幹部の強力な経営理念、技術開発に対する哲学、手法………それらはいろいろ書籍、TV、新聞で紹介されているが………などを私はそれが成長している現場で体験出来たことを大変幸せに思う。いちいちお名前を上げないがお牡話になったか方々にお礼申し上げたい。

我々はお客様のニーズに対応することには慣れているが、もう一つ先回りしたウォンツヘの対応はそんなに上手とは言えないのでないだろうか。ボブストチャンプレン機の導入はその上手くいった、少ないが、その後大きく発展した良い例の一つと思う。

現在のボブストチャンプレン機の一例

昭和36年頃、花王さんの量の増大に対して消化体制をどうするかが、大きなテーマとなった。そのころ兼松からボブストチャンプレン機の話が紹介された。シーベルヘグナーが代理店だった。能力は魅力的だが、WEBのままどのようにして印刷と打抜きの見当を合わせるのか、理屈がわからない。当時大淀工場の技術を担当していた真多博志君が、自分が命を張ってやるから、買ってくれと当時の工場長の橋口始歳さんに頼んだ。

愛知元専務が小石川でパッケージの元締め役であったが、何とか了解してもらった。大淀工場では敷地が狭く入らないので、新工場を立てて、そこに導入しようと土地の物色から始めた。

何しろボブストチャンプレン機は開発されてから、まだ2、3年しか経っていない。凸版が導入したのは世界で11番目の機械だった。日本では勿論1号機である。しかし、この決断が大きく事業の拡大に貢献した。我が社が導入を決めたことでライバルの古林紙工も導入し、洗剤のパッケージの供給はその後長らく2社の独壇場となった。

1-10  伊丹工場の建設の成功と失敗 Bobst Champain/AI刷版 新技術導入の条件

昭和36年、ボブストチャンプレン7色インライン印刷打抜機の導入が決まり、大淀工場では場所がないので、この機会に新工場を建設し、どんどん増えている紙器の需要に対応することになった。当時の松岡正治支社長の尽力で現在の伊丹工場の土地の購入が決まり、将来は JRの福知山線側に道路が出来るという都市計画を信じて線路側が正面になるレイアウトの建物を作った。ところが30年経った今でもその都市計画は実施されないままで、入口が裏にある変な工場で、しかも出入口が一箇所しかない不便を強いられている。この入口が問題になって、その後、工場拡張のため裏の土地買収を何度も稟議に上げたが、沢村社長に了解をいただけなかった。

しかし、そのおかげで1973年に福埼に土地を買うことができ、現在のパッケージ部門の関西の拠点にすることになった。ロングレンジでものを見ることの大切さを実感した一つの例である。

さらに伊丹工場の建設に係わって、既存の工場の移転に関するノウハウについても高い授業料を払ったが、勉強した。

第一は、たとえ15Kmしか離れていない所なのに、そこに従業員を移動させる(転勤)時に出る問題。 第二は、同じ人、同じ機械でも、作業する場所が違うとなかなか上手く動かないということ。 第三は、新技術、機械の導入には必要なインフラを整えておかないと、今でいう垂直立ち上げはできないということ。

このときの経験が後の福埼工場の建設、滝野工場の住設、さらには本社に来て全社の生産、技術を担当し新工場の建設をたくさん指導した時に大いに役立った。

話しを戻すが、新伊丹工場の工場長には経理出身の山田辰古さんと言う人が就任した。しかし、赤字続きで新工場が上手く立ち上がらないので、大阪工場から大西清次郎さんが来られた。

大西さんは板橋工場の製本課長をされ、産業能率大学の上野陽一先生の弟子で、昔の能率屋、今の言葉では IE屋さんで、シニオーパットという今でも情報出版で使われている製本の折の記号を考案し、仕様書作成を簡単かつ明瞭にし、標準化に貢献された人である。私も生産管理マンとして、アメリカで新しく第二次大戦中に研究され使用され、戦後導入された管理理論を勉強し大変に役に立った。大西さんは、こういう私を導いてくれた良き先輩のお一人である。

大西さんはこの文を書いている途中、1997年12月1日残念ながら86歳でなくなられた。ご冥福を心よりお祈りし、育てていただいたことをお礼申し上げたい。

当時オフセット印刷では、刷版がそれまで使用していた亜鉛版からアルミ版への移行が話題になっていた。大西工場長は、新工場では新技術で良いものを作るのだと全面的に亜鉛版のアルミへの切り替えを命令された。亜鉛版は引っぱれば伸びるし、切れにくいため、日常茶飯事の焼き付けの精度が悪く見当が合わないとか、印刷機の出合いが悪いとか、紙が伸縮して見当が合わないとかの問題を現場で亜鉛版を加減して解決していた(ごく最近でも、ある工場で、このようなことが行われているのを見て愕然とした)。

しかし、アルミ版は固く切れやすいので、亜鉛版のように現場で加減することでは問題を上手く解決できない。焼き付け機の精度を上げる。印刷機の精度を上げて版の通り正確に刷れるようにする(寸法精度、平行性など)。空調などを整え、湿し水を管理し、紙が伸び縮みしないようにする――――まず、こういう基本を整備することが必要だった。ところが、その基本を整備しないままに亜鉛版からアルミ版に切り替えたため、問題が続出した。

稼動率は落ちる。不良は山積み。結果は大赤字。ハウス食品様のハウスバーモンドカレーの発売された時で、納入数量を確保するのに大変に苦労したことを昨日のことのように思い出す。

そこで新技術にチャレンジすることと、成功させることを両立するためには頑張りだけでは駄目で、周到な事前の準備が必要であるということを肝に銘じて教えられた。このことは、経営層、管理層の人は心すべきである。臆病や慎重と周到な準備のために助走期間を設けることの違い、あるいは無鉄砲と無計画の竹槍主義で即実行するような玉砕型とを見分けることが経営者の大事な仕事の一つだと思う。

必要条件と十分条件と言う数学の話が身にしみる。

一方、オフセット部門がこのように悪戦苦闘している横では、初めて導入されたボブストチャンプレンのグラビヤ印刷打抜き機と、これまた手探りで、その利用技術を確立するのに死に物狂いの戦いをしていた。

第一号の仕事はリプトン紅茶のティーバッグのカートンだった。これは3色で、しかも紙がカード紙で比較的刷りやすく、オープニングセレモニーはなんとか切り抜けた。しかし、本命の花王さんの洗剤カートンで「ZAB」の箱、ハウス食品さんの「インドカレー」のカートンはかなり苦労した。

前者では中味の洗剤が漏れるという問題にぶつかった。打抜きが悪いためだった。スタートの時は良くても途中で刃が摩耗してくると精度が変わる。さらに打抜きに使う型の材料のベニヤ板の含水量が変わると、その寸法が変化し、結果として隙間が生じ、そのため洗剤が漏れる。このように今では常識になっていることを、一つ一つ調べながら改善していった。得意先からは生産に支障が出るものだからガンガンクレームが出る。そんな状況の中で、作業課も現場も営業も一体になり頑張った。お客様にも随分と迷惑をかけたし、ご協力も頂いて、そして一人前になれた。

後者ではカラーの見当が合わないという問題に悩まされた。これは20面ぐらいが1つのシリンダーについている小型のカートンだったが、グラビヤでフルカラーを20面もつけて刷るなど狂気の沙汰と思われた時代だった。もちろんヘリオのようなメカニカルエングレービングなどまだない。チッシュを使用して塩化鉄で腐食して版を作る時代である。したがってチッシュが伸縮して見当がなかなか合わない。腐食むらで調子が揃わない。カレーの色が黄色くなったり、黒くなったり、ご飯の粒が真っ黒とか、調子が飛ぶとか、オフセット刷りに合わせるのに随分苦労し、時間がかかった。

最近のエレクトロニクスの新製品、新マシンの立ち上げを見ていて、このことが思い出される。しかし悪いことばかりでなく、新マシンの良い所もすぐ判るようになった。やはりなんでもやってみないと判らない。判らないことは考えていないでやって見るという哲学を学んだのはこの時である。

それは平版で刷るよりも紙器の場合、巻取り紙のほうが必要な用紙の量が数%少なくて済む。これはコストの50~60%を用紙が占める紙器の場合には大変なことである。 しかもスピードがオフセットの2倍以上はでる。一度に7色印刷し、打抜きからむしりまでインラインで済ませる。今までの4工程以上が1工程で済む。ということはまず納期が1/4になる。生産性が4倍になるということである。

一連の問題を解決し、上手く稼働するようになったため、当時どんどん増加した洗剤カートンの供給に苦労しなくなった。そして MEAD社との合弁がスタートして大塚製薬様からいただいたオロナミン Cのマルチパックが爆発的に伸び、これらの供給のために東西でライン増設が次々と行われるようになった。

こうした状況が、ミードトッパン社が島田に工場を作るまで続いた。しかし、すでに述べたように、このオフセットから切り替えが当初から上手く行った訳ではなく、長らく作業量の確保と不良対策に追われた。

伊丹工揚が黒字化するのは近藤剛工場長になり、プラスチック成形、アルミチューブ加工、液体容器へと多角化路線を進み始めてからのことである。近藤さんは東大工学部機械の出身で、板橋では営業をされ、昭和30年頃関西支社が赤字で苦しんだ時に、先に述べた大西さんが大阪工場長、近藤さんが作業課員として赴任された。その時、布留川元専務も本社の経理としてしばらく大阪に滞在しておられた。

近藤さんは頭脳明晰で、明るく、馬力があり、マージャンの名人であった。沢村社長の亡くなられた後、同じ1981年に現役の凸版段ボール社長のまま亡くなられた。凸版にとっても、私個人としても大事な人を亡くしたと今でも残念に思う。パッケージの得意先から大変信頼が厚く、近藤さんにならレンゴーの仕事でも凸版に回してあげるという声を何度も聞いた。近藤さんが生きておられたら、段ボールのビジネスはもっと大きくなり、レンゴーには及ばずとも全国展開し上場するくらいになったと確信している。

私自身も一度は段ボールビジネスを本腰を入れてやりたかった思いがある。

1-11 小判鮫商法の成功

花王、ハウス、ライオン各社の生産工場の周辺に、我が社の最終加工の拠点を作り、印刷した半製品をデポジットしておいて必要数を必要なつど納品する仕組を昭和36年頃から始めた。

最初は花王石鹸様の和歌山工場での洗剤カートンの使用量が膨大になり、大阪から輸送していたのでは、時間に間に合わないとか、トラブルの対応が遅れるとか、緊急の予定変更に間に合わないとか、いろいろ問題が発生してきたのでバイプラント的な小工場を和歌山に作るということで、当時の工場長の橋口さんが用地を選定され作業場としてスタートした。

それが現在のトッパンプラスチック和歌山工場である。玉葱畑を整地して工楊を作り、オフセット印刷機と打抜き機、サック貼機をおいて、洗剤カートンの生産を始めた。

しかし、生産量がどんどん膨れ上り、オフセットでは間に合わなく、ボブストチャンプレン社製の巻取り式グラビヤ印刷打抜きインライン機が日本で始めて伊丹工場に導入されたため、昭和38年には印刷の仕事がなくなり、急遽、大日本除虫菊の金鳥蚊取線香のケースの印刷打抜きに転換して急場をしのいだ。その後、花王さんからプラスチックボトルの注文を頂けるようになり、昭和43年頃から印刷を止めて、ブロー成型とキャップ用のインジェクション成型に転換し、今日に到っている。

ハウス食品様のカレーの固形ルーのカートンも月に数百万個になり、毎分150ヶ以上の高遠充填機が導入されたため、カートンを大阪から輸送していたのでは納期に遅れたり、サック貼をしてから2~3日経過すると充填適性が悪くなり、不良が増えてクレームが多くなるなどの問題が起こった。そこで当時の大西工場長がハウス食品の新設直後の郡山工場内に一棟作業場を貸していただき、ここにサック貼の機械を1台据え付け、先方でその日に使用される数量だけ貼って納めることにした。それからは不良とか、納期遅延がなくなり、またトッパンとしては直接先方の生産情報が入り、工程管理が大変に円滑に行くようになった。この作業場は昭和50年台になり、カレーのカートンの生産が次第に、関東工場、九州工場に移管されて減少し、かつ、ハウス様が辛子チューブなどの新製品の増産のため、工場用地が狭くなったため、我々の作業場の撤退を要望されるまで続いた。

昭和43年にライオン歯磨様が明石に新工場を建設され、それまで小田原工場で生産されていた歯磨の生産が関西で始まることになった。我が社は戦前からライオン様の歯磨用のアルミチューブを、始めは本所工場で、続いて越谷の昭和容器、後のトッパンプラスチックで生産していた。これが関西に移管されることになった。この時にもチューブの検査と在庫のデポ、外箱のカートンのサック貼り作業場として西明石のライオン様の工場の近くに土地を求め作業場を設置した。

近藤工場長の時である。ここもアルミチューブがラミネートチューブに変わり、仕事がなくたってからは、サック貼りなどで細々と仕事を続いていたが、最近やっと整理がついた。思い返せば創業の時、撤収の時、各々の時期にその任に当たった方々のご苦労は並大抵の物ではなかったと感謝している。

このように得意先の発展拡大に併せて、その土地にともに進出し、その中で、あるいはその近くに拠点を構築することによって、得意先の信頼に応えてきたことが、我が社の事業の拡大と安定に多いに寄与したと私は考えている。また先にも述べたように得意先の内部情報を迅速かつ的確に掴み、迅速に対応することにより一層の信頼と安定がえられたと考えている。このことから私は得意先からのCO-OPの申し入れは積極的に受け入れ、前向きに取り組むことが業績の拡大と安定のための大切な施策の一つであると確信するようになった。小判鮫商法である。

1-12 人員整理 本当に社員にとってのしあわせとは

昭和39年に大淀工場を伊丹に新工場を作り、紙器部門を移転させると同時に、日本で始めてボブストチャンプレン7色グラビヤ印刷打抜き機を設置し、紙器の生産に革命を起こした。活版は大阪工場の前の旧なには印刷の場所に縮小集結して合理化することになった。

これはスペースが狭くなり、増大する洗剤、食品、製菓、飲料などの紙器の需要に応えられなくなった大淀工場の生産力アップのための対策であり、また新たにムーアとの合弁で我々の手からビジネスフォームがなくなり、活版部門が縮小せざるをえなくなったことによるリストラ策の一石二鳥を狙ったものだった。さらに跡地には大阪では内部設備のなかった製本部門を設置することにした。これが現在のトッパン大阪ディスプレーKKの製本の始まりである。

活版は設備が半分以下になり、年史などを採算をみながら行い、縮小の道をたどった。数年後にはさらに縮小し、場所も移し、外注化した。それでも昭和60年代まで続いたが、私の支社長時代に完全に廃業した。思えば、他にも証券の凹版のパワープレス部門、アルミチューブ部門と3つもリストラしたことになる。それが時代の流れだとは言っても感慨が深い。

しかし、私が大淀時代に活版を勉強したことは、後に本社で技術担当として文字画像のデジタル化を推進する時に役に立った。もし、この経験がなかったら社内の調整にしても海外を含む外部の交渉にしても的確な判断が出来なかったと思う。若い時の苦労はお金を出してでも買えと言われるがまさに当たっている。

ちなみに活版については、フォーム印刷にシフトして体質改善をするつもりだったが、アジアビジネスフォーム、さらにトッパンムーア社へと話しが進み、我々の手から離れてしまった。同時に部下の一部や同僚が職場を分かつことになった。

以後、たくさんの分家の経験を繰り返したが、大所帯でいるより小さな所帯にして自由に、その代わり責任をもって仕事をさせるほうが一人前になるのが早いと思うようになっている。但し、潰れないように見守り、かつ、必要な時には、適切な援助の手を差し延べてやることが大切である。

もっとも伊丹工場は、その後も新事業を立ち上げては分家し、また新しい分野を立ち上げることの繰り返しで、自分は苦しんでいる。先輩として心残りである。ちなみにパッケージで手がけた新分野を列記すると以下のようになる。

美粧段ボール、プラスチック成型、アルミチューブ、紙カップ、ミルクカートン、 EPパック、厚紙用エクストルーダー

活版のリストラは大淀から海老江という近くの工場への移転だったので比較的スムースに進んだ。一方、伊丹への移転は、今でこそ近いし支障がないように思えるが、当時は田舎に移るという感じだった。特に大阪市内にいた人たちはかなり不満を持った。通勤も阪急電車なら本数も多く不自由ないと思うのだが、当時の国鉄伊丹駅の列車の時刻に合わせて始業時間をずらして欲しいという組合の申し入れがあり、始業時間を15分遅らせて解決したようなこともあった。

ところで伊丹移転と同時に新工場にはボブストチャンプレンだけでなくオフセットの4色機や打抜き機も増設され、人員も30名ぐらい増員したため、新工場は設備償却の負担が重く赤字続いていた。そして昭和40年になって、工場長が大西さんから近藤さんに代わった時に、損益改善のため人員削減を含めた合理化計画を作ることになった。当時人員は350名近くいた。

赤字の原因はいろいろあるが、第一は新鋭設備、ボブストチャンプレンの稼働率が上がらないための設備償却の負担の重さだった。技術的なトラブルからオフセットからの切り替えがなかなか進まなかった。洗剤ケースのように内部的には上手く切り替えができたものでも、肝心の材料の用紙についてデラミネーションなどのクレームが続発した。層間剥離といった平板の時には想像もしなかった問題である。製紙会社も初めてのことで対応が遅い。グラビヤでオフの調子が上手く再現出来ない。多面付ではムラが直らない。従って稼効率が落ちるし、ロスも多い。償却金利だけで時間6万円と言われて責められても、機械は動かない。

またオフセットでも、先に述べた通り、新しく亜鉛版に代わって取り組んだアルミ版が使いこなせず、ロスの山を作っていた。ハウス食品様のバーモンドカレーの発売された時期である。技術基盤の整備されていないのに導入を急いで失敗した好例で、以後、この経験を基に私は新技術導入には急がば回れを原則にした。恐れて新技術導入を止めるのでなく、環境を作り上げてから導入するという意味である。急いで、かつ、焦らずということである。必要にして十分というのが数学での解の中にあるが、十分条件まで満たさなくても、必要条件は満たさないと、ことは成功しないというのが以後私の信条になった。そのことに精力を注いだものはたいてい成功した。

話しが横道にそれたが、ともかく損益改善のためには新設備は捨てるわけに行かないので、労務比率を内部生産の30%以下にする、そのためには労務費の高い交替制のシフトダウンで人員を減らすということになり、平版課を中心に十数名の人を配置転換することになった。ちなみにボブストチャンプレンの担当だけでも当時は8名いた。今では3名である。

こうした過程で私は大切な一つの教訓を学んだ。ともかく新工場で頑張ろうと来た人々に退社とか大阪工場への配置転換を申し渡すことは、大変に嫌なもので私は二度とこうした思いはしたくないと心に誓った。以後、会社を退職するまで、人員の増加については最後まで抵抗し、機械化と省人化によっても対応できなくても、仕事量が保証されて始めて増員するほど、人員増についてはこだわることを主義にした。それが福埼工場、滝野工場の成功につながったと思うし、本社に来てからもやかましくいったことの一つである。

人が多い方が仕事が楽だ。急ぎの仕事にも対応できる。休暇とか病欠にも機械を止めなくて済む。そう言った現場からの人員増の要求と、人員削減に対する抵抗は大変なものである。しかし、(利益は人の削減から)はいつの時代にも通用する原則であるし、それ以上に仕事が減って人員削減をしなければならなくなったときの苦しみを考えれば、少ない人員で無理をする方がよほど楽である。その方が働く人にとっても、より幸せと思うのは私一人であろうか。

その後、バブル時代、全社的に人が足りないといって新卒を大量に採用し、かつ、労働時間短縮を求められため、労務比率が向上し、減益に陥ったのは記憶に新しいことのはずである。労働生産性を落とさない範囲で、増員とか、賃上げとか、労働時間短縮とかを考えなければ、そして増員が止むを得なければ、まず生産性を上げる工夫をさせなければ、減益になるのはあたりまえのことである。当時の本社スタッフに、そのような考えと部門間のコンセンサスがなかったことは、驚きでもあり、また不幸なことであった。パズル末期の1990年頃の話しである。

1-13 仕様の標準化と品質保証 CADの準備と抜き取り検査法の信頼性

紙器の仕事に携わるようになってからつくづく感じたことは、出来たもの一つ一つが商品として販売されるもので、平均値の善し悪しでない。すべてがあるレベル以上の品質が要求される。重欠陥は許されない。いわゆるゼロデフェクトということである。

昭和35年頃、我が社で第一次の QC導入があった。田村照一さんとか、松山茂さんとか、小石川の速水寿君などが推進者であった。関西では松山さんが中堅クラスのメンバーを集めて SQCの勉強会を開いて、推進者を養成したので、これがその後、大変に大きな力になり、1980年代になり TQCの導入に当たっても、これらの人が核になり成果をあげた。梅田三郎、今村常泰などの人たちである。

品質の不良には2種類ある。一つはバラツキによるもので、一つは設計が間違ってすべての品が不良になるものである。その頃は得意先の口頭による寸法指示とか、中身を現物合わせで箱を作るとか、寸法一つとっても文書化されていることは少なく、トラブルが絶えなかった。

手作業で充填しているときは、少々寸法が違ってもなんとか中身を詰められるが、丁度、高度生長期に入り、高速化、機械化、量産化の波が押し寄せており、大量生産で機械化すると、1mm違っても駄目になるようになった。それ以外にも、サックの封をする差し込みの固さとか、ロックの強さも開きにくいとか、輸送中に蓋が開いてしまうといったクレームも出た。しかし、これらは抜き型を作る人の腕まかせで標準がなかった。

もちろん紙の厚み、固さによっても変わるので標準を作ると言っても単純なことではない。そこでまず昭和38年に織田英輔君に入稿する全点の寸法を方眼紙の上に形状と共に記録させることにした。寸法上のクレームについても必ず修正寸法を記録することにした。しかも消して記入するのでなく、前の寸法が判るようにした。

初めはなかなか大変で図面のないまま仕事が流れたり、納期が無いからといって見本のみで進行するものもあり、苦労したが、織田君は実に粘り強く、これの完成にあたってくれた。履歴が残るので不都合箇所が容易に判る。類似のものはあらかじめ手をうつ。試行錯誤のすえ最適値が判るなど、当時急速に出始めた自動充填機用のカートンの寸法設計に大変有力な武器になった。

得意先との確認、木型発注と検査、製版用のテンプレートなど、当然、紙の銘柄、厚みなど必要事項も図面上に記入されるので、今で言う仕様書のはしりであった。これで花王、ハウス、森永、明治製菓、カルピス、サントリー、ミードなど大手得意先の寸法上のクレームはなくなった。しかし、木型の加工精度と伸縮による誤差は後にレーザー加工による木型の製作が行われるようになるまで残った。

この図面によりデータベース化された寸法情報と、岡田好之君という紙器のサンプル作りの名人の脳味噌につまった知識が、深見拓史君をリーダーとするプロジェクトチームによりトッパン CADシステムに取り入れられ、史上始めての人工頭脳つきのパッケージ CADが開発された。昭和60年(1985年)のことである。データベース化に取り組んでから実に22年の歳月が経っていた。

最初は IBMのメインフレーム上で動いていたが、平成4年(1992年)、ダウンサイジングの流れで UNIXの WS用にバージョンアップされた。私はこのシステムを外販してデファクトスタンダードにし、紙器の業界を牛耳ろうと思ったが、関係事業部の反対で実現できなかった。しかし、世界中に通用する製品だと今も確信している。

良いシステムが出来る背景には、過去に積み上げたデータベースと優れた技能者の頭脳の2つに最新の科学技術が組合わされることが絶対に必要である。

標準化と、もう一つのポイントはバラツキの対策だった。私は作業課なので直接技術を自分でうんぬんできない。出来ることはいかに管理するかである。当時、塩野義製薬様のカートンの注文を頂いていた。製薬会社は今でもそうであるが、人の命を預かる薬を作っているのだから特に品質に敏感であり、管理もしっかりしている。 SQCなど早くから導入し、製品の受け入れはすべて JIS9001にもとづいて行われていた。

ところが我が社は未だにそうであるが、「全数検査が最上の検査法であり、これさえすれば不良は絶対に入らない。もし、不良が混じり込むようなことがあれば、それは不注意である」という信念みたいなものがあった。それで製品は、すべて何回も全数検査し、選別をして納入するが、受け入れでロットアウトになり、また全数選別をして納入する。それでも、またアウトになる。そんなことが繰り返されていた。

その結果、収率は20%とか30%という状況であった。サンスター歯磨も塩野義と提携していた関係から受け入れ検査の方法は全く同じであり、ここでも同じように苦労させられた。結局判ったことは、誤魔化しは駄目であるということだった。

統計的には生産者危険率と消費者危険率の範囲で過ちは起こりうるが、その後30年近く色々な検査と結果を注意して見てきたところ、正しい抜き取り検査法で判定した結果が間違っていることはなかった。全数検査は検査の方法としては間違いであると言うことである。

このように工程の保証なくして品質の保証はありえないことを伊丹工場の立ち上げで痛感させられた。この経験は後にライオン様の歯磨チューブを生産し始めた時に大変に役に立ったし、EPパックなど液体容器、レトルトパック、ジュース用スタンヂングパウチなど一次容器の品質保証に強力な武器になってトッパンのパッケージの拡大の陰の力になったと確信している。今一番このことを考えなければならないのはエレクトロニクス分野である。

1-14 再び大阪工場へ

悪戦苦闘しているうちに、伊丹工場の見通しもなんとか出てきた。サントリー、カルピス、清酒の贈答箱などの季節需要が順調に増え、花王、ハウスなどの定期性の仕事も急増し、設備も順調に稼働し始めたからである。伊丹開設時に無理をして拡販した結果、積み上がった在庫も正常化されてきた。そしてさらなる拡大のため、岡山地区に営業所を作ろうとか、新分野をなにか手がけようとか気運が出てきた時、突然、大阪工場に転勤することになった。昭和42年の暮れのことである。今振り返ると当時生産のあらゆる手配は作業課長であった私の手にあり、自分では会社のため、これがベストだと考えていたことでも、色々な見方、やり方があり、あまりに独善的と思われた結果の異動だったと思っている。「会社というのは誰かががいないと動かない」ということは嘘であることを実感した。以来、この人がここにいないと仕事が支障を来す、というような弁解は気にせずローテーションの積極的推進論者になった。

大阪工場では商印の作業課長として千里万博前の活気のある仕事ができた。古野孝三工場長から板橋流の工数の見積り、特に製本など後加工の工数管理について大変に勉強させてもらった。仕事は前にもやっていたことなので苦労は感じなかった。ただ商印の常として年末の繁忙時期には外注回りで深夜になるのは当たり前で、課員を送り届けて家に帰ると翌日になってしまう。こうしたことも今となっては懐かしい思い出である。

また板橋工場と毎週、週刊朝日やサンデー毎日の表紙のポジを航空便で送受し、それを伊丹空港に出向いて行うというのも作業課の仕事だった。ある日板橋工場から伊丹空港の最終便に乗せた筈のポジが到着してないとの連絡があった。夜半二時頃のことである。自分で車を飛ばして課員を起こして回り、空港から航空会社や運送会社の倉庫を夜明けまでかって探し回ったこともあった。間違えて福岡に着いたことが判り、朝の一便で無事に東京に到着してことなきをえるなど様々な出来事があった。

この頃、大小たくさんの外注先の印刷会社とおつきあいをしたので、多くの印刷会社のコストや管理方法や労務費など経営全般について良い勉強をさせてもらった。これは凸版社内だけを見ていては判らないことだった。特に稼動率、予備率などは今でも外部の協力会社との差は大きいと思う。この点を改善するだけで、もっと凸版は利益を出せると思う。

この大阪工場の時期は、その前の、いくら努力してもなかなか成果のでない伊丹工場の時期と比べると仕事にもやりがいがあり、今でも忘れ難く楽しい時期である。ところが仕事に慣れ、少し楽になった昭和44年(1969年)の5月、突然、再び伊丹工場への転勤を言われた。わずか1年あまりで、再び伊丹工場に戻ることになった。しかも、当時、異動は12月1日付が多く、6月1日付で補足的に発令されていた。5月15目付けというのは初めてである。私の頭のなかには伊丹工場に二度と戻るようなことはまったく、まさに晴天の霹靂であった。

1-15 再び伊丹工場へ 近藤工場長と新事業 成功と失敗

一年半ぶりに伊丹に帰って見ると近藤工場長の積極策で、いろいろ新しい分野への取り組みが始まっていた。しかし、その目前には難問が控えていた。

当時、中元時期と歳暮時期の年2回の贈答用のギフトボックスが紙器の需要の大きなウェイトを占めており、そのため生産高には繁忙期と閑散期ぐらいの違いが出ていた。

得意先はサントリー、カルピス、清酒各社で、生産時期は5、6、7月と10、11、12月に集中した。特にサントリーの洋酒の贈答箱は種類も量も桁違いに多く、しかも先方の瓶の充填に合わせる、いまで言うジヤストインタイムの納入が要求された。10トントラックに満載して600ヶとか、1000ヶしか積めないものを毎日2万ケースとか、3万ケースを納める。しかも最終の製造工程は手作業の組み立てである。なかでも中仕切は各社の企画競争のターゲットとなっており、複雑でかつセンスのあるものが要求されたため、どうしても組立工数のかかるものが多かった。1つの製品で部品数は少ないもので5点、多いものでは10点にもなった。そのため組立個数は1人1日、200ヶとか150ヶといった状況で、この作業のための材料の供給、製品の輸送、保管、納入の管理は極めて熟練のいる作業であった。

先に述べた難問と言うのは、この組立作業が昭和44年度の中元期の納入ピークを迎えていたが、納入はベタ遅れし、営業からはどうしてくれるのかの矢の催促で、完全にパニック状態に陥っていたことであった。私が作業部長代理として伊丹工場に戻っての最初の仕事は、組立作業のスケジューラーになると同時に、部品材料を組立の外注工場に自分でトラックを運転して配達し、出来た製品を得意先に納入するという運転手を兼ねることから始まった。

スムースに進んでいていても搬送には大型トラックだけでも10台以上は必要なのに、混乱しているので、さらに多くの台数が必要になる。台数が増えれば、さらに管理が難しくなり、円滑な部品の供給に支障が生まれ、生産が滞るという悪循環で、とんでもないことになっていた。

夜になると課員を集め翌日の作戦会議をする。昼間は外注先を走り回ることの繰り返しである。そこで起死回生の提案をした。万博を控えて関西支社は新社屋を建設していたが、それが丁度、完成したところであった。そこで新社屋への事務所の移転を一時棚上げし、新社屋を組立作業場にする。営業、事務部門の全員を動員して作業員とする。遅れを取り戻すための緊急措置ということで、こうした提案を工場長と松岡常務に進言し決断していただいた。

伊丹工場では、工場の交替勤務制で休みに当たる人たちにも出動してもらい、事務部門の人たちには全員半日交代で組立作業に従事してもらった。工場関係の人たちには1月近く協力してもらったように記憶している。その後も同じような無理を何度もお願いしたが、労働組合も営業の人たちも快く? 協力していただいて、危機を乗り越えることができた。改めてお礼申し上げたい。このような中で近藤工場長が凸版ダンボール KKの社長に栄転され、栗原隆三さんが工場長になられた。

近藤工場長は私が大阪工場にいた1年半の間に、旧大淀工場の一部でミルクカートン用の紙容器の成形加工、伊丹工場内でアルミチューブの成形加工及びプラスチックのブロー成形を新規事業として始めていた。この頃、日本は高度成長期に入り、得意先各社も工場の地方分散を急速に展開していた。ライオン油脂は大阪の堺に洗剤の新工場を建設、ライオン歯磨は西明石に歯磨工場を新設、花王は九州の門司に洗剤の新工場、和歌山工場に液体洗剤の設備を導入した。それに伴い、新たにプラボトルの需要が生まれ、さらに今までガラス瓶容器で売られていた牛乳をテトラッパックとして紙容器に詰めて売るということも行われるよういなった。こうした流れに注目し、紙器の一次容器への拡大のための開発を進める(それが EPパックなどのにつながる)と同時に、新分野の包材に参入を計ろうというのが近藤工場長の戦略であった。

プラスチックとアルミチューブは順調に成長した。ちなみにアルミチューブはライオン歯磨についでハウス食品で香辛料の容器に採用され、後に大きく収益に貢献した。但し、1986年、ラミネートチューブへの転換の際し、大日本印刷と東洋製缶のパテントの壁に破れてしまった。このことは後でもう少し詳しく述べたい。

一方、この時のミルクカートンは見事に失敗した。そこで再び重要な教訓を学んだ。一つは技術的に完成されていないもの、あるいは世の中のいわゆるデフアクトスタンダードの技術に育たないようなものに乗ることの危険性、別の言い方をすれば筋の悪い技術は駄目だというである。もう一つは、撤退の仕方の重要性である。この時の撤退の営業的始末のやりかたが、のちに GTパックでミルクカートンに再参入したとき苦戦を強いられる一因になった。いずれも技術者として、管理者として、経営者として心しなければならないことだと思う。

さらにこの頃、収益向上のため工場の効率アップ手法について、現場の課長、係長を含め、勉教会を開いたり、テキストの輪読会などを行い、それらを実務に即していろいろ議論した。それらを通じて、特に作業課員はIE、VA、Partなど工程管理の理論と実務を随分と勉強した。これはのちにコンピューターでスケジュールとか、生産実績とか、進捗情報を採るのにどうすれば一番良いのか判断したり、決めたりするのに大いに役たった。

ボブストチャンプレンの主力だった花王の洗剤カートンが九州工場に移管されたものの、その後はライオン油脂の洗剤カートンが穴埋めをし、さらにミードのクラスターパックを採用した大塚製薬のオロナミンCのカートンの印刷需要が順調に伸びるなど紆余曲折はあるものの、業績も安定してきた。そして昭和47年(1972年)6月、伊丹工場は伊丹事業部となり、営業も一体になり栗原さんが事業部長に、私が伊丹工場長を拝名することになった。