凸版印刷45年を振り返って(6/8)PDF

河野通

3 事業部長役員として

昭和57年(1982年)9月1日付けで日置さんが東北事業部長に転出され、私はその後任の関西支社包材事業部長を拝した。この日から専務取締役を退任する平成8年(1996年)6月までの14年間の私の凸版の経営幹部としての生活が始まった。

関西支社包材事業部長の上には支社長、支社次長の田中専務、伊藤役員がおられたが、包材事業部は関西支社の売上の約半分を占める重要な事業部であり、また清酒業界を中心に液体容器の拡販に凸版が社運をかけて活動していた時期であったので、大きな責任を感じた。

製造関係は自信があったが、営業については、私はまったくの素人だった。たとえ1ヶ月間でも実務を経験していたら少しは事情も判っただろうが、いまさら弱音は吐けないし、本音の話は誰もなかなか教えてはくれなかった。それで自分の信条として、第一に何でも現場主義とし、まず自分の目で確かめる、第二に建前の話はしないで、すべて本音で押し通す、この2つの原則を貫こうと決心した。

伝聞と真実とが違うことが多いのは工場でもよく経験してきたことで、これらの原則を貫いたことは大変に有益であった。嘘はもちろんのこと建前も状況が変われば直ぐに破綻し、相手には不信感だけを残すことになる。何度も私自身、人からそのような目に遭わされていたので、自分は他人にそんなことで不信感は持たれたくない、河野個人に対する信頼感をいかに相手に持ってもらうかが勝負だと思い、それを勝ち取るように実際に行動した。

製造現場のことなら計算もできるし、予想もできる。自分の努力の量に応じてアウトプットが変化するのも判る。しかし、営業活動の予測―――顧客の考えていることを推測し、受注を見込み、生産を予測するといったことは、その基礎になる顧客の手応えの掴み方も判らず自信が持てなかった。工場長の時代には、確度の高い受注の予測をやれなどと営業にやかましく言っていたが、立場が代わり自分が責任を持つことになったら、まったく自信が持てず最初は本当に不安の連続だった。部下の報告する数字の確度も判らず不安の毎日であった。

しかし、それも1年もすると、得意先の話しぶりとか反応から、うった手が良かったのか悪かったか、注文が凸版に決まりそうなのか決まりそうもないのかなど営業活動についてだいたいの推測ができるようになってきた。

以下、ここでは昭和57年(1982年)9月から関西支社包材事業部長というライン部隊として関わった時代、昭和63年(1988年)7月から関西支社長になって関わった時代、それと平成4年(1992年)4月からの本社役員として主に技術と研究開発について関わった時代―――それらの時代の出来事などについて書くことにする。

まず浮かんでくることは関西支社での液体容器事業の成功であり、福崎工場と同じ兵庫県で、もう一つ大阪よりの滝野工業団地内に新工場を建設し、そこに世界で初めてFA(Factory Automation)、OA(Office Automation)を統合したCIM(Computer Integrated Manufacturing)システムを構築し、液体容器の自動生産システムを立ち上げ、それを収益の柱の1つにしたことである。稼働開始は昭和63年(1988年)4月のことだった。

しかし、関西支社全体として見れば、昭和59年(1984年)の建材事業の東西統合、滋賀建材工場の閉鎖、昭和61年(1986年)のエレクトロニクス事業の分離、昭和62年(1987年)の金融証券事業の分離、平成2年(1990年)の中四国事業部の分離、平成3年(1991年)の包材事業の東西統合など、相次ぐ分離統合の流れの中で、いかにして支社の求心力を維持しながら業績向上を図るかに頭を悩ます毎日であった。

こうした一連の分離統合の是非はまだ答えは出ていない。たぶん21世紀にならないと判らないだろう。平成10年(1998年)4月1日、事実上、関西支社はなくなったが、私としては東京集中により関西の業界でのシェアが低下しないことを折りたい。

私が関西支社包材事業部長になり、さらに関西支社長となり、後任の羽間さんに関西支社長を引き継ぐまでの10年間に関西支社の売上高は、建材、エレクトロニクス、金融証券それと中国四国事業部を分離しても、約50%増となり、利益は数倍にもなったことは今でも忘れられない。

この間にお会いしたお客様は5000名を超えた。得意先との会食は600回を超え、得意先とのコンペを除くゴルフも500回近くに達した。さらに関西研究所の設立、凸版フェアの開催、ヨーロッパパッケージツアーの開催など実にいろいろなことを積極的にやらせてもらった。

この後、本社役員として4年間を過ごすことになったのだが、1年目は高橋専務の下で、副技師長という今でも何が任務だったのか定かではない仕事についた。しかし、そのお陰で、全社の工場を回り実情を把握すると同時に、海外の状況も肌で知ることができたのは幸いであった。

そして続く3年間には、研究所のリストラ、テーマの見直し、切り捨て、重点の絞り込みを行った。さらに生産技術面では、ライバルの大日本印刷に先行してデジタル化に取り組み、プリプレス(Prepress:印刷以前の工程の総称。企画・デザイン・写植・版下・製版などの工程や作業)の再編とデジタル化への方向転換を行った。またインターネットの将来性を予測し、MITメディアラボと連携すると同時にサイバー・モール、CPJ(Cyber Publishing Japan)などのマルチメディアビジネスにも先駆的に取り組んだ。さらにエレクトロニクス事業ではカラーフィルター事業を立ち上げ、技術基盤の強化策としてIS09000シリーズの認定取得も推進した。振り返ると、短い期間ではあったが、実にいろいろなことをやらせてもらった。

3-1 Invisible Ghost

昭和57年(1982年)9月、私が関西支社包材事業部長になる前年に沢村社長は亡くなられ、すでに鈴木新社長が就任されて1年半が経っていた。鈴木社長は一時、東京書籍社長として外に出られていた経験から、凸版の社内体制をいろいろ変えなければならないと考えられていた。

ライバル同士の大日本印刷と凸版について、当時、世間では、野武士の大日本、貴族の凸版とか、積極経営の大日本、堅実経営の凸版といった見方がされていた。

業績的にも昭和57年(1982年)5月期で、大日本印刷の売上高5217億円、利益438億円に対して、凸版はそれぞれ4476億円、288億円であり、売上で743億円、利益で150億円負けていた。

そのため会社全体の気風を積極性のあるものに変える様々な方策が試みられた。そのためのキヤッチフレーズの一つがインビジブル・ゴーストの退治であった。もう一つは前垂れ営業から業際提案営業への変身、後に2.5次産業化といわれたことであった。それに科学的手段で体質を変えるためTQCの推進と、さらに海外事業の推進とが加わった。これらは鈴木社長の外国部長としての長い経験に基づく21世紀を見通しての施策だったと思う。

これらのことはいずれも鈴木社長が就任直後のMITのメル・ホーウイッチ教授との文春紙上での対談をはじめ繰り返して言われていることである。また何度も幹部に意見具申を求めたり、アンケートを行ったりし、それらを参考にされてもいた。私の手元に残っているものだけでもアンケートは5回にのぼる。

しかし、残念に思うのは、これらの結果がまとめられ、発信者に返信されたり、意見集約のためにグループで討議したりするといったことが行われたことである。ここに一番大きなゴーストがいたことになる。この傾向は今でも社内に残っているように思えてならない。言い換えると官僚主義である。後年、アメリカのビジネス社会を見聞して痛切に感じたことは、情報を関係者が皆で共有するということが上手か下手かということが、いかに社内で重要な意味を持つかということである。電子メール環境が整った今でも、これを上手く使えていない。そのため決断が遅い、正確な情報が伝わらないなど業務の効率化が遅れることになる。またいろいろな施策が隅々まで浸透せず、途中で消えてしまい失敗することにもなる。経営幹部での情報の共有化が企業経営にとっていかに重要かということを嫌と言うほど思い知らされた。

いかに情報を共有化ができるかは、各人が入社以来、どれだけ経験を共有化してきたかに左右されるところが大きく、そこで人事のローテーションが重要な意味を持ってくると思う。同じ釜の飯を食うという言葉があるが、その意味の大切さをしみじみ感じるようになっている。それ以外にも集合教育とかプロジェクトチームでの体験とか海外旅行とか、経験を共有するやり方や機会はいくらでもあると思う。私の関西支社時代は特別な機密情報以外はできる限りオープンにするように努めた。経営幹部のみならず労働組合幹部、一般社員、パートの人たちにまで自分たちの置かれている状況と実態を説明し、その上で今後の方針を含め我々はどう行動するべきかなどについても機会あるごとに繰り返し話をするように努めた。しかし、それでも、今振り返ると、もっとかみ砕いて、もっと繰り返して言うべきだったと反省するようになっている。

ところが本社はそんなものではなかった。世の中は絶えず動き変化しているのに、そういうことに関する社内の理解や認識は遅れており、本社役員となり、いろいろ話したもの真意が理解されずに愕然させられることが多かった。知識レベルにバラツキが大きく、コンセプトを共有することができないのである。そうした経験があって、情報の共有化と、その情報の共有化を進めるための基盤作りの重要性を私は痛感するようになっている。

教育訓練までもが個人に委ねられ、何をしても良い、何でもできるという凸版の良さが、逆に基礎ができている人、できていない人が混在するバラバラの状況を生み出し、それが会社を束ねる求心力や接着力や組織を超えて横串を通すような力を弱くしているように思う。ここにも会社を束ねるのを邪魔するゴーストがいるように思う。まだまだ書き留めておきたいことが山のようにあるが、この辺りで話を変えることにする。

3-2 80年代初めの営業状況

歴史的な参考までに、私が引き継いだ頃の関西支社の包材得意先の概況に触れておきたい。1970年(昭和45年)代前半の高度成長期から昭和48年(1973年)の第一次オイルショックを経て、東京への一極集中が進み、昭和55年(1980年)代に入ると、従来はナショナルブランド得意先の関西以西工場への資材の発注は大阪でされていたのが、東京に集約されるようになってきた。花王、ライオン、森永製菓、カルピス、昧の素、雪印乳業などの得意先である。

また従来は大阪が本社であったのが、本社を東京に移す会社が多くなって、発注窓口も東京に移るようになった得意先も出てきた。カネボウ食品、サントリー、P&Gなどの得意先である。さらに窓口は大阪でも企両部門とか、マーケッティングが東京に移り、そのため事実上の発注業務も東京に移った会社もハウス食品工業など多かった。

昭和58年(1983年)5月期でみると、関西支社包材事業部の受注金額のうち東西の共通得意先の受注金額は実に40%を占めていた。先に挙げた以外ではハム4社とミード、東水、明治製菓が東西の共通得意先であった。

ちなみに昭和58年(1983年)11月期の関西支社の受注上位30社の内訳を調べてみると、包材11社、商印9社、エレクトロニクス6社、金融証券2社、建材1社である。。この時すでにエレクトロニクスの得意先がトップ10に4社も顔を出していた。

営業の重点は当然主要得意先である。上記30社に液体容器で攻勢をかけている酒造業界10社を守るところと攻めるところに分け、最低月に2回は訪問することにした。またトップ100社も最低2月に一度は訪問し、資材窓口だけでなく、研究所とか企画窓口のフオローに気を使った。

自分の時間配分としては、70%は営業活動に使い、残りの30%を製造や管理に振り向けた。この時期、伊藤支社長に営業活動の応援をしていただき大いに助かった。営業評価では、他社、特に大日本印刷とのシェア争いに勝つことを重視した。大日本印刷の岡内、北見両専務とは良きライバルであった。それでも包材では競り勝ち、負けることはなかった。

3-3 グリコ森永事件三点接触法

昭和59年(1984年)3月18日、3日後の21日に鈴木社長が江崎社長と会食を予定していた矢先に、TVに江崎グリコの江崎社長が誘拐されたというニュースが流れた。昭和60年(1985年)8月12日に犯人が終結宣言を出し事件が迷宮入りするまでの約1年間にわたり数多くの製菓会社などが脅迫のターゲットにされた、いわゆるグリコ森永事件の始まりであった。

この事件は様々な教訓を与えてくれた。事件そのものに関することはいろいろ本が出ているので詳しくは述べないが、この事件を契機に開発された「安全シール」と、この事件を契機に学んだ営業戦略の基本である人間関係の作り方に関する「三点接触法」の話をしたい。

犯人は店頭に並ぶ包装菓子などの中に青酸カリを入れたものを混入させるという手段で製菓会社などを脅迫した。そのため包装の封が剥がされたことがないことを消費者が筒単に見分けられる包装方法が求められた。そこで急遽、開発されたのが「安全シール」である。一度封を剥がすと、印刷面とフイルムとの間で界面剥離を起こし、再び封をしても初めは見えていなかった文字や図柄が現れるため誰にでも簡単に封が回られたことが判るというものである。

凸版では、この「安全シール」を5月に犯人がグリコの菓子に青酸カリを入れたものを店頭に混入させて脅迫してから約半年間のうち開発し、それが江崎グリコで採用されることになった。当時、凸版には蒸着設備がなく、剥離層が不安定であったため、本生産そのものはリンテックに頼んだのだが、ともかく、こうした社運のかかった仕事を手掛け、それをやり遂げる過程で、それまでライバルの後塵を拝していた江崎グリコとの人間関係も大変に広がると同時に深くなった。

その1人が当時、江崎グリコの購買部長であった塩本智さんである。その塩本さんからは、以後、大変に役に立った営業戦略の基本、人間関係の作り方についてもお教えいただいた。私は、それを「三点接触法」と称し、ことある毎に社内で話してきた。塩本部長のお話しは、だいたい次のようなことだった。

怪人21面相がグリコ製品に青酸カリを入れたという脅迫で、ほとんどの量販店、コンビニ、小売店がグリコ製品を店頭から撤去する中で、その脅しに屈せずにグリコ製品を売り続けてくれたお店もたくさんあった。そのようなお店はいずれもグリコとの間に深いつながりがあった。それは一朝一タにできあがったものではなかった。

どんなに強い個人的な人間関係で結ばれていても、その人がいなくなれば関係はなくなってしまう。会社としてどうやって人間関係を継続させていくのか。ここが大事なポイントである。仕事は1人でできるものではない。いくら社長同士が親しくても、担当者の意志疎通が悪ければ上手く行かない。逆に、いくら担当同士が上手くやっていても、トップの方針が変わればすべてが変わってしまう。相手にする組織にはトップ以外に担当者や中間管理者もいる。組織の各階層で緊密な信頼関係を作り上げておけば、どこか一つの階層の人が代わっても、信頼関係は維持できる。水平的な関係だけではなく、一つ上あるいは一つ下の人たちとの関係も作り上げておけば、その人たちの昇格とか転勤があっても、人間関係が網の目状になっているのでほころびにくい。

組織との間で、トップ、中間管理者、担当者の3点で信頼関係を築いておけば、それは大変に強い絆になる。この関係をグリコは築き上げてきていたので、今回の事件に遭遇しても注文が途切れることはなく、むしろ応援していただいている。この非常時になって、改めて人の絆の大切さと強さを再認識させられた。

こうした塩本さんの話に私は感銘した。私もまったく同感した。そして直ちに、これを「三点接触法」と称して自社の営業戦略の基本にした。得意先のコンタクト・リストも、この観点から整理・作成し、そこから浮かび上がってきた弱いところは補強し、強いところはさらに強化する方策を講ずることを、毎期の営業戦術戦略会議の重点検討項目の一つとした。これは大変に効果の上がった営業手法であった。

3-4 JAL御巣高山墜落事故とハウス浦上社長の死

グリコ森永事件が犯人の昭和60年(1985年)8月12日の終結宣言で、とりあえずホットしたのも、つかの間のことで、その僅か4日後、昭和60年(1985年)8月12日午後6時、東京羽田空港発大阪伊丹空港行きのJAL120便のジャンボジェット機が墜落し、500名余の乗客が亡くなる事故が起こった。丁度、関西ではお盆休みが明けて仕事が再開された日であった。

まだ休暇中の会社もあり比較的暇だったので家に帰り、午後7時のニュースを見ていたら突然、ジャンボ機が行方不明というニュースが飛び込んできた。続いて報じられた乗客名簿に注意していたら、まずハム、ソーセージ業界の仕事でお世話になっている大阪化学合金のえ川三郎社長の名前が告げられた。続いてハウス食品の浦上社長、サントリーデザイン室の山登さんの名前も報じられた。ともかく驚いた。直ちに担当の営業部長に電話し、得意先各社と連絡をとって情報を確認すると同時に、このジャンボ機に乗り合わせていた方のご家族とご連絡をとるように指示した。

実は、この便は私を含め凸版の社員が一番よく使う便だったので、得意先の人の状況を調べさせると同時に社員についても調べさせた。休暇明けだったのが幸いし、珍しく凸版の社員は搭乗してはいなかった。

しかし、この事故で、会社としてだけではなく個人的にも大変に親しくしていただいていた方が同時に3人も亡くなられたのは、本当に大きなショックだった。個性豊かで、仕事でもすばらしい業績をあげておられた方々だけに大変に残念でならない。また、この事故で幸せな結婚をされた直後の西口印刷の西口社長のお嬢さんも亡くなられた。心からご冥福を祈りする次第である。

なお、ハウス食品の浦上社長はグリコ森永事件が一段落したので、翌日から家族で沖縄に夏休みの旅行をするため、予定を一便繰り上げて帰ることにした結果、事故に遭遇することになったということであった。それを知って、人の運命というものは、本当に一寸先は闇であると思った。浦上社長は気さくな人だった。我が社の菱田博万君の関学の同期生ということもあって、何度かゴルフのお供もさせていただいた。そして社長の常々言われていた「税金の取られない資産」は「技術力、社員の能力、良い顧客と仕入先」だという言葉には深い感銘を受けた。言葉だけではなかった。事実、その通りに我々仕入先も本当に大切にしていただいた。なカなかできないことである。その難しさが判るようになればなるほど感謝の気持ちが沸き上がってきている。

また大阪化学合金のえ川社長は紀州の山林王の家に生まれた自由人で、大阪大学に入学してヨット部に入った後、ヨットにのめり込んで親から勘当されたという経歴の持ち主で、経営についてもユニークな考えを持っていた。姪ごさんが私の娘と同窓だったこともあって、公私とも親しくさせていただいていた。もっともっと多方面にわたってお教えいただきたい人であった。

3-5 日本酒造業界の席巻

EPパック市場確立の戦略と戦術話はがらりと変わるが、EPパックの受注戦争は、事実上、私の前任の日置さんと伊藤支社長の努力で決着がついていた。その間、私は、日置さん、伊藤支社長の努力の技術・生産の両面だけを後押しすれば良い立場にいた。しかし、その後、私が、日置さん、そして伊藤支社長の立場になることになって、それまでの営業戦略を含めて事業戦略を考えるようになった。そのポイントは、振り返ると、以下の5点であったと思う。

  1. すべての清酒会社の紙容器は凸版でとるそのためには価格でも徹底的に競争し、リース、一時貸与、下取りなどあらゆる方法を考えて、絶対に大日本印刷に取られないようにする。その点で、伊藤支社長は天才的営業マンだと今でも感心する。
  2. 顧客の要望に全面的に合わせるシステムを作る狭い場所しかなければ、そこに入るように設備を設計する。より能力が必要と言われれば、高速化する。口栓を変えろといわれれば新規に型を作る。こちらのスペックで売るのではなく、相手のニーズにあわせてオーダーメイドのシステム売り込む。マーケットインである。
  3. フルライン作戦で臨む初めは、容量は1.8L入りと0.9L入りの2種類、サイズも90mm角と70mm角の2種類であったが、現在では、たとえば容量は300m Lから3.6Lまでに対応している。充填速度も毎分500個から6000個まで対応している。充填方法を含め他社でできて凸版でできないものはないラインナップになっている。
  4. 品質保証を前面に出したシステムセールスを行う設備と包材をトータルで保証するという品質保証を前面に打ち出す。初戦の月桂冠では負けたが、それ以外は、この戦略が功を奏し、関西市場ではほとんど負けることがなかった。
  5. 特許により競合他社の進出を阻むいわゆる特許による権利の囲い込みである。竹村信行君がなかなかのアイデアマンで顧客の要望を本当に一生懸命に考え、それを工夫して実現し、顧客の要望に応えると同時に、その技術やアイデアを権利化に努めた。その成果の一つが外付けの口栓である。これは特許になり、15年間にわたり凸版の液体容器の拡販の強い武器になった。この特許は国内のみならず海外でも役立ち、テトラパックなどの海外勢の酒分野への参入を阻止もした。この特許に加えて、先にも触れたことだが、特許戦略の間違いで失してしまった紙容器の原紙のPETラミネーションに関わる技術を特許として権利化できていれば、酒分野では凸版は完全な勝利を手にしていたと思う。私としては返す返す残念でならない。

もっとも、こうした私の徹底したやり方に対しては、社内でも異論多く、他事業部からは白い目で見られたり批判されたりした。しかし、もし、その時に妥協していれば、凸版の今日の液体容器事業はなかったと思う。

しかし、最近の液体容器業界の動きを見ていると、凸版の動きは競合他社に比べてやや鈍いように思われる。競合各社が低価格化のための設計見直しやサイズの兼用化やCIM(Computer Integrated Manufacturing)化による操作の簡易化などが積極的に進められている。手掛けた以上、絶えずトップを走り続けないと、早晩、市場から見放されてしまう。きちんとした戦略を確立する必要があろう。私としては、気になることである。

3-6 凸版パッケージツアー

昭和51年(1976年)、まだ私が福崎工場長時代のことであるが、愛知専務の提案で、凸版の得意先に呼びかけ、インターパックの見学を含めた欧米のパッケージ事情の視察ツアーが行われた。凸版が懇意にする包材のコンバーターのみならず装置メーカー、材料メーカーの視察も入れるという盛りだくさんの内容のツアーだった。

この試みは大変に好評で、これを契機に会社単位のみならず個人的に得意先と良い関係が築かれ、包材事業の安定した受注に大きく貢献した。この凸版パッケージツアーは、その後も引き継がれ、田中専務が団長の3回目の凸版パッケージツアーには私も参加した。そして、この時の参加メンバーとは、帰国してからも、モンブラン会という名前で何回も同窓会を持って親睦を深めた。

昭和59年(1984年)のインターパックの時には、関西支社長の伊藤さんが団長となって凸版パッケージツアーを主催した。

そして昭和62年(1987年)のインターパックにも、私は是非とも凸版パッケージツアーを主催するべきだと主張した。しかし、東京の包材事業の業績が悪く、それどころでない、そんなよけいな費用は出せないとないということだった。

しかし、私は、凸版パッケージツアーで得られる人間関係は10年も20年も、その人がその会社にいる限り続き、それが凸版のシンパを作る大きな力になっていることを身近に見聞きしていたので、鈴木社長に強引に頼み、関西支社のみでツアーを実施することを了解していただいた。私がまだ関西支社長になる前のことである。

ところが、今までは全社で企画したので、スタッフも多く、出先のアテンドなどを含め迅速に行うことができたが、関西支社のみでやってみると大変なことばかりであった。それでも得意先の宝酒造の当時の内田部長や久保課長のお骨折り、ボブストチャンプレン社など取引先のご協力をいただき、良いツアーとなった。英イングランドのターンベリーまで出かけたので、その参加者の同窓会の名はターンベリー会という。もっとも、この旅行の途中、スイスのジュネーブで私は父の訃報に接し、後事を急濾かけつけてくれた梅田君に託し、出発して僅か3日目で日本に引き返してしまったのだが………。

このときの参加者は、その後、それぞれの企業で昇進され、いろいろと大変にお世話になった方々が多い。宝酒造、太平印刷(宝酒造の子会社)、白鶴酒造、小西酒造、日本盛、菊正宗、沢の鶴、黄桜、大日本除虫菊、小林製薬、そして東京からもライオン、ライハンエ業、さらに西日本からもますや味噌の計14社の方々に参加していただいた。いずれも開発、購買、生産部門の要職にある人たちで、その後も我が社の良き理解者、支特者になっていただいた。

その後、他社の話もいろいろ聞いたところ、このような囲い込みのための催しを行っているとろは実に多い。何も飲み食いだけでない。個人では参加できない勉強会や個人では行けない工場視察のようなことを通じて相互理解が深まり、それを契機に戻ってから相手の懐に飛び込んでの本音の付き合いができるようになる。目先だけの判断でなく少し長期的な視点にたって、今後とも引き続き凸版パッケージツアーを主催してもらいたと思う。同行する凸版の社員も一人で出かけるよりは勉強になるし、その教育にもなるし、そこで何事にも代えられない人間関係を築くことになると思う。