凸版印刷とともに60年(15/15)

鈴木和夫

凸版創立90年、私の入社145年、社長10年で会長へ

私が凸版印刷の社長になったのは、まったく運命の巡り合わせであった。

決してなろうと思っていたものではないし、果たして私が最適任者であったかどうかも分からない。ただ、社長に選任されたからには、悔いを残すことのないように、全力投球をしたことは事実である。

社長に就任した昭和五十六(一九八一)年からの十年間は、世界が激しく動き、特に会社の舵取りは、一歩誤れば取り返しのつかないような時期であった。

昭和六十(一九八五)年の春、栄誉ある藍綬褒章を受章した。父も教育功労者として藍綬褒章をいただいていたが、既に昭和四十八(一九七三)年一月にこの世を去っていて、知らせるすべはなかった。しかし健在であった母は、大変に喜んでくれた。その母も、その年の十に他界した。最後にいくらか親孝行ができたかと思う。おそらく母は天上で、父にそれを報告してくれているだろう。

藍綬褒章授章を記念してお配りした粟津潔作『藍鳥』

私は、常日頃バランスを大切にしている。なぜならば、世の中は色々と複雑に絡み合っていて、自分の努力だけで物事がうまく運べるものではない。しかし最後には、バランスが物を言うと確信している。

私は社長就任以来、そのために相当な時間と努力を傾けた。その甲斐があったのか、社内の様々でバランスが取れ出したのが見えるようになった。それぞれが自分のやるべきことをしっかりと認識して行動計画を立て、それを着実に実行していくにつれ、営業、技術、工場、総務、経理などの職種間でも、また出版・商業印刷、包装、精密部品製造などの品種間でも、全体にバランスが取れ良い結果が出るようになった。そこで、社長就任時に考えたよりは遅れたが、この際タイミングを見てに道を譲ることを心に決めたのである。

平成二(一九九〇)年は、明治三十三(一九〇〇)年に創立したわが社の創立九十周年に当たった。私は昭和二十(一九四五)年の入社で、ちょうど会社の歴史の半分、四十五年勤務したことになった。また、大正九(一九二〇)年生まれの私は古稀を迎え、社長歴も十年という区切りに達した。

会社は、若返りによるバイタリティに新しい期待をかける体制が整った、と私は判断した。業界活動としては、教科書研究センターの理事長を除いて、印刷業界、包装業界関係の仕事はすべて、平成三(一九九一)年六月までには任期満了となる。その面でも、責任の一端を果たすことができたと思ったので、その年の六月末に開催された株主総会終了後の、取締役会で社長を辞し、会長に退くこ決めた。

わが社は三月決算のため、四月から新事業年度に入る。一般の従業員は新しい組織・人事の下、からの新しい事業年度に向けて、勢い良くスタートを切って飛び出す。それなのに役員だけが、六月末の総会後の取締役会まで人事が決まらない。

これではまことに仕事がやりにくいだろうとかねてから思っていたので、思い切って二月末の取締役会で、社長交替を中心にした役員人事の大綱を内定した。それが三月一日の新聞に公表された。途端にマスコミの人たちから、四カ月も前に社長人事の内定を発表するのは異例だ、鈴木は病気か、何か他に不都合なことがあるのか、理由は何だ、といった問い合わせが相次ぎ、広報部は、一時機能止した状態になった。

新体制になるので、役員も従業員も、新事業年度のスタートは一斉にした方がよい、というのが単純な発想であった。新社長も、新事業年度から全責任を持てるよう、社長としての構想を練り、組織改革、人事異動もやるべきであると思ったからである。

私が社長に就任した時は、前社長の急逝を受けてのことで、心の整理ができるまで、半年間マスコミの人たちに取材をご遠慮願ってご迷惑をかけたが、会長になる時は、異例の早さで発表し、マスコミの人たちをお騒がせしたのは、まことに不本意なことであった。