凸版印刷とともに60年(2/15)

鈴木和夫

昭和二十年暮れ凸版印刷へ入社

昭和二十(一九四五)年八月十五日の敗戦を、洲ノ崎海軍航空隊で迎え、八月の末には東京の父の家に戻った。

食糧難の時に、急に家族が二人増えたのである。校長を務めながら、原則として「闇」や「買い出し」をやらないので、自分の家の庭はもちろん、近所の焼け跡の空き地を借用して、薩摩芋、ジャ、トマト、キュウリ、白菜から大根まで作っていた父としても、大変なお荷物になったに違いない。朝まだ暗いうちにボロの野良着で家の裏を歩いていた父を、巡査が不審尋問をしたそうである。父は「私はこの家の者ですよ、ご不審ならどうぞ」と家に巡査を請しようじ入れようとして、お互いに大笑いになった。

私は軍隊から戻ったが、既に海軍に奉職中の、昭和十九(一九四四)年九月十七日付の学士合格證書(卒業証書)が、留守宅の父あてに届いていた。結婚した身でもあり、家計のことも考えて就職することに決めた。

れわれの先輩たちは、銀行、金融、商社、海上輸送などのサービス系と鉄鋼、重工、造船、飛行機などの軍需産業系に勤めている人が多かった。しかし敗戦により、海外からの引き揚げや、事業の縮小などで、新人の採用をしている企業はまったくなかった。弱っていた時に、父が校長をしていた富士見高等女学校の生徒が勤労奉仕をしていた凸版印刷で、新人を採用するという話を父が聞いてきた。

「これからの日本は、文化国家として生きていくのだから、文化を守る印刷はいい仕事だと思う」に勧められ、受験することにした。

入社試験には、海軍の第一種軍装を着ていった。もっともそれしかまともな洋服はなかったのだ。質問の中で、「海軍ではいくら給料をもらっていたか」と聞かれた。「八十五円いただいていました」と答えたら、「海軍は随分給料は安いのだね」と言われた。家に帰ってから「もし凸版印刷に入社できたら、百円はかたいよ」と家内に言った。幸いに入社が決まったけれど月給辞令には、まだ戦時給与統制のままの七十五円と書いてあった。

その頃、下谷の本社社屋が戦災で焼け、本社機構が音羽の講談社の部屋を拝借していた。十二月に本社が板橋工場の中に移転することとなり、その日から私は出社した。

初出勤三日後の十二月八日、戦後第一回のストライキが起きた。蜜柑箱を引っ繰り返してその上り、拳を振り上げて「万国の労働者よ!団結せよ!」と怒鳴っている労働組合委員長の姿をしいものを見るようにして見ていた。

凸版印刷入社の仲間(BC会)と現場研修中。板橋向上の前で。

ストを宣告するたびに、給料が一挙に倍、倍となるので不思議やら有り難いやらであった。しかし物価の上昇もそれと追いかけっこで、決して生活は楽ではなかった。ちなみに初任給の辞令は七十五円であったが、最初のストライキのお陰(?)で、実額で百二十五円をいただき、家内に嘘をつかないで済んだ。

当時は、会社の入り口にタイム・カードが備えてあった。カードの色は社員が白で、準社員は青、そして工員のカードには赤の線が横に引いてあった。私は入社時から、毎朝白のカードを打っていた。

ある朝、周囲に異様な雰囲気を感じて顔を上げると、ちょっと強そうなのが四、五人で私を囲んる。別に危害を加えるような様子ではないが、「おい!お前さんは昨日、今日、入った新米だ。どうして白のカードを打っているんだ。俺たちは、社員になれて白いカードを打てるようになるまでに二十年から三十年かかっているのだ」と言う。そこで私はちょっと考えて「私の給料は百二十五円です。失礼ですが、あなた方は?」と聞いたら、途端にがらりと態度が変わった。「そうかい!そうかい!」と急に仲良しになり、その後、随分親切に仕事を教えてもらった。おそらくその人た給料は、三百円から四百円くらいだったのだろう。