凸版印刷とともに60年(3/15)

鈴木和夫

GHQ担当営業でスタート

新米の私には、様々なことが待っていた。

入社から半年は、工場内での色々な部門実習に明け暮れした。現場実習の仕上げは、活版整版課であった。活字を原稿の文字に合わせて拾うことはやさしく見えるが、欧文の二十六文字とは違って、印刷の専門会社は、最低でも字を一万字くらいを用意している。その膨大なストックの中から一字拾うのである。

文字の校正係は、文章を上から下に読んでしまっては、本当の文字校正はできない。ベテラン下から逆さまに見る(読むのではない)のだ」と教えてもらったが、さすがに下から上に校正をしている人はいなかった。今にして思うと、どうも新米をからかっただけなのかもしれない。しかし工場現場での実習は、私にとって、かけがえのない貴重な経験であった。

実習期間の終了後、営業部渉外課に配属になった。当時の進駐軍、すなわちGHQ(General Headquarters連合国最高司令官総司令部)やその他の外国人相手の営業係である。貫禄ある二世の通訳の女性がいたり、中にはGI(Government Issue 官給品=兵隊さん)と調子を合わせて「適当に仕事をする」先輩もいた。

そのGHQの監督官は、いつも大声で怒鳴る太った男だった。私は彼の手先になって、作業の流れに沿って工場中を走り回った。随分無理と思われることを、強行せざるを得ないことも少なくなかった。新米の私の言うことは、従来のしきたりを外れてもいただろうし、知識も不足でトンチンカンともあっただろう。あいつは無理難題を押しつける「進駐軍の狗イヌ」だ、と決めつけられて辛い目ったこともある。

しかし工場の現場と、社内に用意してあったGHQ出張事務所との間を、夢中で走り回っているうちに、「横文字で怒鳴られるのは大変だろう、あのデブの無理じゃしょうがねえやな」と、今まで一番強硬で、難攻不落と思っていた職長からも、そんな声が聞かれるようになった。「鈴木の仕事」なら多少の無理は聞いてやるか、といったシンパの人たちを持ったのだ。実習中にできた人間関係はに役立った。

アメリカ陸軍アメリカ第一騎兵師団戦史

アメリカ陸軍 pacific STARS AND STRIPES

この時の経験は私に二つのものを教えてくれた。その一つは外に向かってのもので、難攻不落の先に出入りがかなうためのノウハウは、手錬手管ではなく、わが社のモットーである「誠意、熱意、創意」の三意主義であるというもの。これを正攻法であると確信し、得意先に通い続けることによって成功した経験が多々ある。しかも、その三意の中でも、時代が進むにつれて、「創意」が非大切になってきたのを感じた。

もう一つは、内に向かってのものである。元来機械いじりが好きな私は、文系としては技術に強い方だが、昭和二十(一九四五)年に入社以来、営業畑のみを歩いてきた。しかし社長時代に「どうしてそんなに現場のことや、技術のことに強いのですか?」としばしば聞かれたことがある。これはこの時代に、現場の人たちに誠意をもって接したお陰で、親切な人たちに囲まれながら、仕事を教えらったためであると感謝している。

戦後間もなくの日本の社会は、戦時中の極端な言論、報道規制から突然に解放されはしたもののまだに発信される情報は極めて少なく、人々は情報に飢えており、情報を求めて食物を漁るに等しい状態であった。その上、その情報を伝達するメディアである印刷物を刷るための用紙が不足しており、所々穴の開いた統制外の仙花紙(粗悪な洋紙)を入手するのが、出版会社の資材部員の腕の見せどころであったのだ。出版各社や印刷業界では、配給・統制の中で、紙集めに狂奔していた。雑誌書籍でも出版できれば、必ず売れる時代であった。

一方その頃に、米軍のトラックで板橋工場に運ばれてくるアメリカ製の印刷用紙は、これが紙かうほどの素晴らしいパリパリした代物で、それを見た途端に、日本はどうしてこんな物資の豊かな国と竹槍戦法で戦ったのだろうかと思った。