凸版印刷とともに60年(7/15)

鈴木和夫

昭和48年教科書出版の東京書籍社長就任

昭和四十八(一九七三)年の暮れ、私は凸版印刷の専務取締役であったが、突然、澤村社長から呼び出しがあり、「東京書籍の社長をやってもらいたい」という話であった。私はなんの躊躇もなく即座にお引き受けした。そして、その年の十二月八日に東京書籍の社長として赴任した。この日はかつて大東亜戦争の始まった日であり、さらに言うならば、私が凸版印刷に入社した年の、戦後第一回のストライキも十二月八日であった。私にとって、何か変わったことの始まる因縁の日なのかもしれない。

東京書籍は、凸版印刷の関連会社で、初等・中等教科書発行会社の最大手である。三十年近くも一本槍で過ごしてきた私にとっては、出版社というのは常に私の得意先であった。その日から立場が逆転したこととなり、相当に緊張した。

東京書籍・東書文庫所蔵の戦前の教科書

東京書籍の一般書籍出版第一号『佛教語大辞典』

赴任して私の最初の挨拶は、「公私の別と、人事の公平を誓う」ということだった。出版社の経営に門外漢の私は心配していたが、変化の時代には、案外その門外漢が役に立つことが分かった。なら従来の経緯を知らないが故に、まったく新しい発想ができるのである。永い年月、教科書の編集・営業に携わってきた人たちにとって、新しいことに対しては、「大丈夫かな!」という「心配」と「怖さ」があるものである。そこで私は、膝を交えて納得してもらうまで話し合った。それらのい試みは、仲間の役員や幹部社員の大変な努力もあって、おおむね成功したと思っている。

教科書発行事業に関しては、徹底的に「基本」を守ることに専念した。一方、新規事業である学考書の発行、一般書籍出版事業への参入、ニューメディア・ソフトの研究、家庭学習との連繋などの事業には、それぞれ専門家を養成する気持ちを込めて、思い切った先行投資をした。

一般書籍出版事業への参入の原点は、中村元先生の『佛教語大辞典』の出版であった。この企画は與賀田前社長の英断で、私が社長に就任した時には既に組版は進行していた。何部刷るか、いかに販売するかは、新任社長の初仕事であった。

従来教科書の発行のみを永年やってきた人たちも、街の本屋さんの店先を回ったり、出版配給会専門家の意見を聞いたりした。大方の声は、三千部からせいぜい五千部であった。私はその内容と中村先生の斯界の権威からして、思い切って二万部を売る計画を立て、押し切った。

結果は大成功であった。一方で、ニューメディア研究の必要を感じとり、社員を海外に出張させて勉強させるなど、視野を広げ、経験を積ませたのである。

当時、日本の初等・中等教育が、戦後の日本経済の驚くほどの復興に大きく寄与していると、アメリカからの評価が高かった。日本人の勤勉さ、特に高卒者の知識レベルの高さが底辺にあったこといに貢献した。

具体的には、技術系の大卒者が菜葉服を着て、工場現場の人たちと共に苦労し、教育し、励ましとが決定的な好結果をもたらした。教科書会社は、その日本の発展の軌跡をたどってきた。

教科書に関して世間の批判が厳しかったが、批判する側に、確たる「理念」があったのかどうかスコミ報道に何の疑問を持たずに、意見を左右していたこともあったのではないかと、反省を込めて考えてみる必要がありそうに思えた。

国により認められた、唯一の、学校における学習教材が教科書である。内容についても、国の検定を経てできたものである以上は、国が責任を持つべきで、義務教育教科書の無償制度も、そのような教科書制度の中で考えられたのである。それ故に、問題を個別に取り上げるのでなく、日本の初等・中等教育の今後の在り方と共に、「未来を視野に入れての人造り」、「日本の世界におけるプレゼンス踏まえて、生涯一貫教育の中で論ずる必要がある。

すなわち、国民のコンセンサスを得た教育理念の下で、学ぶ教科の質と量、教師と父兄と生徒の関係、そして教室や教育方法、教科書を含む教材の在り方などを、総合的に、大局的に判断すべき問題である。

現代社会は、簡単には想像できない、複雑な要因が絡み合って成り立っている。外交問題一つとっても、歴史認識や、経済力のバランス、地理上の動かすことのできない位置関係などなど、情報化社会になればなるほど、問題が複雑に絡み合ってくる。

「批判」は進歩にとって大切であるが、責任を持たない軽々しい批判は、さらに事を複雑にする。