技に夢を求めて(3/13)PDF

和田龍児

出会いを大切に~冨田環氏のこと

「冨田さんを見習いなさい」

人と人との出会いは人間の一生に大きな影響を与える。書家の村上三島の書に『人しんげんは人に生かされ、人は人の為に生きる』という箴言を見たことがあるが、仕事においても良好な人間関係の輪の繋がりが、人の運命を大きく支配していることは間違いないようだ。出会いには一期一会の出会いもあれば、私淑のような出会いもある。

私淑とは『尊敬する人に親しく教えを受けることはできないが、ひそかにこれを模範として学ぶことである』(広辞苑:岩波書店)とされている。偉大なる故人・先人や著作から、ある種の強烈な刺激や示唆を受け一生の信条としたり、理想としたりすることは、だれでも多かれ少なかれ経験するところである。

その意味では、出会いは「出逢い」とも記し、それこそ人さまざまであると思う。悲喜こもごもの出会いと別れが人生の喜びや哀感と綾なして、小説の格好のテーマとなることは古今東西を通じて見られる心理でもある。

筆者にとっての忘れえぬ出会いは、東北大学工学部の大先輩としての冨田環氏との出会いである。この経緯は本書の始まりの部分でも少し触れた。昭和 31年の夏ごろだと記憶しているが、冨田さん(当時豊田工機常務)が成瀬教授室を訪れたのが話の発端である。

しばらくして成瀬先生から豊田工機へ行ってみる気はないかとのお話があった。自分でも就職のことはあまり気にせずに、どうせ秋までには何とかなるさと、たかを括っていた。

就職担当の小柴文三郎先生(故人)のところに相談にうかがい「実はこんな話があるのですが」と申し上げたら「資本金 10億円以下の会社に就職するのは君だけです」と、暗にもう少し大きな会社を選んだ方が...というようなことを示唆された。ぐうたら人間のお前などは、寄らば大樹の陰のほうが安全だぞとの助言だったと思うが、なにせ小柴先生は苦手な設計製図担当で、提出期限を大幅に延期して戴いた前科もあり、散々ご迷惑をかけていたからであろう。

ちなみに当時の豊田工機は、資本金が2億円、従業員は 1000名前後の、堅実ではあるが、はなはだ地味な中堅企業であった。

「名占屋はだいぶ閉鎖的地域だそうで、第一に先輩も少なく心細いし」といった内容の返事を成瀬先生に申し上げたら、日ごろは温厚な先生にたいそう叱られた。

世間では菊田一夫の喜劇『がめつい奴』が評判をとっていたころである。東北の田舎人の眼には、名古屋だろうが、大阪だろうが一括りにして東京以西はみな関西である。関西人はずる賢い、抜け口がない、油断できない、閉鎖的、まことに偏狭と言うべきだが、そんなイメージの雰囲気があったように思う。

「君はそんな消極的な考えでどうしますか。先輩の冨田さんを見習いなさい」と、先生独特の温和なゆったりとした口調で、こんこんと戒められた。その時の先生の冨田さん評は「非常にアクティブな人物」という言葉であり、今でも鮮やかに思い出される。

「先輩の多い、少ないではなくて、自分にどれだけ活躍の場があるか、能力を発揮できるのかを考えるべきです。小さな会社は、かえって活動の場が大きく提供されて、君のためにも将来きっと役立つと思いますよ」と諭された。

あの時分から幾星霜、40年余の時が経過したが、皮肉なことに家内はあのがめつい?大阪からもらう羽目となり、現在は京都に居住し、京阪電車で寝屋川市の職場に通う身である。 人のえにしは不思議なもの

そんな出逢いがあり、爾来、冨田さんが豊田工機株式会社第4代社長、会長、相談役を経て、最高顧問の現職のまま 90年 12月に逝去されるまでの間、公私にわたり親身のご指導とご教導を賜ることになった。

後年、冨田さんにおうかがいしたところ、自分が最初にトヨタに入社したのは、東北大学を経てトヨタヘ移られた梅原半二さん(故人、哲学者・梅原猛氏の父君)からのお誘いだったそうである。人の縁(えにし)とはまことに不思議なものである、筆者が京都大学で佐々木外喜雄教授(故人)の知遇を戴いたのも冨田さんのご紹介があったからこそである。つ冨田さんが昭和 27年(1952)に米国工作機械事情視察団(第1回アマツール視察当時の東洋棉花(株)が組織)として渡米された際、ご一緒だったのが佐々木外喜雄先生(当時京都大学教授)で、視察団のメンバーは、ほかに本田宗一郎さん(故人)等々のそうそうたる方々だったとうかがっている。

アマツールの関係では、湯枝敏夫先生(故人、当時東京工業大学助教授)も、幅広い冨田さんの人脈の一員であった。両先生には会社も技術指導の面で大変お世話になり、とくに筆者は長期間、京都大学に出向させて戴き、前出の佐々木外喜雄先生のところで学位論文のご指導を戴くこととなった。

冨田さんは、日本の工作機械業界にとってはかけがえのない一大恩人である。昭和 40年(1965)の大不況下で、業界は潰滅的な打撃を受け、崩壊寸前の状態になった、通産省(当時三木武夫通産大臣)のバックアップで、工作機械企業群の再編成のためのグループ化を精力的に進められ、大変な政治力でまとめられたのは大きな功績であった。

任意団体であった日本工作機械工業会の社団法人化にも大変なご尽力を払われ、その後、社団法人日本工作機械工業会初代会長を含む4年間の会長職の重責を果たされた。

技術者の先輩として、企業経営者として、冨田さんの卓越した先見性と指導力には内外ともに畏敬の眼で見られていた。しかし、決して堅苫しいという雰囲気はなかった。いつも春風胎蕩としておられたが、技術を見る眼は厳しかったし、先行技術を評価する眼も冴えておられた。

あるとき「君、技術者を 30人ぐらい集めて基礎技術研究所のような組織をつくり、将来に備えたらどうか」とのお話があった。日常業務に忙殺され、滑った転んだで一喜一憂している当時の状態では、その真実を計りかね「現実は、そんな悠長なことは言っておれぬ状況にあります」の現実論で逃げてしまった。

工作機械業界も、世界的なメガ・コンペディジョンの時代に突入しようとしている現状では貴重な示唆で、今にして思うとまことに耳の痛いご指摘であった。

今も生きる2つの言葉

冨田さんは、基礎研究の重要性や技術開発組織の充実について一家言を持たれていた。持論である「企業の利益は、期間営業利益と研究開発費の総和である」は、いかにも技術者出身の経営者らしいご意見で、終生変わることなく経営面でも実践された。

また、他社を加えた技術者同士の他流試合を勧められ「常に眼を社外に向けよ」ともご指導戴いたが、ここで言う他流試合とは面子や感情的な、くだらぬ喧嘩をせよという意味ではない、技術という共通の場で広く議論せよということである。

冨田さんの2つの言葉はとくに印象的である、その1つは「何ごとにも謙虚であれ」ということである、謙虚というのは、いたずらに卑下することではない。控えめで、なおかつ矜恃を持つことであるが、矜恃と傲慢は違う、事実を素直に受け入れる柔軟な考え方と気持ちの余裕を持つことであると教えられた。

技術者は「同じて和せずではなく、和して同ぜず」の気概もぜひとも必要だと述べられていた。

純粋技術の世界では、下剋上ではないが、妙な気遣いや気配りは不要である。それこそ誠心誠意の真剣勝負である。常識的な礼儀は必要だが、会社の大きさも、会社内の身分差も、年齢差も、関係ない。議論に勝っても結果で負けては何にもならぬが、少なくとも議論するためには内容がなければならない。

週刊誌やビジネス雑誌程度の最新技術情報、皮相な耳学問の知識では、とうてい本質的な議論、今で言うデベイトは不可能である。ブック・エンジニアにはおのずから限界が存在する。深い学識と経験にもとづく知識と、冷徹な論理構築力がなければならぬことは論を待たない。

つまり、常に勉強せよということだ。勉強とは物事に謙虚になれということだと思う。往年の大小説家、吉川英治ではないが『われ以外みな師』の心情が理解できる謙虚さが必要だということである。

冨田さんのもう1つの言葉は「良き友人、知人を持つこと」である。そのコツは、お互いにいつもプラスになる何物かを与え合える間柄をつくることだと教えて戴いた。相手に与え得る何物かを常に勉強する必要性を強調された。大きな意味でのギブ&テイクの重要性を指摘された。

情報発信者には多くの情報が集まる現象に似ている。世間は一極集中の大都市・東京を非難するが、東京の最大の魅力の多くは、情報発信基地としての機能であることは間違いない。

Eメールやインターネットのご時世でも、広く世間を見て、多くの人々と付き合えと言う冨田さんの教えは、平凡ではあるが大変に貴重であると思う。そのためには、日ごろからの心がけが何よりも人切なことは論を待たない。