技に夢を求めて(6/13)PDF

和田龍児

「もの作り」の不易流行

限界近いコスト低減努力

インターネットイントラネットの利用が口常茶飯事になり、ネットワーク環境が格段に整備されるにともなって、製造業分野でも CALSの導入や仮想工場の有能吐が盛んに議論されるようになった。

従来の行き方でのコスト低減努力がもはや限界に近づきつつあることは、だれしもが認めざるを得まい。製品や生産技術のブレーク・スルーがどうしても必要になる。

コスト競争力のみでは、国際的な競争裡で絶対優位の立場を維持することは困難であるとは言うものの、メガ・コンペディジョンの時代でも、それは製造業成立の最低の必要条件であり、また、コスト低減への努力は製造業にとって追求すべき永遠のテーマであることに変わりない。

しかし、コスト競争力だけでは十分に条件を満足させることはできない。コスト競争だけで圧倒的な勝利を得ようとすると、従来水準の性能を維持しながら、従来の2分の1とか3分の1、あるいは 10分の1といった、真にイノベーティブな価格設定を実現しなければならない。

その実現手段は2つあると思う、1つは、きわめて特殊用途の専用品分野にターゲットを絞り、どのような特注品についても低価格を実現することである、いくつもの小さな分野で「小さな池の大きな魚」となる戦略である。

もう1つの手段は、大規模な量産設備を備えて、競争者が諦めざるを得ない超低価格を実現し、世界市場に提供することである。

いずれにしろ、競争者との距離を人きくとるための世界規模の市場戦略を念頭に置く必要がある。また、競争者との距離を維持するための世界的な技術開発競争に、後れをとっては何にもならない。

東南アジア諸国や中国・韓国の状況を見ても、もはやハードウェア技術のみにこだわっていては、アジア諸国の追い上げで早晩、日本の製造業は衰退産業の道を辿るしかないとの危惧の念さえ抱かせる。

一方、非価格競争力で勝負に出ようとすると、顧客が気づかぬ全く新しい価値観を新たに創出するとか、従来は実現できなかった性能や機能を賦課した新製品を提供するとか、相対的付加価値を高める工夫が要請される。

製造業のソフト産業化

ハードウェアのソフトウェア化は、その解決策の1つである。付加価値が相対的に低下するハードウェア中心の「もの作り」から、付加価値の高いソフトウェア優先のもの作りに転換しようとする議論はその現れであろう。

たしかに製造業のソフトウェア産業化は、事の善し悪しや感傷は別としても、21世紀に向かって製造業を活性化させるための大きな選択肢の1つであることには違いない。

しかし、第2次世界大戦後の品質・コストに関するハードウェア製造分野での日本の圧倒的な成功経験は、逆に「もの作り」へのソフトウェア技術の効果的な利用方法の導入や、ソフトウェア技術への取り組みの努力を鈍らせた。このため一面で、製造業の基本的ネットワーク戦略を著しく遅れさせる結果を招いたことも事実である。

生産システムのネットワーキングについて言えば、いま情報通信ネットワーク戦略が企業戦略を大きく左右する事実を疑う者は少ないと思う。しかしつい 10年ほど前は、投資効果に対する直接的回収を急ぐあまり、そのような状況ではなかったエ。残念ながら、日本は米国にこの面ではほぼ 10年の遅れがあることを率直に認めないわけにはいかない。

大袈裟な言い方をすれば、日本の企業文化はある面で同質・均等性を過度に追求する文化的特徴があるように思う。いわゆる集団主義的思考・行動がもたらした大きな経済的成功が、一層その面を助長したようにも思える。

しかも、日本の製造業が得意とする伝統的な「もの作り」は、形而下の実体世界の現象を基盤として成り立っている。

一方、ネットワーク戦略は、元来は形而上的側面をもつ演鐸的アプローチを必要とする面がある。つまり、成功したネットワーク戦略は、明確なコンテンツとコンセプトをもつ基本戦略と、大胆なグランド・デザインが明示できる上意下達のシステムの存在が大前提になっているのである。

「ネットワークを中心とした製造業の高度情報社会への対応」といってみたところで、各種モニター・データの収集やネットワーク構築だけで「もの作り」の仕組みが根本的に改善されるわけではない。

とは言っても、目本の製造業の最大の強みは、ハードウェアとしての「もの作り」にあることは問違いないし、今後ともその強みを維持しつつ、貴重な「もの作り」の知的財産を継承、発展させていかねばならない。

そのためにも、よりソフトウェア面に視点を置いた設計・生産・製造技術の研究開発が、一層重要になってくるのである。

地道な蓄積と瞬時の消去と

もともと「もの作り」に象徴される生産技術そのものは、経験と知識、ノウハウの積み重ねや蓄積の部分が大きく、・朝一タに劇的な大変換を遂げる性格のものではない。日常の生産活動の、地道な実践のなかでの新陳代謝的(Metabolic)な改良・改善の積み上げにその本質があり、基本的に製造業の進歩は、あくまでインクレメンタルである。

近代産業は、分業体制の導人による量産技術と、産業革命で出現した工場システムとによって、手工業からテーク・オフしてその基盤が確立したといっても過言ではあるまい。経営学的視点から言えば、工場システムの出現は株式会社組織の登場により、資本の獲得をより容易にし、多くの企業が創設された。そして、専門経営者の登場や資本と経営の分離等々の経営システムが確立され、会社組織が出来上がり、近代的資本主義経済の基礎を形成してきたことはご承知のとおりである。

製造業に限定するわけではないが、企業組織は多くの人々の集合体から成りヽその組織が物、金、大の経営資源を企業目的に応じて最適に配分し、収益を確保する什組みである、つまり、宿命的に行動慣性の大きい部分を内包している。

この宿命的に慣性の大きい部分を、情服技術の助けを借りて、改良・改善して行かねばならぬのである。

そのために経営戦略を中心に、技術と製造、販売の3つの機能を統合化したシステムとして提案されたのが CIMである。当初はメインフレーム主体の CIMであったが、工場の生産自動化やシステム化の進歩に果たした役割と寄与はきわめて大きかった。

その後、製品設計、生産管理、製造ライン、物流等の生産に関わる多くの分野にコンピュータが関与するようになるにつれ、共通プラットホームの構築等、何らかの情報基盤の標準化や統合・整理が必要になってきたことも見逃せない。

多種類のOSの異なるソフトウェアの存在や、相互互換性のない情報機器の氾濫は、いたずらに生産現場を複雑にし、混乱させるだけである。これらの問題に対しては、オープン化の世界的な潮流がその方向を決定づけようとしている。

しかも、電子商取引や電子マネーなどが注目を集め、経済活動の舞台はコンピュータ・ネットワークを駆使した現在の形が一段と進化しつつある。重心は、すでに情報・知識を財とする電子プラットホーム上のバーチャル・エコノミーヘ移行し、実体経済とはインターラクティブにリンクした高度情報化経済社会へと動いている。現在はその萌芽が見え始めたところであろう。そうした変化の中で「もの作り」を囲む生産システムや生産技術も、それに対応した変貌を遂げざるを得ないことも確かなのだ。

「もの作り世界」の基本的行動規範に対し、情報科学やソフトウェア分野のそれは著しく異なる。この分野における新しい技術や手法の開発は、瞬時に過去の実績や経歴を完全に消去してしまうカタストロフィック(catastrophic)な劇的変化を引き起こす性格を秘めている。

つまり慣性レスの世界なのである。変化は変容的(metamorphosic)で、ちょうど芋虫がサナギを経て、華麗な蝶に変態するのに似ており、以前とは似ても似つかぬほどに大化けしてしまう。1人の天才の出現で、世界は一夜にして一転してしまうのである。

21世紀社会の「もの作り」

いまさら「ハードウェア中心の」もの作り』にこだわるのは時代遅れだ」とする風潮があることは承知している。しかし、昔から「不易流行」という言葉がある。

近代産業社会の基盤を成す「もの作り」が、機械に大きく依存する限り、これを放棄してしまうわけにはいかない。「不易」の部分は、近代社会の根源的インフラストラクチヤを形成しているのである。

そもそも「不易流行」という言葉は江戸時代の俳諧師・松尾芭蕉の基本的理念で、時代の新旧を超越して感動を与えるものと定義されている。不易とともに自然に生じる変化する部分、つまり「流行」とによって、この世界は成立しているとするのが芭蕉俳諧の世界観であり、基本的認識であるとされている。「不易」を古くさいと馬鹿にしてはならぬが、逆に「流行]を皮相だと馬鹿にしてはならない。「不易」と「流行」とは、根本においても合一されるべきものであり、弁証法でいう止揚と理解すべきである。「もの作り」においてもまた、然りであると思う。

十人十色と言われていた時代から、今は一人十色と言われるぐらいに、物やライフスタイルに対する人々の価値観は大きく変化してきている。地球環境保全、資源リサイクル、省エネルギー問題を視野に入れて、21既紀の社会が許容する生産というものをどのように考えていくべきか。もう一度考え直すことが大切である。