工作機械産業における国際特許紛争の歴史 
                       2001 年7 月 
                                         細川 学
Ⅰ 日本の工作機械産業の概要

 日本の工作機械産業の生産高は全体で1 兆円前後という弱小産業である。この弱小産業が第二次大戦後の製造禁止品目から解除されたのは昭和24 年であり、欧米工作機械のコピーや技術提携時代を経てようやく産業競争力を付けたのはNixon ショック(1971 年)以降である。しかし、1980 年台に入るとココム統制、VRA(輸出自主規制協定、1986~1993 年)、特許攻勢等々の外圧や政府の特別管理を強く受けた上に、周期的に大不況に見舞われた。こうした厳しい経営環境にさらされながらも、日本の工作機械業界は生産高で1982 年以降連続19 年間世界一という記録を達成した。さらに米国大統領府のレポート1 は、2020 年まで日本の工作機械産業が世界一を維持する可能性を予測している。まことに不思議な業界である。以下その秘密に迫ってみる。(「VISIONARY MANUFACTURING CHALLENGES FOR 2020,1999 年3 月」)

Ⅱ わが国工作機械産業の特徴

1.特徴その1………急激な円高が進行する中での粘り腰

 日本の工作機産業の生産高が$ベースで世界一になったのは1982 年である。この年の為替レートは1$=249 円で、その後円高が進み、1995 年にはついに1$=93 円まで高騰した。その後、円安傾向に転じたが、それでも2000 年で1$=109 円であった。こうした為替レートの高騰の中で、日本の工作機械産業が$ベースで世界一の生産高を19 年間も維持してきたのは信じがたい快挙である。

 その秘密は$ベールと¥ベースの生産高の推移のグラフを見ると明らかになる。¥ベースの生産高が減少する一方、$ベースの生産高は増加し、それらが交差するところを1987 年、1$=144 円の時代にもってくると、1991 年、1$=111 円になると、¥ベースの生産高の減少は加速し、$ベースの生産高との乖離が一段と大きくなってくる。業界は1$=111 円までは合理化や高機能化で耐えたが、それ以上の円高には降参した。その意味で、現在の1$=120 円台は極めてハッピーであろう。これだけの為替の変動、円高それと設備投資サイクルに翻弄されるという厳しい歴史を辿ってきたものの、日本工作機械工業会の会員会社で倒産したのは池貝1 社のみである。強い粘り腰の業界であると言えよう。

2.特徴その2………大幅な合理化による生産向上:それを支えた輸出競争力

 1971 年は第一次オイルショックに続くNixon ショックの年で、業界は壊滅的な被害を被った。そして景気変動に対応するために、合理化と生産性向上に積極的に努めた。この1971 年を基準にすると、2000 年までに就業者は51%減、就業者1 人当たりの売上高(生産性)は$ベースで17.8 倍、¥ベースで6.6 倍にもなった。

 どうして、こうした見事な就業者のリストラと生産性の向上に成功したのか、その理由は定かではない。$ベースの生産性が¥ベースの生産性の2.7 倍にもなっていることに注目すれば、輸出の価格競争力があった(うまい商売をした)、そして輸出比率を高めたことが理由だとも言えるだろう。労使関係に注目すれば、労使関係が良好で、かつ、労使ともが不況時にも良く考えて良く働くからだといった意見も出てくるだろう。しかし、こうした事柄に関する回答は業界統計にも政府報告にも雑誌にも何も報告されていない。

3.特徴その3………単価の大幅上昇

 工作機械の平均単価は1982 年5.3 百万円、1994 年6.3 百万円であり、この10 年あまりの間の単価上昇は1 百万円にとどまった。しかし、バブル崩壊後、1994 年を底に急上昇し、1999 年には10.3 百万円と63%も値上がりした。2000 年には9 百万円となり、1.3 百万円(▲13%)反落したが、それでも1994 年と比較すると43%も高い水準にある。

 世を挙げてデフレスパイラルが議論されている中で、工作機械が平均単価を上げることに成功した理由はよく分からない。一斉にNC 化に邁進し(NC 化率94.1%)、ファナック付NC 機をジャンジャン輸出(輸出比率52.2%)するという業界体質、金太郎飴的な体質が功を奏したとか、ターンキー受注を獲得するようになったなどの理由が上げられるが、いずれも説得力に乏しいと思う。大手オーナー系企業のしたたかな商売上手が主因なのかもしれない。

4.特徴その4………日工会歴代会長の表

 日本工作機械工業会は1951 年に任意団体で発足し、1978 年に社団法人化した。任意団体時代、会長はその当時の大手5 社の持ち回りを原則としていた。しかし、社団法人化した後は様子が変わり、豊田工機が4 回、日立精機が2 回、東芝機械と日立精工が各1 回となり、豊田工機の比重が極端に高まった。工業会がココム違反事件やVRA など政府絡みの国際問題を抱えたことが、こうした状況の背景にあると考えられないこともないが、会長人事に偏りが生じ、それも工作機械の売上高の占める比率が35.5%(2000 年度)しかない豊田工機が連続して会長職を引き受けざるを得ない状況について、19 年連続、生産高世界一の栄光とは落差のある情けない業界であるという見方、社業に
専念し、ボランティア活動は一切しない、したたかな業界という見方、さらには工業会の会員会社の平均売上高約100 億円、平均就業者数約300 人と企業規模が小さいことから、会長職に偏りが生まれたという見方もある。(ちなみに豊田工機は、会員会社平均と比べると売上高16 倍、就業者数14倍である。)

Ⅲ 工作機械産業における国際特許紛争の歴史

1.戦後復興と工作機械

 戦時中に存在した大手工作機械メーカーは「軍需工場」の指定を受けていたために、戦後、GHQから製造禁止命令を受けた。朝鮮動乱後の昭和24 年(1949 年)、米国並の輸出管理を行うという条件付きで工作機械の製造が許可された。日本政府は技術立国、貿易立国の柱として機械産業のマザーファクトリーである工作機械産業を育成するために、技術提携を推奨する一方で欧米先進国の工作機械について官産学の共同研究などを推進した。この日本政府方針に応じて最初に技術提携に応じたのは、旋盤のカズヌーブ社、研削盤のジャンドロン社などのフランスの工作機械メーカーであった。一方、ランデス社(Landis)、K&T 社、ベンデックス社(Bendix)、サンドストランド社(Sundstrand)、G&L 社などのアメリカの有力工作機械メーカーは技術提携を望まず、資本進出、工場進出を狙った。こうした状況を背景に、米、仏などの先進工作機械メーカーの日本への特許出願が急増した。

2.岩戸景気(昭和33/6~36/12 年)からいざなぎ景気(昭和40/10~45/7)時代の特許紛争

 この時代の日本と先進国との技術格差は極めて大きく、発明力では太刀打ちできなかった。一方欧米の工作機械メーカーは日本市場での特許支配を狙って、発明の新旧に関係なく、網羅的かつ広範な請求(クレーム)で日本に特許出願してきた。当時の日本の業界には、技術提携を拒否する外国工作機械メーカーに対抗する手段は特許権の成立を阻止する以外に道はなかった。しかし、日本の業界で専任の特許担当者を置いているところはなかった。また当時の日本の特許庁は審査資料として外国文献を十分に持っておらず、そのため審査に手間取るではないかと憂慮された。

 そこで豊田工機では特許担当者を大増員するとともに、米国および欧州(特に英、独)の工作機械関係の特許公報および関連文献を大阪図書館で全てコピーし、翻訳する一方、米国特許局に近くの弁護士事務所に駐在員を常駐させ、米国審査官の審査資料、ファイルラッパー、裁判記録など全て調査することにした。この調査は現在も続けている。

 これらの調査で入手した公知資料を基に、公告された特許出願について必要な異議申立を相次いで行い、そして極めて高い確率で「理由有り」とする査定通知を受けた。昭和35 年(1960 年)から昭和45 年(1970 年)の10 年間に豊田工機が行った異議申立件数は主要なものだけで140件で、うち完敗は14 件の10%、勝率は90%であった。ちなみに豊田工機が最近10 年間に行った異議申立は件数で約半分、勝率も50%弱である。

 この時代の特許紛争対策はほとんど豊田工機の単独活動であった。その後、日本の特許庁の資料整備が進み、審査のサーチ範囲も拡大し、現在は公開審査の必要性も薄れ、付与後異議制度に変わったので、こうした特許異議戦略は昔話となった。しかし、当時の豊田工機にとっては、技術提携したジャンドロン社、ソムア社との契約を10 年間で円満に解消できたこと、最大のライバルであるランデス社の特許攻勢をはね除け、かつ同社の日本進出をしばらく阻止できたことの効果は絶大であった。

 その後ランデス社は方針を変え、豊田工機に技術および資本提携を申し入れしてきたが、豊田工機には特許問題で自信があったので、これを拒否した。さらにランデス社は豊田工機のライセンサーであるジャンドロン社を買収し、その上で資本提携を提案してきたが、これも拒否した。

 このランデス社との特許紛争での成功は、米国の先発明主義の弱点をついて重要特許の日本での成立を阻止したという点で意義がある。なおランデス社はその後、日平トヤマと技術提携した。

 

3.フォレスター特許(USP3,069,608 ほか、NC 基本特許)をめぐる特許紛争

 米国のMIT のForrester 教授(F教授)らは世界で初めて数値制御装置(NC)の開発・実用化に成功し、特許権(USP3,069,608、特許日1962.12.18)を取得した。この特許権の独占実施権は米国のBendix 社(B 社)が保有したが、F 教授らは外国出願をしていなかった。そこでB 社は、その改良発明(実態は類似発明)を多数行い、日本を始め世界各国で多数の特許権を取得した。F 教授ら(あるいはB 社か)はなかなかの知恵者で、出願から10 年かけて上記の最初の特許権を取得し、その特許の登録日の4 日前に第2 の特許を分割出願し、その分割出願が特許登録される日の1 ヶ月前に第3特許を分割出願し、合計3 件の特許権(USP3,226,677、USP3,431,478)を取得した。

 この汚い手法(当時の米国特許法では合法、1971 年(昭和46 年)に分割出願の条件が制限された)により、最初の特許出願(1952.8.14)から第3 特許が消滅する1982 年(昭和57 年)12 月28 日までの約30 年間、実質的に独占状態(先発明主義の効果)が続いた。この特許にはどうやっても対抗することが難しく、当時の豊田工機上層部が富士通信機製造(株)の稲葉部長(現ファナック社会長)に話を持ち出したところ、同社は直ちに大金(70 万ドル、約2.5 億円)を支払って全世界の包括ライセンスを取得した。昭和45 年(1970 年)8 月のことである。この先見性のある行動によりNC 特許問題は解決し、日本の工作機械の発展の基礎となった。ちなみに昭和45 年における日本のNC 機の年間売上高は243 億円で、NC 化率はわずか7.8%にすぎなかった。

4.マシニングセンターに関する特許紛争、業界結束の勝利

 1962 年(昭和37 年)9 月4 日、K&T 社のマシニングセンター(MC)の基本特許USP3,052,011が特許公告された。最初の請求(クレーム)範囲はそれほど広いものではなかったが、2 回にわたる再発行特許(RE25,583,登録日1965.5.25 及びRE-RE25,737,登録日,1965.3.2:RE; REISSUE)により、K&T 社は全てのMC を網羅する基本特許を持つことになり、さらに同社は先行特許であるIBM
社のUSP2,901,927 をも買収した。そして自信を持って、K&T 社は当時米国でMC を生産していたG&L 社ほか、ほぼ全てのMC メーカーに製造販売の差止と損害賠償を請求する訴訟をイリノイ州東部地裁に起した。

 同社は日本に対しても資本進出を申請した。戦後、日本は資本の自由化を容認していなかったが、1967 年(昭和42 年)7 月から特例として一部容認されるようになり、東芝機械との合弁会社KTTK社の設立が1969 年(昭和44 年)7 月に認可された。その際、行政指導として同合弁会社以外に3社にも特許ライセンスの供与を了承させたということであった。一方、日本の特許庁は、K&T 社の基本特許の成立容認しなかったが、第2 の基本特許である俗称キーロック特許(USP3,704,510)については出願公告(特公昭44-22149)を行った。

 この特許出願公告によりMC は輸出機はもちろん日本国内においても全てK&T 社の特許に抵触する恐れが生じ、日本わが国のほとんどの工作機械メーカーは同社より特許侵害警告を受けた。その結果、異議申立による激しい特許紛争が起こった。

 このキーロック特許については、米国では特許審査中に米国の主要工作機械メーカーからインターフェアレンス(抵触)があり、K&T 社は米国メーカーとは和解した。その後、基本特許RE-RE25,737の審査過程での担当審査官の法令違反(正確には退職後違法行為)事件が明るみ出て、基本特許は権利行使不能となった。米国メーカーは、この権利行使不能判決とキーロック特許に関する和解とで、K&T 社の攻撃から開放されたのだが、日本だけは攻撃され続けた。日本に限定して特許紛争が継続された背景には、KTTK 社とその親会社(東芝機械)の経営上の理由(高額な対価の支払いによる価格競争力の低下、市場制限など)があったと推測される。

 そこで日本工作機械工業会の中に非公式の有志による特許研究委員会が設けられ、(1)法的対応グループと(2)非侵害技術の開発グループとに分かれて対応活動を開始した。(1)グループは特許無効理由と公知例をK&T 社に提出した。おりから1977 年(昭和52 年)3 月1 日に米国特許法施行規則が改正され、無効理由のあるクレームを含む特許権の権利行使ができなくなった。K&T 社は再審査請求を行ったが、結果はK&T 社に不利な査定となった。同社はCCPA(Court of Customs and Patent Appeals:米国関税特許控訴裁判所)に上告したが、結局、この特許紛争はドローン・ゲームとなり、日本のMC はK&T 社との特許紛争地獄から開放されることとなった。

 この教訓を基に1982 年(昭和57 年)6 月、日本工作機械工業会に常設の特許調査専門委員会(現知的財産部会)が設けられ、特許庁および経済産業省より多大な支援を受け、世界の工作機械関連特許を共同で調査研究分析することとなった。これまでに同委員会(部会)で調査した特許資料は数千万件に達している。

5.モーリンス社(Molins、M 社)とのFMS 特許をめぐる特許紛争、国際連携の勝利

 1983 年(昭和58 年)1 月25 日、M 社は米国でFMS(Flexible Manufacturing System)の基本特許USP4,369,563(装置発明)を取得し、さらに1986 年(昭和61 年)11 月11 日には、その分割特許であるUSP4,621,410(方法発明)も取得した。

 「563 特許」についは、K&T 社が請求した再審査請求にM 社が勝つ(1986 年2 月25 日)と、直ちに翌月から数年間にわたり繰り返し世界の主要な自動車メーカー、産業機械メーカーおよびFMSメーカーにライセンス契約の締結を迫った。

 そのライセンス条件はイニシャル10 万ドル、ランニング・ロイヤリティ2%というもので、その後、場合によっては懲罰的に引き上げると脅す戦術で迫ってきた。この要請に屈して多くのユーザおよびメーカーがライセンス契約を締結したが、事態は容易ならざる方向に進んだ。

① 一部自動車メーカーは和解契約して支払った対価をFMS 納入メーカーに要求し
② 米国特許法271 条g項(方法特許のロングアーム)により米国に輸出している自動車メーカー等を直接標的として攻撃し、攻撃されたユーザ業界団体が設備メーカーに解決させる方針を決め、
④ 一方、M社はレメルソンのFMS 特許も買収し、
⑤ そして有名な S 特許事件屋弁護士(弁護士料に代る権利の折半契約)が介在している

こういった状況に陥った。


 問題となったM 社の原英国出願(1965.9.13)はバッチ処理FMS で、その請求(クレーム)は独立クレーム2 つ、従属クレーム1 つのわずか3 つのクレームという狭い範囲のもであった。その後、全自動FMS について英国で特許出願を行い、それを米国に複合優先出願し、さらに分割出願、継続出願、抵触審査、再審査請求を繰り返し、最終的に特許3 件、クレーム499(内独立クレーム138)の完全な基本特許に仕上げた。こうした一連の手続きは、S 特許事件屋弁護士の知恵で行われたものと推測された。

 日本を始め、各国の多くの工作機械メーカーが最も困ったのは②であった。わずか数億円のFMSを納入しただけで、その何百倍ものランニング・ロイヤリティを肩代わりしなければならないこともあり得る計算になり、工作機械メーカーは納入した1 セットのFMS で倒産する恐れが出た。

 ユーザ団体の精神状態を疑うとともに、世界の工作機械メーカーが団結しなければ前門の虎(M社)後門の狼(ユーザ団体)には勝てないと覚り、日―独―米3 国の工作機械メーカー有志で対抗ネットワークを作るとともに訴訟金支援ネットワークを作った。このネットワークは、①屈服しない、②ユーザの理解を得る、③支援金を寄付する、④反論資料を探す、という共通認識で形成されたのだが、その後、脱落者が続出した。実質的にKO パンチを浴びせたのは、日本の工作機械メーカー有志の多額の寄付金と、審査経過が隠蔽されていたドイツ・グループが発見した反論資料と、それとK&T 社の学習効果だった。この事件は、最後には過去のMC 特許訴訟事件で連敗したK&T 社がモーリンス社の特許部長とS 弁護士の違法行為と不公正行為を暴いたことにより勝訴し、決着した。この事件では日本の自動車工業会の会員会社から脱落するところがなかったことに深く感謝する。しかし、早々と和解したF 社(2 百万$程度の和解金か?)など肝心の工作機械メーカーで脱落者が発生し、その和解金が相手の訴訟の軍資金になるという悪循環が起こり、国際特許紛争の難しさを実感させられた。

6.ハ-コ社(Hurco、H 社)との対話型CNC をめぐる特許紛争、切り崩された防御線

 H 社は汎用コンピュータの入力手法をCNC(Computer Numeric Control)に応用した対話型CNCを発明し、米国特許(USP4,477,754、特許日1984.10.16)を取得した。その後、2 回CA(ContinuingApplication:継続出願)を行い、さらに特許発行後に再審査請求を行い、1995 年3 月21 日付けで再審査特許を取ったものが問題となった。
この特許に絡んで日本では2 件(特公昭61-42289 とその分割出願の係る特公昭61-45248)の特許出願が行われており、前者の公告出願については、豊田工機、オークマほか3 社が異議申立を行ったが、平成3 年(1991 年)8 月6 日、特許庁から「理由なし」とされ、平成4 年(1992 年)3月13 日、特許第1648006 号として登録されることになった。これに対して特許無効審判が請求されている中で事件は起こった。

 H 社は日本特許の成立後、日本での異議事件とその勝利を理由に米国で再審査請求を行い、これに対して米国特許局はいとも簡単に再審査特許を発行した。1995 年3 月21 日のことである。H 社は、これを受け1995 年4 月25 日、IMS TECHNOLOGY Inc.(IMS)という特許管理会社を設立し、以前放電加工機の特許訴訟事件で辣腕を奮った特許事件屋弁護士N 氏に、この特許係争問題の処理を委任した。そして1995 年5 月1 日付けで警告状を日本自動車工業会各社および日本の工作機械メーカーY 社、O 社ほか多数に送付した。さらに、その警告状に誠実に回答しなかったN 社、Y 社、O 社などとその現地子会社、販売会社など合計14 社を1995 年10 月10 日、にシカゴ北部地裁に告
訴した。告訴しなかった他の自動車会社には「次は貴方」との警告状を送付した。

 再び日本自動車工業会から「工作機械メーカーが解決せよ、責任をとれ」との大合唱が起こった。さらに1996 年1 月11 日、IMS 社は米国工作機械メーカー2 社と日本のM 電機をバージニア東部地裁に告訴し、これに対してM 電機は1996 年1 月29 日、シカゴ北部地裁に独禁法違反を理由とする反訴を行った。するとIMS 社も追っかけて1996 年2 月20 日、日系10 社を訴訟談合による独禁法違反を理由としてバージニア東部地裁に追起訴した。事件が独禁法まで拡大するに及んで、事態は完全に泥沼化した。

 その中、1996 年3 月21 日、日本のF 社がIMS 社とライセンス 交渉を開始し、同社の全CNC について包括ライセンスを取得した。その旨の通知がF 社からユーザに行われた。IMS 社からは対話型に限らず全てのCNC が権利範囲に属するとF 社と合意したとの見解を記載した、さらに強硬なライセンス契約の締結の勧誘状が送付されてきた。ここに及んで日本の組織的な防御線は完全に破壊され、個別攻撃を受け、全てのNC メーカーおよび紛争に係わった工作機械メーカーは降参した。

 この間に裁判所に提出した訴訟書面は、H 社およびIMS 社側が約50 本、被告側が約150 本に達した。この事件の特異な点は、訴訟開始から和解取下げまでの約2 年間に提出された約200 本の訴訟書面が実態のない形式論に終始し、一度も特許クレームの特定、特許性の有無、element by element の属否の議論が行われなかったことである。裁判費用は被告1 社当たり年間約1 億円に達したと聞いている。

 そんな中で米国の低価格MC メーカーは訴訟を続け、バージニア東部地裁でサマリージャッジメントによる非侵害の主張が認められた。しかし、CAFC(Court of Appeal for the Federal Circuit:連邦巡回控訴裁判所)では特許権の有効・無効の判断をしなければならないとの新判断が示され、最終的に両者は和解した。日本とは全く違った結果になった。

 本件は日本の特許審査がややプロパテント的であり、この審査結果が以後の特許紛争の全てを支配することになったと感じている。なお、N 弁護士は過去に担当した日本企業同士の特許紛争の経験から日本人の訴訟下手を熟知しており、その弱点に付け入られたとも感じている。

6.レメルソン(Lemelson、L 氏)特許に関する紛争、米国特許制度の矛盾が露呈

 L 氏は400 件以上の特許発明を所有し、「エジソン以来の発明王」と自称しているが、同氏を有名にしたのは米国特許法の裏道を利用した、いわゆる「サブマリン特許」(出願後に長期間審査され、対象となる技術が世の中で広く使われるようになってから突如として潜水艦のように浮かび上がって成立する特許)の王ということである。工作機械業界に関係するのは、同氏の自動生産システム関連の特許である。L 氏は1954 年7 月28 日、AN449874 の特許出願を行い、その後、この出願をベースに分割出願とCIP(Continuation-In-Part application:一部継続出願)を繰り返した。

 その中に、USP3049247(自動貯蔵装置、モーリンスに権利譲渡、事件後取戻す)、USP3313014(自動生産装置と方法、モーリンスに権利譲渡、事件後取戻す)、USP3854889(自動生産機械、モーリンスに権利譲渡、事件後取戻す)、マニピュレーション関係4 件(USP4636137、4774815、5017084、5281079)などである。モーリンス社とは同社の「563 特許」と「410 特許」に対してインターフェアレンス(抵触)を仕掛け、モーリンス社に先発明権を譲るとともに上記3 件を譲渡した。

 L 氏は、この譲渡特許をモーリンス社の2 件の特許が権利行使不能になる直前に、モーリンス社から取戻すと同時に、改めてモーリンス特許に対してインターフェアレンス(抵触)をかけ、同特許のクレーム(請求)をコピーすることを目論んだ。さらにL 氏はその旨を広く報ずるとともに同氏との契約が必要である旨の通知を関連各社に行った。しかし、L 氏は抵触審査の進行中に急死し、FMS特許事件はドローン・ゲームとなった。

 しかし、最初の特許出願から箒状に無数に分割して生まれてきた特許のうち、マシンビジョン、バーコード関係の特許(USP4979029 など主要特許17 件)については、幅広くライセンス契約が成立し、5 億ドルを稼いだ男として晩年は極めてリッチな生活を過ごしたという。

 L 氏の工作機械業界に関連する特許事件での主要な問題は以下の4 点である。
① 1954 年7 月28 日に出願した1 件の特許出願から約100 件の特許を40 年以上にわたり、サブマリン的に取得し、結果的に50 年以上の長期間、特許権の恩恵を享受した
② モーリス特許の成立に不公正な手助けをした懸念がある
③ モーリンス特許が権利行使不能となる恐れが出ると、それを自分が取って代わろうとした
④ 有名な特許事件屋 H 弁護士を利用し、特許法271 条(g)を悪用し、あくどい権利行使を行った

 日本側にも問題点が山積していた。
A. フォード=レメルソン特許訴訟事件に深入りし、フォード社を寄付金などで支援したが、フォード社に勝手に和解してしまった
B. 自動車業界全体も高額な要求条件を飲んだ上に、仕入先にまで影響する契約を締結してしまった
C. 工作機械メーカーはレメルソンの FMS 特許関係の出願日は1954 年7 月28 日までは遡及しないとするフォード側の見解を鵜呑みにしてしまった


 特許法271 条(g)は特許事件屋弁護士に悪用されると、立場の弱い設備メーカーはなすすすべもなく敗退することが明白になった。

7.その他の主な特許紛争

(1) コルモーゲン特許 DC サーボ(USP4992716 ほか)
(2) K&T 社パレットチェンジャジャー特許(USP4673076)

8.まとめ

 工作機械産業での特許紛争の第一ステップは日本国特許庁を舞台とする攻防であった。第二ステップはNC 化率わずかに7.8%の時代に基本特許をF 社が先行して世界包括ライセンスを取得し、今日の工作機械産業の基礎を築いた。第三ステップは画期的な新製品、マシニングセンター(MC)をめぐる日=米特許戦争であった。MC の市場評価が高まる中で、特許独占を目指すK&T 社と、それを受けて立った日本の工作機械業界連合との戦争であった。第四ステップはモーリンス社が改正米国特許法271 条(特許侵害)(g)項を悪用して行った、世界の製造業を巻き込んだ国際特許戦争であった。この事件を契機に特許事件屋弁護士が跋扈するようになり、それらに対抗するために国際的連携が図られるようになった。第五ステップは特許事件屋弁護士がさらに巧妙になり、日本の審査結果を巧妙に利用し、再審査特許の付与を受けると、直ちにユーザを問答無用で告訴する訴訟戦術をとるようになった。そのため工作機械メーカーの共同防御線は蹂躙され完敗することになった。その原因は争点が特許以外の事案(手続き、独禁法など)に終始し、特許クレームの確定、属否などの本論に入れなかったという戦術上の誤りで、致命傷となった。