凸版印刷45年を振り返って(7/8)PDF

河野通

3-7 滝野工場の建設

昭和60年(1985年)頃になると、液体容器事業は拡大し、福崎工場では生産が追いつかなくなってきた。もう福崎工場に拡張の余地はなく、全国の凸版の工場の協力を得て何とか繁忙期を乗り切っていたが、それも限界だった。工程が分散し、そのやり取りのために輸送コストが余計にかかり、それが大きな負担になってきた。新工場が不可欠になってきた。

しかし、現状の生産ラインを単純に増設するようなものであっては意味がない。そこで私は、将来のコストダウンの可能性までを考慮し、その上で生産方式をどうするか、どこまで自動化できるか、そして受注から納入までの業務を、当時、漸く話題になりはじめていたCIM(Computer Integrated Manufacturing)、あるいはFA(Factory Automation)とOA(Office Automation)とを連結することによって無人システムとして構築できないかなどの検討を技術陣に指示した。

そのためにはまず個々の機械毎に材料の装填とデリバリーの自動集積装置を開発する必要があった。これは黒田武君の努力によりフレームシーラーのフィーダー以外は完成した。印刷機のデリバリーのオートスタッカーをはじめ世界で初めての装置を幾つも作り上げた。

印刷機はオフセットにするかグラビヤにするか最後まで迷った。決め手はオフセットでは打ち抜きとのインライン化かどうしてもできないということだった。それでグラビヤで最適な機種を選定することにした。シャンボンのインライン機も考えたが、ローターダイの構造からアルミ入りの6層構成のEPパック原紙に罫線を入れることは品質的にまだ無理と判断した。

加藤廉工場長をスイスに派遣し、ロータリーダイの量産テストを行い、それで目処がついたので、ボブストチャンプレンのレマニック820ロータリーダイ付きを採用することに決めた。昭和62年(1987年)4月3目のことである。

同時に、そのロータリーダイの国産化も検討させ、ロータリーダイは辻川彫刻で国産化できるという目処を得た。相模原工場ではロータリーダイの国産化の目処を確認しないままでロータリー化に踏み切り、そのため後で苫労することになったということを知っていたからだ。

納期、価格とも随分とボブストチャンプレン社には無理を言ったが、スイス本社のA.Tobler氏と日本ボブストチャンプレンの塩沢氏が良く協力してくれた。この機種選択は今考えても正しい選択であったと確信している。

新工場は、従来の工場より20%減の人員で30%増の生産を行い、一部の手直しで将来は3倍の生産まで対応できるものとなった。しかも、大阪の生産管理がホストコンピューターに生産スケジュールを指示すると、滝野工場のFAコンピューターに用紙の供給順序が指示され、それらに基づいて製品が完成すると、リアルタイムでケース単位の入庫数が大阪のコンピューター端末から見られるようにした。営業はリアルタイムで自分の席にいて、受け持ちの仕事が今どの工程を流れており、どれだけ完成しているか、出来ているかがリアルタイムに自分の席で判るようになった。いちいち生産管理に確認することがなくなったわけである。

こうしたシステム開発をどこでやろうか迷い、最初、本社の当時FΛ担当に相談したところ、川口工場が東洋エンジニアリングに頼んでいるから、そこでしたらと勧められた。そこで東洋エンジニアリングの担当者を呼んで聞いた。たいそう立派なことを言っていたので期待したのだが、提案された基本案は、我々の狙っていることをまったく理解していないお粗末で使いものにならないものだった。そこで東洋エンジニアリングに頼むことを止め、社内の若手を集めて自前でやることにした。

なお、本社からは、いったん頼んだのだから断るならいくばくかの解約料を払うべきだと言われた。約束通りにできないものに金を払うなど、関西人には理解できないことだったが、本社の手前130万円の解約料を支払った。

社内の若手チームによるシステム開発で活躍したのは、技術開発本部の常包浩司君をコンセプトリーダーとする福崎工場や電算室などから専任で集まった藤沢、有坂、山下、胸広、渡辺の各君らのグループである。彼らの力によって工場完成時には立派に動くシステムが完成した。

私はこんなものはそう自慢するほどでないと思い、あまり宣伝しなかったが、今考えると世界初のパッケージのCIM(Computer Integrated Manufacturing)工場を完成させたわけであり、もっと宣伝すれば良かったと反省している。自慢でないが、当時はテトラパックでも、こんなに自動化、無人化された工場は持っていなかった。改めて彼らの業績を称えると同時に、感謝する次第である。

その後、彼らは特印とか紙器の生産関係情報システムの構築に努力し、SOSの名前で知られる仕様書に基づく生産指示システム、実績把握システムなどを実用化し、間接事務の合理化と営業事務負担の軽減に大きく貢献した。

これら一連の情報システム化が成功した大きな要因は、現場の事情を良く知っている技術員と生産管理員、それに電算室のシステムエンジニアとPCベースのシステムが判る開発メンバーが集まったプロジェクトチームを作り、それが全責任を持ち、一元的な体制で開発を進めたことにあると思う。

実務がよく判っている連中が自前で作ったので廉価で済んだばかりか、システムそのものが、無駄なく、かつ痒いところに手の届くユーザーフレンドリーなものになった。プロジェクトチームの人件費は社内費用で済み、外部に支出した費用はほとんどハードの値段だけで、それで立派なシステムを完成させることができた。また現場の生産機械に付けるセンサー類も総研の小松部隊の献身的な協力により、安くて良いものを作ってもらったことも忘れてはならない。改めてお礼を申し上げる次第である。

私は、システム開発に際し、我が社の基本は製造業であり、物を作るのが仕事であり、そのベースになるのは製造仕様書であり、それに各工程で必要とされるいろいろな情報を上手くまとめて行けば良いのであって、システムの目的は情報を出力させることではなく、あくまでも物作りを円滑かつ効率的にすることであると考えた。そして製造仕様書を基本にシステムを展開し、そこから現場で必要とされる情報を手軽に人手できるようなシステムにするように心掛けた。その結果、従来の情報システムは管理のためのシステムになりがちだったが、完成したシステムは、使いやすい、お陰で仕事が楽になったなどと、現場のパートのおばさんにまで評判が良いものとなった。

話は戻るが、新工場建設が決まった時、用地としては福崎工場建設での経験から県の工業団地を確保するのが一番手っ取り早いと考えた。福崎工場や伊丹工場との位置関係から兵庫県内が好ましいと思い、兵庫県に相談したところ丁度、福崎の一つ大阪よりの中国自動車道沿いの滝野工業団地に造成中の上地があると紹介された。昭和60年(1985年)8月のことであった。

昭和62年(1987年)夏に正式に契約し、造成工事の完成を待って、完成後、直ちに工場建設に着工した。滝野工場の土地は約13万㎡、そこにまず約5000㎡の液体容器工場を建設した。昭和63年(1988年)4月にテストランには入り、AGV(Automatic Guided Vehicle:無人搬送車)の調整には苦労したが、加藤廉君の奮闘により1ヶ月ほどで立ち上げることができた。AGVで自動的に材料や印刷物が出入りするのを見たときは大変感激した。

なお、この土地は、当初は凸版段ボールが関西工場の用地が欲しいということで、それを考慮して手当したのだが、紆余曲折をへて東京磁気印刷の工場が建設されることになり、パチンコカードの全盛期には原紙の生産拠点として大いに貢献した。さらに昭和63年(1988年)9月には、高速道路側の隣地、約2万㎡で買い増し、そこが現在は金融証券事業本部のICカードを中心とするカード工場になっている。

液体容器工場の稼働後、次いで平成元年(1989年)1月から商業印刷のオフセット輪転機(オフ輪)工場の建設に入り、4月には輪転機が7台並ぶ約5000㎡の当時としては単一のオフ輪工場として日本一の工場が完成した。この完成により生産は合理化され、要員は約半分で済むようになった。さらに平成4年(1992年)には、増築し、さらに4台のオフ輪を設置するスペースとラック倉庫を準備した。今では10台の輪転機を2ないし3交代制で70人以下の要員で動かしている。そして製本工場や平台工場の建設も始まっている。

一方、液体容器事業も順調に拡大し、平成4年(1992年)には工場を増築し、月産3000万パックまでの生産が可能な規模にした。これは輸出用のパックが増えて、ウーロン茶のパックだけでも月産1000万パックになったためである。

この当時東京では日産ディーゼルの工場を買い取り、FA化した川口工場の建設を進めていた。それに比べると規模では劣るものの、質では、それに負けない工場を、一足先に完成させることができたと今でも思っている。

このように凸版関西支社が大きく変貌を遂げつつあった昭和61年(1986年)12月、伊藤支社長が精密電子事業部、今のエレクトロニクス事業本部長に転任し、吉利専務が支社長に就任された。吉利さんは西目本に長くおられ、その後、上野さんの後の東京包材事業部長を勤められていた。従未型の御用聞き営業の典型で、前任の伊藤さんが率先垂範型であったのと対照的だった。そのため困惑し苦労することが多かったが、すべてを私に任せてくれたので、思う存分に滝野工場建設をはじめ関西支社の経営戦略の策定から実施にいたるまでやらせていただいた。それは大変に感謝している。

3-8 関西支社長として.

そして昭和63年(1988年)7月1日付けで、私が吉利さんの後任の関西支社長の辞令をもらった。しかし、関西支社の仕事は、それまでほとんど一人で取り仕切っていたもので、あまり感慨はなかった。それでも辞令をもらって、改めて考えたことがあった。それは以下の3点であった。

  • いかにして関西市場で凸版の存在感を大きくするか
  • 関西でもっと技術系の人材を確保する。そのためには研究所を名実ともに整える必要がある。
  • 商印のプリプレス(Prepress:印刷以前の工程の総称。企画・デザイン・写植・版下・製版などの工程や作業)を強化する。若園、篠山などのベテランの技術者が相次いで関西支社を去り、指導者不往になっていた上に、プリプレスそのものがCEPS(Color Electronic Prepress System:カラー画像の様々な処理やレイアウトなどのプリプレス作業をコンピューターによって行うシステム)の時代に入り、イスラエルのサイテックス社の台頭など新しい動きが激しくなっていたからである。

なお、CEPSに対する私の関心の背景には、得意先である石田大成社の阿部専務がニューメディアに傾倒され、毎年、米国の視察ツアーを催行されており、我が社にも誘いがあり営業を中心に参加させていただいていたことがある。そして、私が関西支社長に就任した後の平成元年(1989年)のツアーの訪問先にMITメディアラボが入っていたため、自分自身で米国でのデジタル化の流れと技術的意味を理解するために、そのツアーに参加することを決めた。そしてMITメディアラボのあるボストンに行った。

そこで私はデジタル化の潮流を確認した。当時、日本ではHDTV(高品位テレビ:High Definition Television)の規格論争が華やかに報道されていた。その論調は、米国は日本に先をこされたから日本の提案する「ハイビジョン」の規格に反対しているといったものだったが、MITで話を聞いたところ、米国が反対している理由は違っていた。日本の提案していた「ハイビジョン」はアナログ方式であり、確かに既存のものよりは優れてはいるが、中途半端であり、将来を見通すとデジタル化すべきであるというのが反対の根底にあるということだった。

その根拠について、いろいろMITで説明を受け、納得し、そしてフルデジタル化が技術のトレンドであることを確信した。これ以降、私はまっすぐにフルデジタルの実現に力を注いだ。平成4年(1992年)、CEPSで牽引していたイスラエルのサイテックス社を訪問し、フルデジタル化が技術のトレンドであるという確信をさらに強めた。そこで東京・板橋から河村誠四郎君を迎えることにした。彼は非常に個性が強く、それに反発する人も多かったが、同時に、そのひたむきな仕事に対する情熱と最高の物を求めてチャレンジする姿勢に共鳴する人も多かった。

しかし、期待していた河村君は、その年の4月、役職定年を機に退職し、副社長として関西済済堂に移ってしまった。彼が関西支社に在籍した期間はきわめて短かった。それでも関西支社の商印のプリプレス部門のデジタル化が他事業部より早く進められたのは、やはり彼の功績だったと思う。彼がいなくなりフルデジタルヘの歩みが遅れたが、彼の蒔いた種で若い人が育ってきており、将来が楽しみである。なお、河村君は平成10年(1998年)1月、若くして亡くなってしまった。

一方、第一番目に上げた、いかにして凸版の関西市場での存在感を高めるかについては、ガス、電力、運輸など基幹産業との付き合いが薄い、国とか自治体関連のプロジェクトなどとも縁が薄い、財界活動もほとんどしていないといった問題点が浮かび上がり、そして、まずこの辺りを少し変える必要があるだろうと思った。そして関経連の専門婆員会に顔を出したり、ロータリークラブも名門の大阪クラブに入れていただいたりして、ともかくトップクラスの方々での凸版の知名度の向上に努めた。

そして、今まで取引のなかった多くの会社の社長クラスの方々をはじめ、大学やマスコミなど幅広い分野の方々とお会いすることができた。しかし、そうした活動を開始した後、1年あまりで本社に役員として転出することになったしまったので、自分自身で、それがどれだけ関西市場での凸版の存在感を高めるのに貢献したのかを実感できるところまで到らなかった。それでも、そこで得られた人間関係はすべて後任の羽間専務に引き継いだので、長い目で見れば、無駄ではなかったと思う。

第二番目に上げた関西での技術系の人材の確保は、丁度、バブル期後半であって、私自身、リクルートのために大学に度々足を運んだが、難航した。そんな努力をしている中で、東京の研究所に勤務するのはイヤだ、関西を離れたくないといった声を良く耳にした。そのため関西支社の開発技術本部を核に研究所を作れないかと考えた。それに三谷さんが理解を示してくれて、平成3年(1991年)4月、関西支社傘下の関西研究所がスタートすることになった。

細包暁君が初代所長に就任した。私は独立の研究所を作るつもりで、京阪奈学研都市に立地する予定にしていたが、それがバブル崩壊でキャンセルになり、急遽、播磨研究都市に振り変えた。印刷会社の研究所は交通の便利なところに立地する必要があると考えていたにもかかわらず、それにまったく反する場所だった。そして関西研究所自体も機構改革により平成10年(1998年)3月末で姿を消した。時の流れなのだろうが、それに立地問題で私が判断ミスを犯したという意識も加わって、寂しい限りである。

3-9 1990年国際花と緑の博覧

会昭和45年(1970年)に大阪の千里丘陵で日本最初の万国博覧会が開催され、大成功を収めた。それに続いて、東京一極集中から地方分権へという流れの中で、関西でも関西の復権を合い言葉のようにして、関西国際空港、明石大橋、京阪奈学研都市など様々なプロジェクトが計画され、実施された。その一つに環境、人に優しいなどをテーマに大阪市主催で平成2年(1990年)に開催された「国際花と緑の博覧会」があった。

この計画を知り、そしてたまたま友人が大阪市公園局長で、博覧会事務局事務次長になったこともあって、凸版の関西市場での存在感を高める良いチャンスだと考え、イベントに強いトータルメディアなどと組み、いろいろ企画を練り上げ、関係各方面に何度も提案した。しかし、1年あまり頑張ったところで、「電通と比べると、お前のところは子供みたいだ。企画の中身に新鮮みがない。諦めた方が良い」と諭された。

事実、いろいろ頑張ったが、結局、凸版グループとしてはマイナーなパビリオンの受注しかできなかった。そして「電通と比べると、お前のところは子供みたいだ」と諭された意味を、開会後、当時副社長だった藤田社長を電通の石原副社長と共に案内した時に思い知らされた。電通の山下常務が、この施設には今、全入場者の2%が入場しているので採算はとれますが、あの施設は1%ですから赤字でしょうなどと明快に説明されるのを聞いて、そのソフトデータの蓄積の差に頭が下がった。これでは負けるのが当たり前だと思った。

しかし、会期中ハイビジョングラフという新聞を、毎日、現地取材した生映像を編集して印刷し、会場内で配布する試みは成功だった。オンデマンド印刷の草分けで、会期中の183日間(4月1日~9月30日)、一日も休まずに発行できたのは記憶されて良いことだと思う。協力していただいた約160名の人々の名前が記録に残っている。

3-10 ICカードの実用化

昭和63年(1988年)11月21日、兵庫県津名郡五色町保険センターで、斉藤五色町長、県立病院長松浦博士、厚生省医療技術開発室西本室長、NTTデータ通信・関西公共システム部中井課長、松下電子部品・藤井部長をはじめ近隣の自治体の町長や病院長、保険関係者が集まり、五色町保険医療情報システムの導入式が行われた。

ICカードが医療分野に我が国で初めて採用・実用化された日である。わずか500枚であったが、約2年間にわたり、北島優君をリーダーにNTTデータ通信、松下電子部品と共同戦線を張り、厚生省、兵庫県、五色町、県立病院などに売り込み、その説明やモノ作りに走り回ってきた甲斐であって、喜びは一塩であった。

これは厚生省の医療ネットワーク化構想(レインボー計画)に基づいて医療情報システム開発センターに委託された、モデル地域と病院を作り、ICカードを使った医療情報システムを構築するという最初の試みであった。凸版にとっては本生産としてのICカード作りは初めてのことで、ICチップをどうやってカードに埋め込み、その性能を保証するのかなどNTTデータ通信、松下電子部品と一緒になり苦労した。

苦労する過程で、長期的観点に立って優秀な人材を貼り付け、何年も取り組んでいるNTTデータ通信、松下電子部品の姿を見て、懐の深さの違いも思い知らされた。この時、我が社では、このプロジェクトに関わる500、600万円の開発費ですら、東西一本化された金融証券部門の本部長に負担を頼んだところ、ICカードなど見込みのないものには金はだせないと断られた。しかし、私は将来性は大きいと思ったので関西支社で全額負担して行うことを決断した。

これによってICチップの埋め込み技術を勉強できると同時に、新しい人間関係も構築され、ICカード・システムの売り込みやICカードの拡販に関する大きなノウハウを習得することができた。そして芽生えたICカード生産の火を、各地の医療ICカードやミノルタカメラのICカードなどを手掛けながら維持することになった。もし、この時、ICカードを捨てていたら、現在、テレフオンカードから高速道路の通行券、自動車の免許証などへと広がりを見せている大きなICカード・ビシネスから凸版は取り残されていたと思う。この時の私の決断は誇りに思っている。

同時に、私は、こうした一連の経験を通じて、ICカードに取り組むためにはチップ・モジュールも自社生産する必要があると痛感させられた。カードに都合の良いチップ・モジュールは電気屋さんに頼んでいたのでは、なかなか得られないということを学んだ。このことは本社に来てから、やかましく金融証券のカード部隊に言ったのだが、他社からの購入に固執する意見が強く、ついに実現されなかった。しかし、ICカードに本気で取り組むのなら、今からでも遅くない、チップ・モジュールを内作すべきだと思う。

3-11 トッパンフェアの開催

本社ビルの竣工の以来、トッパン展を開催してはいなかったので、トッパン展を開催してはどうだろうかと提案したのだが、各事業部の意見がまとまらず立ち消えになってしまっていた。

そこで「国際花と緑の博覧会」が終わったこともあり、関西支社だけでできる範囲で得意先に凸版の全体を紹介しようと考えた。この頃には、ニューメディア、ワンソース・マルチメディア、CAD/CAM、スペースデザインとか様々なことを手掛けるようになっており、凸版の社員でも良く判らず、まして得意先にキッチリと説明することができないことが多くなっていた。そのため得意先に紹介すると同時に社員教育の意味も大きいと考えてフェアを計画した。

出来るだけ費用を抑えるため関西支社のクライアントルームやスタジオなどのスペースを使い、しかも、これからの技術トレンドを考えて、物の展示ではなく、コンピューターのソフトのプレゼンテーションに重点を置いて開催することにした。

平成2年(1990年)11月9日から4日間開催した。6400名の方に招待状を出し、3022名が来場された。それ以外に協力会社の方や家族が823名も来場された。得意先の社長や役員だけでなく、普段取引の少ない会社の幹部の方も来場され、大盛況に関西支社主催のトッパンフェアは終わった。

この時、某社の社長から「どうしてムーアさんと一緒に開催されなかったのですか。もっと凸版のことがよく理解していただけたのではないですか。」と言われて残念に思った。グループがまとまって外部に対応することの重要性を改めて知らされた。このことは平成6年(1994年)本所CGビルの竣工記念に開催したトッパンマルチメディアフェアの時にも進言したのだが、聞く耳を待った人がいなかったのは残念だった。

狭い領域の事業分野ごとに分社化が進めば進ほど、グループ全体のパブリシティーが重要な意味を持ってくる。さらにマルチメディアのような口で説明しても理解されにくい商品が増えるに従って、フェアとかエキビッションのような方法を駆使してムード盛り上げるようなことを行う必要もあろう。

3-12 藤田社長の就任と本社への転勤

平成3年(1991年)6月27日の株主総会で10年間社長として凸版印刷の近代化に貢献された鈴木社長が会長に就任され、藤田社長が誕生した。7月17日には東京の帝国ホテルで就任披露パーティーが催され、次いで7月23目大阪ロイヤルホテルで西日本地区の披露が行われた。どちらも多数の得意先や関係者の方にお越しいただき、大盛況であった。

余談だが、大阪でパーティーが行われた日は、私が5年前から入会を希望していた鳴尾ゴルフクラブの入会審査会があり、夕方には親睦委員長を仰せつかっているサントリーのビールの拡販大会かあり、役日柄席を空けるわけに行かず、私には生涯で一番忙しく長い一日であった。それはともかくとして、大阪での披露パーティーの開催に際しては多くの関西支社の総務や営業の人とホテルに協力していただいた。改めて関係者にお礼申し上げる次第である。

一連の行事も終わり、ともかく関西支社の業績は順調であり、私としては、もうひとまわり関西市場での凸版の力を大きくし、それをもって私の会社生活の最後の仕上げにしようと思っていた。その矢先、正月の挨拶回りに藤田社長が来られ同行していたところ、帰り際に新大阪駅で一緒にコーヒーを飲んでいる最中に、4月から本社で技術行政を担当しろと告げられた。まさに晴天の霹靂のことであった。平成4年(1992年)2月5日のことである。

確かに日本はバブルが崩壊し、行く先の不透明な時代に入りつつある一方で、我が社の関わる世界はデジタル化いう技術の大波に襲われ、あらゆる産業を巻き込むグーテンベルグ以来の「情報通信印刷革命」が始まろうとしているように思える状況であり、その中で凸版グループとして技術面での羅針盤が必要だろうということは感じてはいたが、それを自分がやるかどうかということは別の話である。

入社以来、関西支社にいて、それにもう60歳を過ぎており、その上で、まったく未知の本社に一人で行って何かできるかどうだろうかと戸惑った。今まで書いてきたように私は大学では化学技術を学んだものの入社以来、基本的に技術らしいことは何もやってきてはいない。生産管理とか利益管理ばかりやってきていて、その中である程度経営全般は判断できるようになったものの、大学時代に学んだ科学技術とは比べものにないなく科学や技術は発展し、専門領域も細分化しており、判らないことばかりである。羅針盤となって、これからの凸版の技術面で指針を示し、リードするなどという役割を果たすことができるかどうか、まったく自信が持てなかった。

しかも私は入社以来、ラインの一員として動いてきており、スタッフとしての経験は皆無である。スタッフは人にアドバイスすることによって仕事を進める。一方、ラインの場合は、責任は自分が負わなければならないが、ともかく自分で行動し、良い結果が出すことができれば、何とかなる。そういった体質のラインにずっといて、常に自分自身の即断即行でやってきたもので、スタッフという形で、どうやれば良いのか判らなかった。本社の官僚的な組織に入り、それを使うためはどうしたらよいのか判らなかった。

しかし、最後には、考えて悩んでいてもしようがない。当たって砕けろと腹を決めた。父の弟で当時東京都立科学技術大学の学長をしていた渡辺茂氏が東大時代からコンピューターとか人工知能とか先端分野をいろいろやっており、官庁関係にもよく知られていたので、何かあれば叔父に相談して頼ればよいと思っていた。ところが、この頼りの杖も本社に赴任する直前3月20日に急に亡くなってしまった。やはり卒業した京都大学の建学精神の「自主と自立」で行くしかないことになった。