ぼちぼちいこか 「海行かば」と奈良の大仏(1) PDF   

伴 勇貴 2009年08月  

「賀陸奥国出金詔書しょうしょ歌」 

先日、ぼーっとテレビを眺めていたら

海行うみゆかば水漬みづかばね 山行 やまゆかば草生くさむかばね ………… 」
の曲が流れてきた。

「海に行くのならみずかるしかばねになろう 山に行くのなら草がえるしかばねになろう この命を天皇のために投げ出す …………」
大本営の玉砕ニュース発表や学徒出陣の際などに流された曲「海行かば」である。

この歌詞は奈良時代(710〜784)末期に編纂された日本最古の和歌集「万葉集まんようしゅう」に収録されている「長歌ちょうか」の一部と聞いていた。それ以上のことを知ろうとは思わなかった。

「万葉集」には4500首以上の和歌が収録されている、しかも和歌とは言ってもすべて漢字で書かれているという。漢文である。馴染みにくい上に、何よりも「海行かば」の曲そのものに、僕は抵抗感を感じ、避けていた。

親父の兄弟は何人も戦死し、残された従兄弟・従姉妹たちの様子を僕は見ていた。闊歩する進駐軍、その進駐軍とやり合う親父、掌を返して媚を売る人たちの様子も見ていた。学生運動では僕は過激派グループに属していた。仲間には自殺した奴が何人もいた。半世紀過ぎてもまだ逃げ続けている奴もいる。中学高校大学時代を通じてトップクラスを走っていた男たちだ。これらから曲「海行かば」に対する僕の抵抗感が生み出されていた。

しかし、ネットは凄い。「海行かば」に対する僕の抵抗感を激減させた。現在の多くの引きこもりは、まったく外部と接触がないわけではない。ないとは本人も思っていない。多くの引きこもりは、ネット上でのやりとりには心を許している。活発であり、ハマっている ――― といった解説を実感する。

曲「海行かば」を耳にし、僕はネットを徘徊してしまった。図書館に行って関連書物を探し回る手間がかからない。高速光通信回線に接続する自分の机上の高速デスクトップパソコンと2台の大型ディスプレイを使い、キーワードワ検索で内外のビッグデータから関連情報を探し出すことが簡単にできる。

ネット上を動き出すと速い。「海行かば」に関する情報もいっきに増えた。本歌・元歌は「万葉集」の編者の大伴家持おおともやかもち(718~785)の長歌ちょうか「賀陸奥国出金詔書歌」(陸奥国くにで金が出たとする天皇の詔書を賀す歌)の一部であることが分かった。

大伴家持おおとものやかもち …… 奈良後期の歌人。大伴旅人おおとものたびとの子。万葉集の編集者。自身の収録作品も多く長短歌合わせて約480首。繊細な叙情歌に特色がある。

大伴旅人おおともたびびと…… 665~731年。奈良前期の武将、歌人。天智てんち天皇の子供の大伴皇子と実弟の大海人おおまの皇子との皇位継承問題、672年の「壬申じんしんらん」で武勲をたてた大伴安麻呂おおとものやすまろの長男。漢学の素養高く、万葉集に和歌約80首が収録されている。なお、「壬申じんしんの乱」の結果、大海人皇子が即位して天武天皇となり、大化の改新が強力に推進された。

情報に目を通していると、半世紀以上前、中学・高校時代に勉強した懐かしい史実や人名が次々と出てくる。気が付くと長時間、ネット上を徘徊していた。「シルバー・ウィークには絶対に気分転換のために出掛ける!」そう決めていたのに、明日で終わりである。

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ネット活用のメリットは極めて大きい。これは確かだが、危険な面が少なくないと最近とくに感じる。ともかく鵜呑うのみにすると厄介な情報が大手を振ってネット上には溢れている。それらが無節操・不用意に引用・加工され、孫引きされ、流れている。「情報の洪水」などと驚いていては済まされない。混沌こんとん(カオス)である。年齢を問わず、混沌をかいくぐる術を習得していなければならなくなっている。

しかし、その術を身につければ、新宿のいかがわしい風俗店前を覗きながら歩くようなもので、それはそれで、なかなか面白い。きちんと整理された国会図書館の書架の間を歩く、そんな世界だけだと、間違いなくもっと辛いだろう。

勝手に、そんなことを思いながらインターネット世界を徘徊していたら、それなりに納得できる「海行かば」の全体像が浮かび上がってきた。何十年ものどの奥に引っ掛かっていたものもなくなった。

まず「海行かば」の本歌・元歌である「万葉集」に収録されている大伴家持おおともやかもち長歌ちょうか「賀陸奥国出金詔書歌」から眺めてみよう。その全文と概略の意味は次の通り。

葦原あしはらの 瑞穂みずほの国を        (稲が豊かに育つ国を)
 天降あまくだり 知らしめしける      (天より降りて統治する)
 皇祖すみおやの 神のみことの          (神を祖先とし)
 御代重みよかさね 天の日嗣ひつぎと       (それを引き継ぐ)
 知らし来る 君の御代みよ御代みよ     (天皇が治める)
 きませる 四方よもの国には     (諸国は)
 山川を 広み厚みと        (山も川も広く豊かで)
 たてまつる 御調みつきたからは         (献上される貢物、宝は)
 数え得ず 尽くしもかねつ     (数えきれず、あげ尽くすせない)
 しかれども 我が大君おおきみの      (しかし、今の天皇は)
 諸人を 誘ひたまい        (人々に呼びかけ)
 良き事を 始めたまひて      (良い事業―大仏造像―を始め)
 くがねかも たしけくあらむと     (そのための黄金が足りるだろうかと)
 思ほして 下悩しもなやますに       (心配し 心を悩ましていたところ)
 とりが鳴く 東の国の        (東の国の)
 陸奥の 小田なる山に       (陸奥の小田にある山に)
 黄金こがねありと 申したまへれ     (黄金があるとの報告があり)
 御心みこころを あからめたまひ       (心の曇りも晴れた)
 天地あめつちの 神相かみあいうづなひ       (天の神も地の神も、この事業を良しとし)
 御祖めおやの 御霊みたま助けて       (祖先の神々の霊の助けもあり)
 遠き代に かかりしことを     (昔にあったと同じことを)
 我が御代みよに あらわはしてあれば        (今の時代にもするのだから)
 す国は 栄えむものと      (我が国は栄えると)
 神ながら おぼほしめして          (今の神の天皇は思い)
 武士もののふの 八十伴やそともを       (多くの部下を)
 まつろろへの 向けのまにまに      (服従させ)
 老人おひひとも 女童おもなわらしも            (老人や女子供も)
 しが願ふ 心足こころたらひに                (それぞれが満足するように)
 でたまひ 治めたまへば            (慰め、施しを与えたので)
 ここをしも あやにかしこみ         (なんとも尊い)
 嬉しけく いよよ思ひて       (嬉しいことだと思い)
 大伴の 神祖かんおやの         (大伴家の遠い祖先は)
 その名をば 大来目主おおくめぬしと         (大来目主おおくめぬしという名前で)
 負ひ持ちて 仕へし官        (仕えた者で)
 海行かば 水漬く屍         (海に行くのならみずかるしかばねになろう)
 山行かば 草生す屍                           (山に行くのなら草がえるしかばねになろう)
 大君の 辺にこそ死なめ                     (この命を天皇のために投げ出す)
 顧みは せじ              (決して振り返りはしない)
 と言立て                (と主張し)
 ますらおの 清きその名を      (武人として潔い大伴の名前を)
 いにしえよ 今のうつつに                            (昔から今にまで)
 流さへるおやの子どもぞ         (伝えてきた)
 大伴と 佐伯のうじは            (それが今は大伴と佐伯の姓となり)
 人のおやの 立つる言立て        (先祖の主張した通り)
 人の子は おやの名絶たず          (先祖の名を絶やさず)
 大君おおきみに まつろふものと        (天皇に仕えると)
 言ひ継げる つかさつかさぞ                 (言い継がれてきた家である)
 梓弓あずさゆみ 手に取り持ちて          (梓の木の丸木の弓を手に持って)
 剣大刀つるぎたち 腰に取りき         (刀を腰にさし)
 朝守り 夕の守りに          (朝の警備 夜の警備)
 大君おおきみ御門みかどの守り          (皇居の門の警備)
 我れをおきて 人はあらじと      (我々以外にこれを行う人はいないと)
 いや立て 思ひし増さる      (誓いを新たにする)
 ますらおの 清きその名を     (武人として潔い大伴の名前を)
 大君の 御言みことの幸を        (天皇の言葉のありがたさを)
 聞けば貴み            (聞けば尊くて)

 

この長歌がどれだけ評価されているのか、どうして評価されているのか、僕には分からない。大伴家持おおとものやかもちが祖先と一族の武勲を自慢する匂いに溢れる歌にしか思えないのだが ………… 。しかも、そんな長歌のごく一節、前後関係を断ち切った十分の一ぐらいの一節が取り出され、戦前の軍国主義、特攻隊を称える歌になっている。そう思うと何とも複雑な気持ちに襲われる。

宮城県涌谷町わくやまちの黄金山神社

この長歌の救いは、聖武天皇(701〜756 在位724〜749)が仏教による国家統合を目指し、金銅仏こんどうぶつの巨像、つまり奈良東大寺の盧舎那仏るしゃなぶつの造像を発願ほつがんするくだりだろう。

日本の仏像のルーツは、飛鳥時代(592〜710)の6世紀に大陸から入ってきた銅製鋳物に金メッキ(純金を水銀で溶かして塗る鍍金ときん)を施した金銅仏こんどうぶつにある。飛鳥・奈良時代、7〜8世紀に日本は金銅仏こんどうぶつの全盛期を迎える。

聖武天皇が金銅仏こんどうぶつの巨像の造像を発願ほつがんしたのは743年。745年に造像が開始され、752年には高さ約15メートルの奈良東大寺の盧舎那仏るしゃなぶつが鋳造され、大仏開眼供養会が開催されるに至った。

しかし、いろいろ問題があった。なかでも厄介だったのは、銅製鋳物の巨像の仏像を金メッキするのに必要な量の金の確保だった。それまで日本では金は産出されていなかった。

聖武天皇は、これを憂慮し、神仏に国内での金産出を祈願する。そんな時期、造像開始から4年後の749年、陸奥国むつのくにから金産出の急使が到着、追いかけて金900両(約13キログラム)が献上される。仏像の金メッキに必要な量の金確保の目処が付いたと聖武天皇は非常に悦ぶ。陸奥国むつのくにからの金産出を伝える詔書しょうしょを出し、目出度い印として年号も「天平てんぴょう」から「天平感宝てんぴょうかんぽう」に改元した。――― 平安時代初期(797年)完成の編年体の正史「続日本紀」(収録期間:697〜791年)に記載がされている。

なお、記載されている金産出地の「陸奥国小田郡の山」の「小田郡」の地名は、現在は市町村合併などで消えている。しかし、1957年の発掘調査により日本の初産金の地は上図の宮城県遠田郡湧谷町わくやまち涌谷黄金迫わくやこがねばさま黄金山こがねやま神社が建立されている丘陵地帯であることが確認されている。

産金・黄金献上の立役者は百済王敬福くだらのこにきしきょうふく

黄金山こがねやま神社」境内は天平産てんぴょうさん遺跡いせきとして宮城県史跡、そして国史跡に指定されている。「黄金山こがねやま神社」のホームページには、

「小田郡の産金に報い、陸奥国の租税は三年間免除され、陸奥国守の百済王敬福くだらのこにきしきょうふくをはじめ関係者には、位階を進めてその功を賞されました。また、祈願奉斎が行われ、地方的神社として存在しておりました黄金山神社は、天平産金に縁起を有したことにより、『延喜式神名帳』に登載され、延喜式内社という由緒ある社、国家の神社となりました。」と書かれている。

黄金を献上した陸奥国の国守(地方長官・国司)が、持統天皇(645〜703年)から「百済王くだらのこにきし」の氏姓を賜与された「百済くだら」の最後の王の子孫あったというのは驚きだった。

百済くだら」は4世紀前半~660年、朝鮮半島西部にあった国家である。日本の飛鳥から奈良時代、中国の隋から唐初めの時代、朝鮮半島は高句麗こうくり百済くだら新羅しらぎの三ヵ国が競い合った「三国時代」だった。「三国時代」は「百済くだら」の滅亡で終わるが、「百済くだら」の最後の王、第31代の義慈(599~660)の子、禅広(善光)(621〜687)一族は、「百済王くだらのこにきし」の氏姓を賜与され、日本に帰化した。禅広(善光)のひ孫が百済王敬福くだらのこにきしきょうふく(697〜766)であった。

敬福きょうふくは738年(41歳)陸奥の行政官の国司、四等官(かみすけじょうさかん)の「介」に任じられ、743年(46歳)に「守」に昇任する。任期中、敬福きょうふくは陸奥での産金探査を進めるが、すでに赴任から8年あまり経過していた。完了前の746年、現在の千葉県中央部に位置する「上総かずさ国」の「守」に転任される。しかし、5ヶ月後には再び「陸奥守」に再任される。大仏造像用の金を確保するため、陸奥国の事情に通じた敬福きょうふくに金探査継続の特命を与えたのだろう。探査を効率的に進めるための再任だったのだろう。この再任が実際に功を奏し、陸奥国での日本初の産金につながった。それだけに聖武天皇の喜びも特段のことであったに違いない。そんな話が日本地質学会「地質学雑誌」に掲載されていた。

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改めて大陸の巨大国家、隋(581〜618)・唐(618〜907)と隣接しながら「三国時代」の朝鮮半島の高句麗・百済・新羅の三ヶ国が、その地位保全にいかに腐心したかを思った。様々な合従連合がなされた。630年頃の歴史地図を眺めれば、それは当然のことで、今も昔も基本は変わらない。

百済くだらやまとと敵対したときもあったが、第31代の義慈はやまとと同盟を結び、その血を継ぐ子、男子6人のうち2人を同盟のあかしやまとに滞在させる。人質である。しかし、自分が最後の百済王になるとは思わなかったろう。660年 ――― 百済は唐新羅連合軍に進攻されて滅ぶ。同盟の証として倭にいて生き残った義慈の血を継ぐ一人を御旗に百済復興が叫ばれ、倭百済連合軍が組織され、4万人を越える兵士と約800隻の船が日本から派遣される。しかし、663年、白村江はくすきのえの戦いで、倭百済連合軍は唐新羅軍に大敗北し、東アジア勢力図は大きく変わると同時に安定した。

日本にいて生き残った、最後の百済王・義慈の血を継ぐ、もう一人の男子、禅広(善光)が百済くだら王家の血を伝える始祖となった。禅広(善光)の子の昌成も父と共に日本にいた。昌成の息子、朗虞ろうぐ摂津亮せっつのすけになる。その第三子が敬福で、738年に41歳で陸奥介むつのすけ、743年に46歳で陸奥守むつのかみとなった。この敬福が陸奥守に再任された後、749年、聖武天皇に金産出を報告、金900両(約13キログラム)を献上したのである。

朝廷に使える高官達は競って祝いを述べた。大伴家持おおとものやかもち(718~785年)は長歌「賀陸奥国出金詔書歌」を詠み、自分が編集者である「万葉集」に収録した。その長歌に「海行かば ………」の一節があった。朝鮮半島の「百済」の王の子孫の功績を讃える長歌の一節の曲「海行かば」で日本の多くの若者が振り回され、消えた。なんとも皮肉な話である。

フリー百科事典「ウィキペディア」(Wikipedia)には、「当時の大日本帝国政府が国民精神総動員強調週間を制定した際のテーマ曲。信時潔のぶとききよし(1887〜1965)がNHKの嘱託を受けて1937年(昭和12年)に作曲した」とした上で、採択された「賀陸奥国出金詔書歌」歌詞の部分は万葉集と続日本紀とで異なること、曲の使われ方から「軍歌か鎮魂歌」といったことにスペースが割かれているが、そんなことはどうでもよく思えた。

(2009年 晩秋)