平野富二(中央)
一八五三年のペリー来航から二十年後の一八七三年(明治六年)平野富二1が築地に長崎新塾出張活版製造所を下谷から移転拡張し、開業した。このときから日本の活版印刷は事業としてスタートした。
それをさかのぼる二十年あまりの間、金属製鋳造活字による活版印刷技術を開発するために多くの人々が競い合い、ある人は成果を生み出しながら消え去っていった。ここではこの時代背景と先人の努力をたどり、その成否についても考えてみたい。