凸版印刷45年を振り返って(1/8)PDF
河野通
まえがき
私は1953年京都大学工学部工業化学科古川淳二教授の講座を卒業して凸版印刷会社の当時の大阪支社に入社した。学制が変わり旧制と新制の二つの学年が同時に卒業した。朝鮮動乱が休戦になり、特需景気が去り、不景気のどん底の時期だった。大学では旧制の卒業生は就職の面倒をみるが新制までは手が回らない。自分で就職口を探せと言われたことも、今では昔日の思いがする。
同時に入社したのは、岩田 裕、磯島一嘉、山矢 良、若園和昭、真多 博、木佐一哲郎、小寺 勝、油谷省三、北野利春、松村清助、大前 某、藤田 某の13名で、技術は6名、他は文系であった。京都大学4名、大阪大学2名、神戸経済大1名他と多彩な顔ぶれであった。2名が往職中に亡くなり、2名が途中退社している。ちなみに東京では藤田弘道、別所敬衷、木下伸二、川瀬一雄、小倉秀文などの諸氏が同期である。
入っていきなり作業課、今の生産管理に配属された。しかも書記補と言う事務職の辞令をうけた。これにははなはだ自尊心を傷つけられた。なんと私が技術の仕事をすることになるのは、それから39年後、本社に赴任してからのことであった。しかし、1953年の入社以来1996年に専務取締役を最後に退任するまで、主に関西地区、最後は本社の技術担当として凸版印刷の発展と共に仕事を行い、沢山の経験を積み、成果も上げることが出来て幸せであった。
古来「歴史に学べ」とか「歴史はくりかえす」とか「温故知新」といわれる。今戦後の混乱のなかから我々が作り上げてきたのとは異なるが、新しい革新の時代が目前にある。グーテンベルグ以来500年、今印刷を含め情報メディアがコペルニクス的転回をしている。我々はそのまっただ中にいる。この誰も経験したことのない世界を生き技くにはきっと戦後の革新期を乗り越えた知恵、考え方、物事に取り組む姿勢、構想力といったことが、形を変えて役に立つと私は確信する。
凸版印刷が戦後50年一貫して業績を上げ続けてこられたのは、我々のシステムが世間より少しでも先駆的で、優れていたせいだと最近つくづく思うようになった。
その意味で45年の間、その時その時にどう考えて行動したのか、なぜそういう事になったのか。現場に居た者の立場から見た歴史とでもいうものを記録しておきたいと、退任が決まった頃から書き始めたのが本稿である。出来るだけ正確を期したつもりであるが、思い違い、記憶違いもあろうと思うし、考え方の相違も多いと思う。関係者のご指摘を得られれば幸いである。
編成は担当者時代、課長工場長など中間管理職時代、事業部長本社役員など経営者の時代、最後に自分の思いといった形でまとめた。
尚、長い会社生活の間、いろいろ指導、励まし、援助、協力していただいた先輩、同僚、部下、得意先、取引先などご縁のあったすべての方々に感謝し、最後に私を仕事一途に専念させてくれた妻孝子に最大の感謝を捧げたい。