ぼちぼちいこか 「莫大海」の小吸物 PDF
伴 勇貴 2007年08月
四谷三丁目にある「木挽町大野」
近所に面白いところがある。多分、知らないと思うから紹介する。もう20年ぐらいの付き合いになる知人に四谷三丁目にある近い店に連れて行かれた「木挽町大野」」という「茶懐石料理」の店である。数年前である。
地図が送られてきた。見れば、会社のすぐ側で、よく歩いているところである。しかし、どうしても、そこに「茶懐石料理」の店があるとは思えなかった。心配になって、昼間、ちょっと下見に行った。
しかし、見つからなかった。地図の「新宿通り」にぶつかる、「杉大門通り」と、「新宿通り」に平行な横丁を往復した。この横丁を「杉大門通り」側から見たのが次の写真である。店は見当たらなかった。
諦めて戻り、夕方、指定の時間に再び出掛けた。昼間、仕舞屋と思ったところに「木挽町大野」があった。昼間の写真の撮影ポイント、軽自動車の手前、右側にあった。
格子戸の奥に「大野」の文字がぼんやり浮かび上がって見えた。格子戸を開けたら、石敷には打ち水がされていた。手水鉢が用意され、ランタナの小木が白い可憐な花を咲かせ、その下で小さな置物の蛙が身構えている別世界だった。
半信半疑で玄関を開け、声をかけた。若い板前が現れた。「大野ですか?」と確認し、自分の名前を告げたところ、「お待ちしておりました」という。間違いなかった。
この板前が主人だった。祖母が銀座木挽町で開店。そこで生まれ、そこで育ち、子供の頃からいろいろな料理を食べて育ち、その道を追求したくなって料理人になり、2002年に四谷三丁目に移って新装開店したのだという。
木挽町という町は、今は存在しない。「三十間堀川」の埋め立てで銀座と地続きになり、昭和26年(1951年)に町名は銀座東と改称され、さらに昭和44年(1969年)には銀座に併合されたからだ。主人が生まれた時には、すでになくなっていたと思うのだが、主人は木挽町の名前にこだわっている。
政官財界人の応接間となる
歴史を振り返ると、主人が木挽町の名前こだわるのも分かる。木挽とは材木を大鋸で引いて板や角材などを作る職人のことで、徳川幕府が江戸城造営のため、この木挽を集め、「三十間堀川」を境とする「川向こう」に住まわせた。この木挽が集められて住んだのが木挽町の由来である。
「川向こう」には、風紀上、好ましくないと立地を制限された遊郭や芝居小屋があった。結果、木挽町は、芝居小屋、料理茶屋、遊郭、船宿などが軒を連ねる江戸中心にもっとも近い繁華街として発展した。「木挽町に行く」とは「芝居に行く」ことだった。
質素倹約、綱紀粛正による幕府財政の再興を掲げる「天保の改革」(天保12~14年:1841~1843年)で、改革の象徴のように歌舞伎は弾圧され、木挽町にあった芝居小屋は郊外の浅草に強制的に移転され、役者や作家は処罰された。
しかし、200年あまり続いた木挽町の繁華街の伝統は簡単には消えなかった。「手天保の改革」の甲斐なく幕府は混乱し、「幕末期」に突入する中で、木挽町は、後に明治政府樹立の中核となる薩摩(鹿児島)、長州(山口)、土佐(高知)、肥前(佐賀)―――いわゆる「薩長土肥」」の志士たちが盛んに出入りする所となった。
無粋と見られていた「薩長土肥」の志士たちを快く受け入れためだろう。これが明治以降の木挽町一帯の発展のきっかけになる。隣接する築地(築地四丁目)が海軍拠点となったのも発展の追い風となった。
築地の広大な諸大名屋敷跡には明治2年(1869年)に海軍操練所が創設される。それが明治3年(1870年)に海軍兵学寮、明治9年(1876年)に海軍兵学校となる。そして明治21年(1888年)に海軍兵学校が広島県江田島に移転すると、その跡には同年、海軍士官の最高教育機関、海軍大学校が創設され、海軍拠点としての築地の地位は不動となる。西欧式建築物の海軍兵学寮や海軍大学校は東京の新名所となった。
「三十間堀川」と「築地川」で区切られた木挽町は、国会議事堂や中央官庁に近く、隣接する築地は海軍拠点という地の利を享受する。明治22年(1889年)には、50年ぶりに歌舞伎座が木挽町(三丁目)に戻った。明治政府要人になった、かつての志士たちだけでなく、彼らをもてなす財界人が木挽町の料理茶屋を利用した。木挽町の料理茶屋は政官財界人の応接間となった。
大正12年(1923年)の関東大震災による火災で東京市15区の半分近くが焼失した。なかでも木挽町、築地を含む京橋区は、神田区、日本橋区、浅草区、本所区、深川区と並んでほぼ全焼したが、木挽町の復興は非常に速かった。
2年後の大正14年(1925年)には、木挽町(六丁目)に新橋芸者の技芸向上の披露の場として新橋演舞場が完成、第1回「東をどり」が柿落しに開演された。関東大震災の復興事業でも木挽町は大きく姿を変えた。大正12年(1923年)に着工し、大正から昭和に変わった昭和5年(1930年)に木挽町の中心を貫く形で開通した幹線道路「昭和通り」により様変わりした。
さらに第二次大戦後も、銀座との境界になっていた「三十間堀川」の埋め立てで大きく変わった。銀座と木挽町は地続きとなり、昭和26年(1951年)には町名も「銀座東」となり、木挽町の名前は消えた。昭和44年(1969年)には、すべて併合されてすべて「銀座」になり、「銀座東」の町名も消えた。
子供の頃、近くに親類が住んでいた関係で、この界隈にチンチン電車でよく来た。現在よりもはるかに賑やかで、行くのが楽しみだった。三原橋の上から「三十間堀川」を行き交う「達磨船」を飽きずに眺めた。懐かしい思い出である。
「木挽町大野」の茶懐石料理
木挽町の歴史を知ると、木挽町の料亭生まれの主人が、四谷三丁目に居ながら木挽町の名前を付け、1日1組の完全予約制で「茶懐石料理」を楽しんでもらおうとする気持ちも分からなくはない。
そうは言っても、僕自身はそもそも「茶懐石料理」と、いわゆる「懐石料理」とは、いったいどう違うのか、分からない。「懐石料理」も良く分からない。それで料理を楽しみながら主人に聞いた。1日1組の完全予約制なので気楽である。いろいろ教えてくれた。
しかし、訊き始めたら話に夢中になってしまい料理どころではなりかねない雰囲気であった。話はほどほどにとどめ、これを機会に改めて自分でも「懐石」について少し調べてみようと思った。
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○茶の湯で茶の前に出す簡単な料理。茶懐石。(岩波国語辞典)
○(禅院で温石を懐中して空腹をしのいだことから、一時の空腹しのぎ程度の軽い料理の意。)茶席で、茶の前に出す簡単な食事。茶懐石。(三省堂「大辞林」)
○茶事の中での食事の意味である。茶事のことを昔は「会」といったので、その食事の場は「会席」と呼ばれた。江戸中期頃、禅語の「薬石」にちなみ、石を懐に抱いて飢えをしのぐという意味から「懐石」の字をあてるようになった。本来、懐石はお茶をいただくための腹ごしらえで、酒宴ではなく、亭主の心尽くしの食事である。懐石の基本形は一汁二菜で、一汁三菜を限度としている。今日では、通常吸物・八寸が付属する。(知恵蔵)
○茶懐石。茶事の際に供する料理。禅僧が修行中に温石(あたためた石)を懐中にして空腹をしのいだことにちなむ名。本来はその程度の簡素な軽い食事をいい、茶道では献立、食作法、食器などに一定のきまりが定められている。しかし茶事に関係なく料理店でも供され、品数も増し趣向もこらされるようになった。一汁三菜(汁、向付、椀盛り、焼物)に箸洗い(小吸物)、八寸(簡単な酒肴)程度が基準。(マイペディア)
「懐石」とは、茶事の中での食事で、「茶懐石」のことであった。いつの間にか、汁、煮物、焼物など多くの種類の料理を少しずつ出す「日本料理」としか思わなくなっていた。茶事の中での食事ではなく、酒宴の席での食事になっていたことを悟った。「茶懐石」ということで、改めて「懐石」の意味を問い直し、数十年前に初めて口にした時の感激を思い出した。
ちなみに「木挽町大野」に僕が初めて行った時は、下の献立だった。右端には、顧客各人の名前が書かれていた。すべて手書きだった。
「汁」は「むかご」(山芋の葉の付け根にできる養分を蓄えて球状になった芽)だ。秋を感じさせる初物で、その臭いに郷愁を覚えた。
膳の向こう側に置く「向付」は「大間マグロ」のタタキだ。香ばしいミョウガのシャキッとした歯ごたえと蕩けるマグロとの絶妙なバランスだった。
「煮物椀」(椀盛り)は沢煮椀だ。豚の背脂を使いながらも塩味であっさりと仕上げるという沢煮椀の特色がよく出ていた。モロヘイヤと椎茸が入っており、身体にも良さそうだった。
「焼物」はカマス。白身のさっぱりした魚で、普通は塩焼きで、その照焼は珍しかった。好奇心も味覚も満たしてくれた。
酒を進めるために加えて出す肴、「強肴」(進肴)は4品。カツオの内臓の塩辛、「酒盗」は、その名前の通り、飲兵衛にはたまらない。伝統的な冬瓜の煮物、それと最近人気の坊ちゃんカボチャの煮物。そして穴子とキュウリの酢の物。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感が総動員され、気が付いたら酒を追加注文していた。
そして箸を洗うという意味で「箸洗い」と言われる薄味の小さな椀で出される吸物、「小吸物」には「莫大海」が出た。久しぶりである。若い頃に初めて「莫大海」を口にした時の記憶が蘇ってきた。
「小吸物」に続く、8寸(1寸=約3センチ)角の器に2、3品の酒の山のモノと海のモノの肴を盛る「八寸」は、オクラと「からすみ」だ。ボラやサワラの卵巣の塩漬けに圧力を加えて絞り、そして乾燥させた「からすみ」――― その形状が中国製の墨「唐墨」に似ていることから「からすみ」(鱲子)と言われる ――― は飲兵衛にはやはり堪えられない珍味である。その深い鼈甲色、琥珀色と身体に良いとされるオクラの鮮やかな緑色が目も楽しませてくれた。
そして最後は「香の物」と蕎麦屋で「蕎麦湯」を入れるのに使われているのを良く目にする木製の注ぎ口と柄のある容器、「湯桶」(湯筒、湯斗)に入った薄味の「湯の子」(お焦げ)だった。お焦げに湯をかけて流し込んで食事は終わる。
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これらは「懐石」の「定番」であって、あまり驚かない。「木挽町大野」では、この「懐石」の後、2階にある茶室で薄茶のもてなしを受けた。四谷三丁目の横丁の仕舞屋の中に、四谷三丁目にいることをまったく忘れさせる、調度と静寂と香りの立派な茶室があった。そこで先ほどまで板前姿だった主人が着替えて薄茶をもてなしてくれたことには驚かされた。
なお、先ほどの献立はいくら何でも「簡素な軽い食事」とは言い難い。以来、何回も利用しているが、主人に頼んで軽いものにしてもらっている。
例えば、下のような献立だ。それでも僕には十分である。事前に主人と話し合って献立を決める。考えると、これは最高の贅沢かもしれない。
「莫大海」を水で戻す
ところで「小吸物」に出た「莫大海」―――「中国の柏樹の果実。水にもどして海綿状になった果肉をすくいとって、刺身のあしらいなどにする。」(三省堂「大辞林」第三版)とあったが、自分の目で果実が水に戻すと海面状になるということを確認したくなった。「木挽町大野」に行った時、主人に頼んで一粒もらった。
「中国の柏樹」という説明から、落葉広葉樹の「柏」の仲間で、その「果実」は「団栗」のように表面は硬くて光沢があるものと思った。ところが、渡された「莫大海」は表面が皺だらけの実だった。落葉広葉樹の「柏」と同じ仲間の樹の実とは思えなかったが、ともかく水で戻してみた。すると左写真の通り、3、4日したら見事に海面状になり、感激した。
さらに深く「莫大海」を知りたくなった。ネット上の東京ガス「食の生活110番」には次のようにあった。
Q 懐石料理の献立に「莫大海」と書いてありました。はじめて目にしますが、どういうものなのでしょうか。
A 莫大海とは中国四川省に産するアオギリ科の植物の実のことで、中国ではのどや便秘の薬として用いられています。日本では乾燥した実を輸入しており、薬膳や懐石料理などの特殊な料理に用いられています。
乾燥した実は梅干しの種にヒダをつけたような形をしており、表面はこげ茶色の薄い皮に包まれています。料理に使う時にはこの実を水、またはぬるま湯で1時間くらいもどします。水を含んでくるにつれ果肉が大きく膨らみ、皮がこわれて中から薄茶色をした半透明のゼリーのような果肉が現れてきます。元の大きさの数倍に膨らみ莫大な海のような大きさになる、というたとえから、「莫大海」または「莫大」と呼ばれています。
食べられるのは皮と種を除いたゼリー状の部分で、水気を絞ってそのまま使います。味に特徴はなく、香りもほとんどありませんが、シャリシャリとした食感と珍しさが好まれているようです。
冷やして醤油をおとしてそのまま食べられますが、多くの場合、刺身のツマとして添えたり、酢の物、寒天寄せなどに使われます。
販売されているのは、珍味屋や懐石料理専門の食材店です。
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僕の「莫大海」に関する体験・実感は、この東京ガス「食の生活110番」の説明の通りだった。三省堂「大辞林」の「中国の柏樹の果実」という「莫大海」の説明は不十分というか、誤解を招くと思った。高校時代、漢文の授業で、中国で「柏樹」と呼ばれるものは日本の落葉広葉樹の「柏」とは違う、常緑針葉樹だと教わったことを思い出した。
直ちに中国、台湾のインターネットサイトに入って「柏樹」という言葉を調べた。確かに「柏樹」は常緑針葉樹、日本でいうヒノキ科の「糸杉」(cypress)という説明だった。茨城大学の真柳研究室にも「柏(ハク)とカシワにみる中日文化」(長岡美佐) という興味深い関連論文が収録されていた。
日本人は独自に日本語(やまと言葉)という意志伝達の手段を作り上げはしたが、同時に独自の文字を獲得することはできなかった。そして、中国の文字(漢字)を輸入し、日本の言葉をあて、日本の文化に取り込んでいった。この過程において、もちろん日本人は当時の中国語を理解しようとつとめ、研究し、適当とおもわれる日本語を漢字にあてていったはずである。しかしながら、それらは必ずしも適当ではなかったであろうし、また、適当であってもそれが正確に、変わらずに大衆に受け入れられたかどうかとなると、そうは言いきれない。………… ここで取り上げる「柏」と「カシハ」にも、そういった中日間の相異がある。中国でいう「柏」と、日本でいう「柏(カシハ)」とは、指している植物が全く異なるのである。簡単に言えば、中国の「柏」は常緑樹であるのに対し、日本の「柏(カシハ)」は落葉樹である。しかしながら現在、日本で「柏」と言えば落葉樹の「カシハ」のことであるとして広く認識されている。では、この違いはなぜ、どうして起こってしまったのか。全く別の樹木を指すはずの「柏」字が、日本語の「カシハ」とどうして結びついてしまったのか。本稿はこれらの疑問に、中国・日本両国における「柏」および「カシハ」の用途とその持つイメージを明らかにすることで、一つの答えを提示してみようと試みるものである。
「莫大海」は中国では「胖大海」という
一読されたい。ところで、「莫大海」の実をつける樹木として名前が上げられている落葉広葉樹の「アオギリ」だが、調べてみたら厄介な樹木だった。
◉「アオギリ科の落葉高木。樹皮は緑色。葉は大きく掌状で、先が3 ~ 5裂し、葉柄は長い。夏、薄黄色の小花が咲き、果実は成熟前に裂開して舟状になり、縁に球状の種子をつける。材を家具・楽器などにする。漢名、梧桐。」(三省堂「大辞林」)
◉「アオギリ科の落葉高木。東南アジアの山地に自生し、日本の暖地に野生化している。葉は互生し、大形で長い柄があり、浅く3 ~ 5裂し、基部は心臓形で鋸歯はない。6 ~ 7月枝先に大形の円錐花序を出し、雄花と雌花をまじえ淡黄色の小さい花が多数開く。萼片 5個。花弁はない。果実は舟形にさけ、心皮の縁辺に1 ~ 5個の種子をつけ10月に熟す。庭木、街路樹にする。」(マイペディア)
◉「青桐・梧桐 … アオギリ科の落葉高木。高さ10 ~ 15メートルになり、小枝は太く、樹皮は滑らかで緑色である。葉がキリに似ていて、樹皮が鮮緑色なので青桐の名がある。葉は大きく、長い柄があって互生し、扁円形で長さ15 ~ 30センチ、掌状に浅く3ないし5裂し、上部の3裂片は大きく、縁に鋸歯がない。葉の裏に軟細毛を密生する。6、7月ころ枝先に長さ30 ~ 50センチの大きな円錐花序を出し、淡黄褐色の雄花と雌花が多数混生して開く。……… 果実は放射状に開出した5個の分果になり、袋果状で成熟前の9月には開裂して舟形となり、縁に球形で皺のある種子を数個つけ、10月に熟す。沖縄、台湾、中国大陸、インドシナに分布する。……… 陽樹で適湿地を好むが、乾燥地にも強く、潮水、潮風、大気汚染にも耐え、強い剪定にも耐える。街路樹、公園、学校の庭などに広く植えられている。……… 材は柔らかく建具や家具、パルプなどに用いられ、樹皮の繊維は水に強く、縄や布むしろなどに利用される。種子は炒って食べられ、室町時代には菓子にしていた。〈小林義雄〉 ……… また『桐一葉落ちて天下の秋を知る』は、元来中国の梧桐をさす。中国では古くから食用、薬用にされ、6世紀の『斉民要術』には栽培法が述べられているほか、炒った種子は実に美味でヒシに似た味と記されている。〈湯浅 浩史〉」(小学館「日本大百科全書」)
これらの説明はアオギリ科アオギリ属(学名Firmiana)のアオギリ、つまり僕たちが普通に目にするアオギリに関するものである。こうした説明だけからは「莫大海」の実る樹木はなかなか連想しがたい。ところが調べたらアオギリ科には「莫大海」も顔負けの珍しい「実」をつける珍しい樹木がアオギリ科にはあった。驚きの連続だった。
カカオ(アオギリ科カカオ属:学名Theobroma)
中南米原産。樹高4 ~ 10メートル。幹や太い枝に花は直接房状について一年中、開花、結実する。果実は長さ約30センチの紡錘形。内部に20 ~ 30個の種子を持つ。種子を水につけ、発酵後に乾燥すると赤みを帯び、特有の芳香が出る。これがカカオ豆で、圧搾するとカカオバターがとれ、搾りかすがココアとなる。主産地はガーナ、南アメリカ、西インド諸島。
コーラの木(アオギリ科コーラ属:学名Cola)
アフリカ原産。樹高約20メートル。黄白色で真ん中が赤紫色の花を咲かせ、10センチほどの楕円形の果実をつけ、その中の種子には大量のカフェインが含まれ、コーラの原料とされる。この抽出液に甘味料、酸味料、香料などを加え、二酸化炭素ガスを吹き込んだのが、いわゆるコカ・コーラである。
ピンポンの木(アオギリ科ピンポンノキ属:学名Sterculia)
中国原産。台湾からインドシナ、インドで栽培。樹高15メートル。竹細工のような色は白やピンクの花をつける。大きな楕円形の葉が互生。赤褐色の果実で、内部に1 ~ 5の茶色の種子を持つ。種子はフェニックスの目と呼ばれ、食用とされ、美味である。中国名「頻姿(ピンポー)」で、そこからping-pong treeという。卓球とは無関係。
「莫大海」は、このアオギリ科ピンポン属の樹木の実であった。いくら「莫大海」で中国や台湾のサイトを検索しても分からなかったが、学名「Sterculiae Lychnopherae」で検索したら、いろいろ情報が得られた。中国語のページもあった。「莫大海」ではなく、中国では「胖大海」と言うようだった。
「胖大海」という中国名が分かったら、一気に情報量が増えた。「胖大海」の名前で漢方薬として日本でも盛んに販売されていた。「大海」「安南子」「大洞果」の名前でも販売されていた。
喉の痛み。喉や声の枯れ。便秘に利くという。沸騰した熱い湯で種子を膨らませ、茶のように飲む。症状が強い場合には1杯当たり2、3個。1杯1粒を毎日、お茶のように飲むのも良いという。値段は100グラム約1000円で、それほど高くはない。さらに中国・台湾では「胖大海」の入った茶やジュースも現れている。
なんだか一時期ブームになった「ナタデココ」のようなものに思えてきた。期待していたものが大きかっただけに、ここまで調べたところで急に疲れを覚えた。
(2007年夏)