ぼちぼちいこか  皇居東御苑 年寄り笑うな行く道だ PDF

伴 勇貴 2007年07月  

4時半になると、東京湾から上る太陽の朝日が強烈に部屋の奥まで差し込んでくる季節になった。高台のマンションの28階の東部屋なので遮光カーテンがなければ有無を言わさず起こされる。眩しいのに加えて、かなり暑くなる。

目が覚めたらカーテンを開け、それからガラス戸を開け、ベランダに出て朝日を浴びながら思いっきり深呼吸するのが1日の初めである。都心でも空気が淀んでいないので、朝はとくにすがすがしい。筑波山が遠くに大きく見える。天気が良ければ房総の木更津あたりの石油タンク群も見える。

数日ぶりに気持ちよく晴れたので、突然、皇居東御苑に行こうと決めた。数日間、ちょっと歩きが少なく、それを取り返そうとも思ったからだ。

皇居は広い。都心の真ん中にこんなに緑濃い地域があるのかと改めて驚かされる。だいたい5キロメート×5キロメートル(2466万平方メートル)の広さがある。グーグル・アース(Google Earth)の衛星写真を見ると一目瞭然である。「東御苑」は写真の矢印が指す約21万平方メートの堀に囲まれた右上の部分で、午前9時から午後4時半まで一般に無料で開放されている。休苑日は、原則、月曜日と金曜日。

昔、ここには「天守閣」や「本丸」があった。「松の廊下」もあった。この季節の見所は本丸付近より一段下がった低地に造られた「二の丸庭園」、その入口付近の雑木林それとさらに下がったところにある池の周りの花菖蒲である。

20年近く行っていなかったが、ちょうど1週間ほど前、ニュースで「東御苑」の花菖蒲が見どころと聞いて行ってみようかと考えていた。

平日の朝、九段下まで都バスに乗り、そこから歩いて「平川門」から「一番乗り」で入った。そして苑内を隅から隅まで歩き回った。

「東御苑」への入口は3つの門であり、その一つが「平川門」である。これは太田道灌(1423~1486年)の頃からあり、当時、門前は平川村と呼ばれる一帯で、そこから付いた名前だと言う。この門は江戸城のうしとら丑寅うしとら:北東)の方向、つまり陰陽道で鬼が出入りすると信じられている鬼門の方向に当たり、城内の罪人や死人を出すのに使われたため、「不浄門」とも呼ばれていたという。

本来なら、こんないわれのある門からは入りたくはないが、あまり団体見学者が使わず混まない上に、いま住んでいるところからの交通の便利が良いので使った。「不浄門」という名前とは裏腹に、大奥女中たち「御三卿ごさんきょう」の登城口でもあったというから、それほど気にすることもないとも思った。

陰陽道 ――― 陰陽五行(いんようごぎょう)説に基づいて自然現象を説明し人間の吉凶を判断するもの。陰陽2つの気の盛衰により万物の生成の変化を説く陰陽説と、万物を支配する元素として水火木金土の5つを考え、その盛衰で宇宙万物の変転を説く五行説とが融合したもので、それによって自然循環、災害、政権交代などが説明された。

御三卿 ――― 田安、一橋、清水の三家。江戸中期、将軍家と御三家(尾張、紀伊、水戸の三家。それぞれ徳川家康の第九子、第十子、第十一子を祖とする。)との関係が疎遠になったため、八代将軍徳川吉宗は自分の二子に御三家に準ずる将軍家と密接な関係を持つ家柄として一家を構えさせ、九代将軍家重もこれにならった。田安家は吉宗の第二子、一橋家は吉宗の第四子、清水家は家重の第二子を祖とする。

江戸城北西にあるのが「北桔橋門きたはねばしもん」である。太田道灌時代は城の正門の橋だったようだが、徳川幕府になってからは、本丸に近い門のため、濠を深く石垣は堅固にし、さらに跳ね上げ橋とし、それを通常は上げていたという。なお、「けつ」(きつ)という字には「堅くしまった実を付ける草木、きつく締まる棒」といった意味があり、「桔槹けっこう」(きっこう:「槹」は高く上がる棒の意味)というと「ねつるべ」を意味する。多分、そこから「桔橋」を「はねばし」と読ませたのだろう。

そして東にあるのが「大手門」である。「大手」とは「城の正面、表口」といった意味で、これは徳川家康が命じて新に造らせた江戸城の正門である。

「平川門」から入り、隅から隅までナップザックを背負い、案内図を片手に歩き回り、11時頃には腹が減ったので木陰のベンチに座って持ってきた梅干し入りの握り飯を食べ、ポットの茶を飲み、一服し、12時前には日差しが強く暑くなったので、この正門の「大手門」から出て帰路に着いた。約1万6000歩の散歩だった。

昭和天皇の発意で武蔵野の面影を再現させるために昭和57年(1982年)から数年かけ、表土ごと移植する表土移植工法によって作られたという雑木林は見事に完成していた。昔に見たときには、まだなんとなく人工的な雰囲気が漂っていたが、歳月を経て様々な樹木と下草との自然の調和を感じさせるようになっていた。野草も生い茂り、まったく都心にいることを忘れさせてくれた。こんな中を駆け回って遊んでいた子供の頃を思い出した。

それに比べると、非常に有名になった花菖蒲の方は確かに綺麗なことは綺麗だが、ありふれ、やや物足りなさを覚えた。何よりも人で溢れていたのには参った。まばらだった人がだんだん増え、花菖蒲の周りには人の群ができていた。

狭い道を占拠する人々 ――― 狭い道に高価なデジタル一眼レフを3脚で据えて断固として動こうとしない60、70歳代の何人もの男性。大声で綺麗だと叫びながら狭い道で先を争って携帯電話のカメラやコンパクトデジカメで写真を撮りまくる60、70歳代の女性集団。これらにはさすがに閉口した。

やり過ごせばゆっくり鑑賞できるかと思って振り返ったが、同じようなタイプが次々とやってくるのが見えた。

もう早々に、この場から逃げ出すしかなかった。改めて僕よりもやや年配の老人パワーというか、その傍若無人さに圧倒されて花菖蒲を観賞するどころではなかった。

化野あだしの念仏寺

「子供じゃないだろう!」と注意するのも、文句を言うのも堪えたものの、不快感は残り、引きずっていた。しかし、戻り道、再び雑木林の中を歩み始めたら、だんだん気分が治まってきた。

そして突然、「子供しかるな来た道だ。年寄り笑うな行く道だ。」という言葉が浮かんできた。同調する面がある言葉だが、現実はそうでもない。

目に余る行動などに直面すれば幼い子供でも叱るし注意するし、親が一緒であれば、その親を叱り注意する。若者も中年の大人に対しても言わずもがなである。うっかりすると逆ギレされて何をされるか分からないと自覚しているのに、ほとんど反射的にやってしまう。ところが、僕より年上の正真正銘の老人になると、途端に対応に躊躇してしまう。叱ることも注意することもできず、怒ることもできず、嘲笑することもできず、ただ不快感を覚えながら悲しくなってしまう。それでいて、結構、それが残って尾を引いて、やり場がないものだから困ってしまう。

しかし、雑木林の中の小道を歩いていたら、それでも良いんじゃないかという気分に襲われた。

本当にいろいろな樹木や野草が好き勝手にゴチャゴチャに育っていた。漢方薬などには使われるものの独特の強いに匂いがあって庭には嫌われるドクダミ、無毒なのに響きの悪い呼び名を持つドクイチゴ(毒苺)とかヘビイチゴ(蛇苺)、それらと可憐なツユクサ(露草)やアカマンマ(赤飯:イヌタデ 犬蓼)などが一緒に育っている。僕の好物のミョウガ(茗荷)も灌木の横で頑張っている。

それでいて全体として調和の取れた心和む雰囲気が醸し出されていた。手入れが行き届き見事な花を咲かせている花菖蒲の庭園とは対照的だった。

素直に「子供しかるな来た道だ。年寄り笑うな行く道だ。」という言葉が心にしみ込んできた。

もう5年以上も前になると思う。京都の嵯峨野界隈をゆっくり散策した。すっかりお上りさん気分で、有名な竹林から化野あだしの念仏寺、そして観光客向けの洒落た店にも足を運んだ。嵐山では修学旅行気分で土産屋をひやかした。天竜寺や気に入っている大河内山荘にもきちんと行った。その時に手にした化野あだしの念仏寺に置いてあった1枚の紙に、この言葉が書かれていた。

その時は、「俗世間 つもりちがい十ヶ条」が面白いと思ってもらったのだが、改めて身の回りの山積みを整理している中で、この紙を見つけた時には、むしろ、この「子供しかるな来た道だ。年寄り笑うな行く道だ」の言葉の方が心に引っ掛かった。

どこかで読んだことがあることを思い出した。気になると、その気持ちを抑えることができない性分である。書棚の心当たりの本を探しまくり、ついに岩波新書の永六輔著「大往生」だったことを探り当てた。

1994年発行の本。その36頁にあった。

 

子供叱るな来た道だもの

年寄り笑うな行く道だもの。

来た道行く道二人旅

これから通る今日の道

通り直しのできぬ道。

 

これが全文らしい。愛知県犬山の寺の門前にあった掲示板から写したもので、妙好人みょうこうにんの言葉として有名だと書かれていた。妙好人みょうこうにんとは「優れた人。とくに浄土真宗の篤信者とくしんしゃ。一般に無名で学問のない人でありながら信心の境地では優れて高いところに達していた人」といった意味である。

 

この本には、この言葉を巡る内輪話が紹介されていた。

 

これを黒柳徹子さんに読ませたら ・・・・・

「アラ、年寄りは笑わなきゃいけないのよ。笑う年寄りの方が長生きして呆けないんですって ・・・・・」

そしてもう一回読み直して、

「ごめんなさい。そうよね、年寄りを笑っちゃいけないわね」

円満解決。

とあった。

 

                            (2007年夏 完)