ぼちぼちいこか 過信の反省 続けて転倒 PDF
伴 勇貴 2007年04月
お絞りで出血を抑えながら飲酒
昨年末、立て続けに2回も転倒し、最初は高価な乱視矯正を入れた遠近両用眼鏡を壊し、打撲による内出血で左目周辺を真っ黒にした。2回目には反対の右目の下を切って八針縫い、左手の小指と薬指の根本付近の骨にヒビを入れ、さらに右手首も痛めた。
縫傷はすでに綺麗に治っているが、左手の小指と薬指の痛みはなかなか治らない。パソコンのキーボードを使いローマ字仮名変換で日本語入力していると、どうしてもa、s、d、eなどのキーを頻繁に使う。すると左手の小指と薬指がだんだん痛くなってきてしまう。右手首の痛みは、当初は左の小指と薬指の痛みが強かったのであまり気にならなかったが、最近は、その痛みが気になる。
こんな羽目に陥ったのは、一口で言えば「加齢」だろう。しかし、その対応策をいい加減にしてきたことは否めない。「ステッパー」に続いて「乗馬」も購入し、トレーニングを欠かさなかったつもりである。しかし、基本的に座っている時間が長く、移動にはついつい車を使ってしまう。そして足が弱くなったのがおおもとの原因だった。
もっとも発端は違う。1回目は、友人を小一時間、近所の居酒屋で待たせてしまったことだ。出ようとしたところ立て続けに何本も電話が入り、その対応に追われた。気が付いたら約束の時間が大幅に過ぎていた。急いで自宅マンションを飛び出し、商店街を走った。その時、いきなり乗用車が左の道から飛び出してきた。とっさにそれを避けたのは良かったが、僕も勢いが付いていて直ぐには止まれない。夕方の商店街通りの両側は違法駐車の自転車で溢れ狭くなっている。避けるスペースは少し前の右側のコンビニの入口だけだった。で、そこに斜め横飛びに駆け込んだ。
写真で、僕は右奥に見える高層マンションから飛び出し、手前に向かって進行方向の左側を走った。自動車は、右側の「炭火焼肉とある黄色の看板の横道から一時停止もしないで急に右折してきた。衝突を避けようとして、僕が横飛びに駆け込んだのは、左側の「長寿庵という赤い看板の少し奥の場所である。
横飛びに駆け込みながら、まだ反射神経はそんなに衰えてはいないなどと少し得意になった瞬時、段差解消のためにコンビニ入口に敷かれた鋼板がたまたま濡れていて、滑っつた。勢いで前のめりに数歩進みながら、その先に並んでいた自転車に激突したら大変だと、本能的にそれらの狭い隙間に滑り込むように体の姿勢を変え、左側を下にして倒れ込んだ。それで左手を痛め、左顔面を殴打し擦りむいた。眼鏡も壊した。しかし、他人の器物を損壊することもなく、僕も直ぐに立ち上がったので、事件にはならなかった。急に飛び出してきた乗用車の姿も消えていた。
しかし、立ち上がって、左顔面に触ったら手に血が付いた。でも、たいした痛みはなかった。左手の痛みもたいしたことはなかった。眼鏡は完全に壊れて修理できない状況だったので、コンビニのゴミ箱に捨て、手で左顔面を覆いながら、ともかく友人が待っている居酒屋に急いだ。そこから歩いて二分も掛からない距離にあるからだ。
居酒屋に着いて、お絞りを何本も貰い、傷口を拭き、たまたま店の主人が持っていた「馬油」を塗ってもらう。そして、さらにお絞りで上から強く圧迫しながら、小一時間待っていた友人に詫びを言い、飲み始めた。「お前、大丈夫か」と彼は心配する。しかし、酒が入ったら痛みも鈍感になり、それよりも彼との利害抜きの気楽な話で盛り上がり、「たいしたことはない。僕も歳になったし、これから気をつけるよ」と言いながら最終的には十一時過ぎまで飲んでしまった。
その間、店の主人が気遣って頻繁に新しいお絞りを持ってきてくれ、血染めになったお絞りを交換した。お陰で、再会を期して友人と別れた頃には、僕の出血は止まっていた。彼は僕のケガの状況を最初は心配していたが、僕が元気そうで大丈夫と言い張るもので、途中からは普段通りやり取りになった。
もちろん、彼も僕の様子が本当に変だったら付き合うはずがない。僕も本当に変だと思ったら、そして僕自身がそのことを自覚していたら、迷わず直ぐに数分で行ける、分野はいろいろだけれども何人もの主治医がいる東京女子医大に行くと彼にも店の主人にも言った。さらに僕が自分自身の状態を認識できず、客観的に見て異状だと感じたら、迷惑を掛けるけれども、迷わずに僕を東京女子医大に問答無用で運び込んで欲しいとも付け加えた。
医療データはすべてデジタル化されて保存
と言うのは、僕の過去約20年間の各種医療検査結果は、東京女子大にデジタルデータとして保存されている。だから緊急事態に陥った場合には、余分な検査を省略し、どこよりも最短時間で、最適な処置をしてくれるだろうと信じているからだ。
一例が下図である。これは僕の血糖値管理の指標となっている「HbA1」(ヘモグロビンエーワン)と、「HbA1C」(ヘモグロビンエーワンシー)の1990年10月以来の毎月の値の推移である。
ブドウ糖が血中のヘモグロビン(脊椎動物の赤血球の赤い色素。酸素を運ぶ機能を持つ。Hemoglobin、Hbと略記)にと結合したもので、過去約2ヶ月間の血糖値の状況を反映している。これを4.3%~5.8%に維持していれば、まず糖尿病の「合併症」は起こらないとされている。
僕はインシュリンを分泌する膵臓をほとんど摘出したため、生来の自己血糖値の調整機能を喪失し、結果、規則正しい食事、それに対応する1日、3回のインシュリン注射というルールに従う生活を20年あまり続けてきている。
インシュリンそのものが遺伝子工学のお陰で格段に良くなり、注射後、直ちに効果を発揮し、1~2時間で作用しなくなる超即効性とか、約24時間、ほとんど同水準で作用する超遅効性など様々なインシュリンが開発され、それらを組み合わせることで血糖値管理は昔とは比較にならないくらい楽になった。
注射器も、かつては、普通の注射器を使っていたが、今はまったく違う。キャップと一体の直径0.25ミリという極めて細い使い捨て針をインシュリン内蔵の太めの万年筆のようなものの先端に取り付ける。そして「から打ち」し、次いで目盛りに合わせ、針を腹部など差し込み、万年筆のボタンをプッシュするだけで必要量のインシュリンの注入が可能になっている。針を差し込む際には皮膚をアルコール綿で消毒することなどと指示されているが、消毒などせずにシャツの上から適当に打っていても、まったく問題は起こらない。いろいろ無理を続けているが、それでも、お陰で、だいたい5.8%以下に管理できるようになっている。優等生である。
小一時間も待たせた上に、血だらけの当人が、そんなことまでも言って自慢するので、呆れると同時に、待たされたことに対する文句は言いたいし、と言って血だらけなもので心配だし、どうしたら良いのかと迷ったはずの友人も諦め、普段通りにやることになった。
ともかく大丈夫だろうと思ったに違いない。それでも別れ際まで「お前、本当に大丈夫か」と気遣う。大丈夫だから早くタクシーに乗って帰れと言って友人を見送り、自身は徒歩で数分の自宅マンションに戻った。
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身体を過信するのは僕の性癖らしい。若い頃は山歩きで鍛えた。今のテントとは違って夜露を含むと一段と重くなる帆布製テントを含め30キロぐらいを背負い、数日間、3000メートル級の山が連なるアルプス連峰を縦走しても何ともなかった。高校大学時代に関東地方・中部地方の山はほとんど踏破した。運動部所属の同僚などと比べても「足」だけは自信があった。そして酒も強くて自信があった。ところが39歳で、それも酒の飲み過ぎが原因で膵臓をやられて倒れ、約1年間の入院生活を余儀なくされた。
するとガクンと足までもが弱くなった。退院後、体調が安定してからは、まず散歩を行い、水中ウォーキング教室にも通い、さらに自宅ではステッパーや話題の「乗馬」マシンでトレーニングするなどいろいろやったところ、ある程度まで回復した。日常生活には支障がないところまで回復した。
それで、もう還暦も過ぎたし、この1、2年は加齢だから仕方がないと勝手に納得して鍛える努力を怠ったところ、その報いを受けた。一群の女性陣が水中ウォーキング教室を占拠するようになり、だんだん通いにくくなり、それでついには止めてしまったことが、一番、まずかったようだ。夕方になると足がむくむようになったのが前兆だった。心臓には問題はないのだが、重力に逆って足の血液を心臓に戻す「第二の心臓」――― 足の静脈にある血液の逆流防止弁 ――― の機能が、それを支える周囲の足の筋力が弱ったためだ。
それでも大夫だと過信していた。
1回目の事故の背景には、こんな事情があった。しかし、その後でも、①とっさに自動車を避けた反射神経を維持していたこと、②それと被むった打撲や切り傷もたいしたことはなく数日で治ってしまったので、身体は大丈夫だという自信は揺るがなかった。翌日、念のためにマンションに併設するクリニックに行ったが、「もう傷は大丈夫だ、適当に消毒し、気になるならバンドエイドでも張っておけば良い。左手の骨にも異常はない。これから内出血で左目の周囲は真っ黒にパンダのようになるだろうが、1、2週間で自然に消えるから心配はない」と言われた。
確かに左目の周囲は黒くなり始めた。しかし、痛みはない。ただ無様で、外出の際には眼帯した。大勢の人が出席し、そこで一定の役割を果たさなければならないというような公の会議に出席するのは躊躇した。僕が絶対に出席しなければならない、出席しなくても何とかなる、2、3の会議の出席は取りやめた。
しかし、予定済みの少人数の会合は、なかなかそうはいかない。眼帯は鬱陶しいので席に着いたら、事情を話し直ぐに外すという形で参加した。酒も飲み続けていた。左目の周囲もそんなには黒くはならなかった。
そうしたら続けて2回目のケガをやってしまった。1回目のケガは火曜日の夕方にしたのだが、同じ週の金曜日の夕方にまた転倒してケガしてしまった。息子2人が来る日だった。
もらった肉があり、それを使ってすき焼きでもやろうと、マンションに併設するスーパーに材料を買いに行った。ネギ、春菊、焼き豆腐、白滝などと、ワイン、ビールなどを買い、野菜などが入った軽い袋は痛めた左手、ワインやビールなどが入った重い袋は右手に、つっかけサンダルでマンションの地下駐車場に通ずる写真の坂道を下っている時に転んでしまった。
地下1階に郵便受け・宅配ボックスがあり、それをチェックしてから部屋に上がろうと思い、この坂道を下った。そして坂道の最後付近で、写真にも写っている輪っぱ状の滑り止めの窪みにサンダルを引っ掛け、前のめりに転倒してしまった。この坂道は写真からも窺える通り、緩やかな曲面を持っている。このことは十分に承知し、注意していた。しかし、左目に眼帯をしていたため遠近感に問題があった。それが直接の原因だった。
続けての坂道での転倒
反射的に痛めた左手をかばうと同時に、右手にぶら下げたウィスキーやワインの瓶を壊したくないとかばったもので、頭から、それも痛めた左目をかばったもので、反対の右顔面を強く打ってしまった。
もちろん眼鏡は壊れた。眼鏡がないと、郵便受けの鍵の番号も合わせることはできないから、郵便受けをチェックに行っても無意味である。壊れた眼鏡のプラスチックレンズで目の下あたりを切ったらしく、血が大量に滴り落ちるが、痛みはない。どうも1回目とはケガの仕方が違うと思いながらも、幸いにもウィスキーやワインの瓶は割れなかったので、それらを抱えて急いで部屋に戻った。自分の28階の部屋に行くまでの間にも、エレベータの床には血が滴り落ちる。汚してはまずいと、血は買い物の袋の中に落ちるようにして戻った。
鍵を開け、部屋に入って、直ぐに洗面台に向かった。見たら顔は血だらけだった。洗って、傷の状況を見た。かなり切れている。傷口をぬぐっても、すぐに血が吹き出てきて、傷口が分からなくなる。傷口をティッシュで強く押しながら、消毒薬、脱脂綿、ガーゼ、テープやバンドエイドなどを探した。長年の経験から、ほとんどの医療用品や医薬品を持っているからだ。
それがこういう時には役に立つ。血が滴り落ちるのは止めることができた。少しホッとし、血で汚れた床を拭き、血で汚れた服を洗濯機に放り込んでから、買ってきたものを取り出し、すき焼きの用意を始めた。野菜や焼き豆腐や白滝などを切って大皿に盛り、知人に頼んで送ってもらっている米を研いで、炊飯器のスイッチを入れ、鍋を取り出し、必要な食器などと共にテーブルに適当に置いた。
夕食の準備も一段落したので、再び洗面所でケガの様子をチェックしたら、ガーゼもテープも血をいっぱい含み、今にも血が滴り落ちそうになっていた。それで処置をやり直したら、また血が吹き出てきた。
僕は、糖尿病の合併症を避けるために「バイアスピン」を飲んでいる。血栓の発生を予防する薬で、そのためケガなどをすると、血が止まりにくくなっている。何事も一長一短である。「クソ」と叫んで、再度、血を綺麗に拭き取って、手当をやり直した。見苦しいが、ともかく格好はついた。
その直後に息子2人が現れた。僕の様子を見るなり、どうしたのかと詰問した。事情を話し、たいしたことはないから心配するなと言った。それに対して「少しは年齢を考えて注意しろ!」と説教を始める。「分かった。これからは注意する。でも、そんなに心配することはない。自分自身のことは一番分かっている。夕食の準備は出来上がっている。ともかく食って、飲もう。俺も腹ぺこなのだから ……… 」と、詰問を遮り、普通に飲み食いを始めた。
ところが、その最中に、手当をしたところから再び血が滲み出た。大丈夫と僕は言い張ったが、息子たちはどうなっているのか見せろと言う。テープ、ガーゼを取り除いて傷を見たら「これは酷い、直ぐに東京女子医大に行こう。折角、こういうことも考えて、歩いて直ぐに行けるところに住んでいるのだから ……… 」と怒り出した。
今、住んでいるのは、旧フジテレビ本社跡地一帯の再開発で建てられた計4棟のマンションのうちの最も高層の一号棟である。その東側の入口から撮ったのが下写真で、中央の茶色の建物は東京女子医大病院の病棟である。マンション敷地内の緩やかなスロープを上がりきったところが、緊急患者の入口になっている。
しかし、僕は酒が入って強気になり、しかも痛みがないので、「緊急患者で行くのは嫌だ」と言い張った。口論になった。再度、息子たちに手当をやり直してもらい、「アイスノン」で冷やし、文句を言い続ける息子たちを無視し、「明日、一番で東京女子医大に必ず行く。今日は俺はもう寝る」と叫び、部屋に籠もって寝てしまった。
「ああ神様、どうかこれが血でありますように」
翌日、息子たちと一緒に朝一番で東京女子医大に行った。「形成外科」の医者から馬鹿と怒られた。「ともかく、これだけの傷口だと縫うしかない。しかし、だいたい切ってから6時間ぐらいの間に縫わないと、傷口は綺麗にはならない。何故、昨晩、緊急でも良いから来なかったのか」、「縫うけれど、時間が経ちすぎているので、上手く付くか分からない」など散々驚かされた。
部分麻酔用の注射をブスブスと打たれる。最初は本当に痛かったが、数本打たれたら痛みを感じなくなった。医者は傷口の状況を詳細に調べ始めた。「おぉ! 意外に傷口の状況が良いじゃないか。これならひょっとすると上手く付くかも知れない」――― そんなことを若い2、3人の女医さんにいろいろ説明するのが聞こえた。しかし、「これじゃ駄目だ。もっと細い針と糸を持ってこい」などと言う声が聞こえたのを最後に眠ってしまった。
「終わった、八針縫ったよ」と声を掛けられて起こされた。「念のために化膿予防の抗生剤と痛み止めを4日分処方するから、4日後にまた来なさい。薬は様子を見て問題がなければ、2日ぐらいで止めて良い」と言われた。さらに脳のCT(Computed tomography コンピュータ断層撮影)検査などを受けるようにと言われた。「整形外科」の出番である。
直ちに「整形外科」で、痛む左手のX線検査と脳のCT検査が行われた。その結果、現時点で脳に異常は見られないが、念のため一週間後には、再度CT検査を受けるように指示された。また痛む左手首の骨には細かいヒビが入っていると診断された。左手首の骨折跡が見られる付近が相対的に弱く、そこに力が加わったためヒビが入ったのだろうと言われた。しかし、とくに治療は必要ない、痛ければ湿布でも貼っておけば良いと言われた。
4日後、「形成外科」に行った。すると「おぉ! もう綺麗に付いている。抜糸しよう」と言い、僕が「抜糸した後で傷口がまた開くことなんてないですか」と心配になって聞くと「大丈夫!」と断言する。「ハイ、抜糸の用意!」と看護婦に命じ、僕にはそこに横になれと命じる。あっという間に抜糸し、上からテープを貼り、「ハイ、終わり」と言われた。「このテープは傷口が紫外線などの影響で黒ずむのを防ぐ。普通の薬局にはないが、東京女子医大の売店にはある。300円もしないから、帰りに買って、数日間、貼っていれば良い。肌色のテープなので傷を隠すのにも良い」以上で終わりである。
「糖尿病だというのに、それに歳なのに、えらく傷の治りが早いね!」と馬鹿にされたのか、誉められたのか、そう最後に付け加えられた。
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そんなことがあった後、今年1月中旬、僕が20歳代から公私ともお世話になっている先輩夫妻などと夕食を楽しんだ。都心にあるが、一歩、中に入ると都心にいることを忘れさせる店だ。
オープンから間もない頃、友人に連れて行かれた。以後、何回も行く機会があって、いつの間にか店長と仲良くなり、無理を聞いてくれるようになった。混んでいて良い場所の確保は難しいのだが、頼んだら、たまたま人目に付かない庭園にある「離れ」の一室を用意するという。それも一番安いコース料金でかまわないという。追加特別料金など払うつもりはない。誰もが自腹が暗黙の了解事項で、その前提でアレンジしてきているので、飛びついて集まった。
金沢に蟹を食べに出かけたり、京都で食事と寺院巡りに行ったり、神楽坂でふぐ料理を楽しんだり、四谷にある「隠れ家」のような店で茶会席に挑戦したり、いろいろやってきている仲間である。参加メンバーは、最大でも十人前後、利害関係はなくただ気楽に楽しむため、適当に集まっている。僕が一番若いもので、いつの間にか幹事のようになっている。その席で、僕は昨年末の連続転倒事件を話した。すると「スコッチ」の生みの親のスコットランド人に関する、いわゆる民族性関連ジョークを紹介された。話を際だたせる「マクラ」は思い出せないが、「オチ」(サゲ)は覚えている。だいたい次のような話である。
スコットランド人がポケットにスコッチの瓶を入れて歩いていたところ、自動車にはねられてケガした。担架に乗せられ病院に運ばれている時、彼は足を伝わって何やら液体が滴り落ちていることに気が付いた。そうしたら彼は、「ああ神様、どうかこれが血でありますように」と言ったという。
腹を抱えて笑った。僕の場合も、もし、2回目の転倒の際に、右手にぶら下げる酒瓶が割れることなど気にせず、放り出せば、ケガも遙かに軽微であったことは間違いない。合計でも3000円ぐらいの酒瓶を無意識に最優先で守り、それでレンズとフレームで10万円を超える乱視矯正を入れた遠近両用眼鏡を壊し、八針も縫うケガをしてしまったことに通じるジョークである。大笑いした後、もし、また同じようなことに遭遇したら、今度は、僕は絶対に酒瓶を放り投げて我が身を守ると諸先輩たちの前で誓った。
そうでなくとも、このところ謝ること多い。僕が教えたにもかかわらず、すでにコンピュータでの立場は逆転していたが、今回の一連の転倒劇で、僕は息子たちにまったく頭が上がらなくなった。素直に耳を傾けると約束した。悲しくもあり、嬉しくもある。自分では、膵臓を病み、約1年、生死をさ迷う入院生活の経験にもかかわらず、いつの間にか再び自身の健康を「過信」するようになっていたことを再確認した。以来、反省し直し、まず懸命に歩いている。一種の地下恐怖症で地下鉄が嫌いだったが、我慢して便利な地下鉄利用に努めている。その効果もあって、足が夜になってムクムこともなくなってきている。
(2007年春)