ぼちぼちいこか  楽友協会ホール PDF​  

伴 勇貴 2004年04月 

連句、そしてオペラ

昨年末、大先輩を囲み、気が置けない人たちで忘年会をやった。曙橋のちょっと気の利いた小料理屋に集まった。話が弾み、酒が進む。一同、初めはおとなしく大先輩の話に耳を傾けていたが、地が出てくる。あちらこちらで話に花が咲く。先輩のYさんが「連句」の話を始めた。Yさんから連句を始めたと聞いたのは十年以上も前だ。以来、連句を続けているが、奥が深く、ますます面白くなっているとYさんは言う。

少し酔ったYさんは蘊蓄うんちくを傾けだした。「連句を知っているか」と聞く。「連歌と同じようなものでしょう」と言うと、「なんだ、その程度の認識か」と嬉しそうに怒る。「まったく分かっていない、形式は連歌に従っているが、規約が違う」と、身をぐっと乗り出して話し始めた。

五・七・五の長句と七・七の短句を一定の規約に従って交互に一定の句数(一巻)になるまで連ねる。第一句を「発句」、第二句を「脇句」、第三句を「第三の句」、第四句以下を「平句」、最終の句を「挙句」という。初期は一巻百句の「百韻」が一般的だったが、芭蕉が推奨して以来、一巻三十六句の「歌仙」が基本形式になった。これが「俳諧之連歌」、いわゆる「俳諧」である。この俳諧から発句が独立し、「俳句」と呼ばれるようになり、俳句とも連歌とも区別するため、この俳諧が連句と呼ばれるようになった。

連句は全体として一つのまとまった思想や内容を表現するものではない。一定の約束に従って、最初の句(発句)が詠み上げられると、それにふさわしい次の句(脇句)を考える。それが提示されると、発句と脇句が構成する世界を思い浮かべ、ひたる。続いて脇句にふさわしい第三の句を考える。そして第三の句が提示されると、脇句と第三の句が構成する世界を思い浮かべ、没入する。

この鑑賞と制作の過程を繰り返す間に、境地は春から秋、秋から恋などへ移り変わる。自然や人生の様々な状況を描いて、自由奔放に変化するところに連句の生命がある。この変化の過程に、おもしろさが潜んでいる。やればやるほどおもしろくなっている。

だいたい、こんなことを説明された。昔は日を決めて集まっていたが、今はもっぱら電子メールを使ってやっている。その成果をまとめて本にもしている。「国民文化祭」にも応募、入選も果たしていると言う。「国民文化祭」なるものが存在することを知らなかったが、何やら大変な権威になっているようである。それに話を聞いていると、たしかに面白そうである。で、「その本を下さい」と頼む。すると、「まだ送っていなかったか、とっくの昔に送ったと思った。分かった、直ぐに送る」と、Yさんは約束した。

数日すると、B5判の60ページほどの小冊子が5冊届いた。表紙に「四木歌仙」とあった。読んでみると、なんとなく気分が伝わってくる。悪い癖だが、風呂に持ち込む読み物の一つになった。ボーとしている時や、イライラしている時などに最適である。

「四木歌仙」三の巻末には「四木会歌仙式目」というのがあった。連歌・俳諧をむための規則・法式を箇条書きにしたものである。そこに「構成」として「歌仙一巻三十六句は、初折りの表(略称オモテ)六句は丈高く余情ある発句で初めて品良く、裏十二句は起伏豊かに、名残の折りの表十二句は縦横奔放に、その裏六句は穏やかに、挙句をめでたく仕舞う。付句が打越にもつれるのを常に嫌い、挙句が発句にもつれて一巻が輪廻の輪に閉じるのも嫌う」と書かれていた。

だが、残念ながらピントこない。基本を知らないのだから当然だろう。改めて連句の構成について調べた。連句は半折した懐紙にしたためられる。芭蕉俳諧の主流の「歌仙形式」では、二枚の判折りした懐紙を使用する。一枚目の初折りの表には六句、その裏には十二句。二枚目の名残の折りの表に十二句、そしてその裏に六句を書くとあった。また連句の最小単位は、「付句」(付ける句)、「前句」(付けられる句)、「打越」(前句の前の句)の三句であって、「付句」の内容が「打越」に触れることを嫌い、三句目の転じが力説される。さらに同語彙の重複や、同季・同字または同種・類似語の頻出などを避けるため、詳細な規則が設けられるなどと説明されていた。

だんだん意味が、Yさんが「規約」と言っていたことが分かってきた。「四木会歌仙式目」で、例えば、「題材」として、花、月、恋、神祇、述懐、無情、雨、風、雪、木類、鳥類、獣類、虫類、魚介類などから時事、遊技、生業、都会、機械などすべてを一巻に出すように努めると定められている理由も分かってきた。

つい2ヶ月ほど前、「四木歌仙」の「六」が届いた。その最初に載っていたのは、2002年「国民文化祭」入選の歌仙「黄落」である。

読んでいたら、Yさんの得意げな顔が浮かんできた。ともかく多芸多才な人である。自らバンドネオンを演奏するぐらいタンゴに入れ込んでいることは知っていたが、それに止まらない。もう6年ぐらい前のことだと思う。きっかけは忘れたが、ともかく飲み屋でYさんのオペラ講義が始まった。

オペラの題名、歌手名、劇場名などがポンポンと飛び出してくる。タンホイザー、ローエングリン、アイーダ、椿姫、セビリアの理髪師、蝶々夫人。ドミンゴ、カラス。ミラノ・スカラ座、ウィーン国立オペラ座、パリ・オペラ座、ロンドンのロイヤル・オペラハウス、ニューヨークのメトロポリタン・オペラ。――― 名前は聞いたことはあるが、ほとんどチンプンカンプン。あのテノールはすごい、あの場面は解ると味わい深いなどと解説されても、そういうものかと聞いているしかなかった。

オペラ観劇を一度もしたことがないのだから、やむを得まい。見たのは建物だけである。ミラノ・スカラ座、パリ・オペラ座、ロイヤル・オペラハウス、メトロポリタンの建物は見たことがある。しかし、有名なウィーン国立オペラ座は建物も見落としている。ウィーンに行ったことがないからだ。それで「ウィーン国立オペラ座というのは、やっぱりすごい劇場なのですか」と愚にも付かない質問をしてしまった。

Yさんは当惑しながらも答えた。
 「建物は建て直され立派だ。でも、音は楽友協会ホールの方がズーッと良い」
 「楽友協会ホール?」
 「なんだ、知らないのか? ウィーンフィルの本拠地で、ニューイヤーズ・コンサートをやるところだ。古い建物のホールだが、ともかく音が良い。音は天下一品だ」

こんな調子で、また講釈が始まった。面白かったが、今となってはほとんど覚えていない。ただ「楽友協会ホールの音響は抜群である」、「そこでウィーンフィルのニューイヤーズ・コンサートが開催される」―――この2点だけはきっちりと頭に刻みこまれている。

だから、それから間もなくMさんにジュネーブでの仕事の後、次の目的地、ロンドンに向かう前、週末を使ってウィーンに行こうと言われた時には飛び上がって喜んだ。ウィーンと聞いた途端、ウィーンフィルと楽友協会ホールを思い出した。さらに神聖ローマ帝国、ハプスブルグ家、宰相メッテルニヒと会議は踊る、ウィーンの森、ヨハンシュトラウス、世紀末とクリムトなどがランダムに頭の中に浮かび上がり、ゴチャゴチャになって渦を巻き始めた。イメージがないから言葉だけである。――― 運賃は変わらない。週末で仕事にも差し支えない。ホテル代など若干の自己負担で済むと思った。

ジュネーブからウィーンへの旅は始めからツキに恵まれた。空港には僕が乗りたい飛行機が待っていた。中型機を使った地域航空(コミューター航空)が盛んなヨーロッパならではだ。ブラジルEmbraer社の双発ジェット機、ERJ-145と、英BAe社の高翼4発ジェット機、BAe 146/AVROが並んでいる。

いずれもまだ乗ったことがない。なかでも高翼4発の中型民間ジェット機は、AVRO以外にはないという代物である。それだけにとくに乗ってみたい航空機である。

どちらに乗るのかワクワクする。なかなか分からなかったが、結局、ERJ-145に乗ることになった。カナダBombardier(Canadair)社のリージョナル・ジェットCRJと市場で競争している機体だ。CRJにはアメリカで乗ったが、最近は性能・価格の両面でEmbraer社が優勢と聞いている。それを自分で実感できると思うと興味津々である。

細いタラップを一歩一歩、踏みしめゆっくりと登る。中に入る。やっぱりジャンボやエアバスに慣れているものだから狭苦しく感じる。天井は低く、座席も狭い。それでも嬉しくなるのだから奇妙なものだ。乗客は少なかった。それで頼み込んでコックピットを見せて貰った。快くコックピット内の写真撮影も許可してくれた。9・11以降は、もうとても無理だろう。

コックピットも狭かった。その上、たくさんの計器やスイッチが目に飛び込んでくるジャンボやエアバスのコックピットに比較すると、拍子抜けするほど簡便というか簡素だった。これならミスは少ないだろうとは思うものの、オモチャみたいで心細くなる。

そんな僕の気持ちを察したのか、ちょこんと座っている2人のパイロットは明るく説明する。「操縦しやすい良い飛行機だよ」「あっという間にウィーンだ」などと言う。ミニクーパーを運転するような雰囲気である。僕の不安感は、いつの間にか消えていた。

席に戻ってシートベルトを締めると、エンジンが動き出した。回転数を上げているのだろう、エンジン音が高音にシフトする。機体がスルスルと動き、滑走路に向かう。その後は、いとも簡単だった。滑走を始め、ちょっと速度が上がった、と思ったらもう離陸していた。あっけなかった。

地上の景色を懸命に眺めていたが、すぐに一面の雲に隠れてしまった。そこで旅行社からもらったウィーンのパンフレットを取り出した。まだ一度も目を通していない。落ち着いてウィーンについて読むことにした。

あっと言う間にウィーン空港に着いた。どぎまぎしながら欧州駐在時に何度も来たというMさんの後に続く。タクシーに乗る。キョロキョロと風景を眺めていたら荘厳なたたずまいのホテルに着いた。五つ星のグランド・ホテルだ。中心部にあり、オペラ座と楽友協会ホールの間に位置する。あのオペラ好きのYさんお気に入りのホテルだそうだ。Mさんは、以前、Yさんと一緒に来たときも泊まったという。

まだ午後1時頃である。チェック・インが終わったら、ちょっと散歩しようとMさんが言う。まったく異存はない。スタスタと歩くMさんの後を、地図を片手に追いかけた。

「路面電車がよく使われているんですよ」「ここがYさんがお気に入りのオペラ座です」「外壁の改装工事が行われている建物が例の楽友協会ホールです」などの説明に耳を傾ける。僕はお上りさんである。ただ地図上での位置確認ばかりを繰り返している。

Mさん、次は素晴らしい庭園と建物を見に行こうという。ハプスブルグ家の夏の宮殿 ――― ベルサイユ宮殿に対抗して作られた壮大なシェーンブルン宮殿も悪くはないが、時間が掛かるし、それよりも自分は好きだ。建物は、今は美術館になっていてクリムトなどの絵画があると言う。従順についていく。

たしかに素晴らしいところだった。17世紀にオスマン・トルコ軍に包囲されたウィーンの危機を救ったオイゲン公の夏の離宮、ベルベデーレ宮殿である。宿敵を打ち破ったことに歓喜した時の神聖ローマ帝国の皇帝から褒美として賜った土地や戦利品などで大富豪になって建てたものだという。

傾斜地を使って作られた庭園の彼方にはウィーンのシンボルになっている大聖堂の尖塔がそびえている。これが皇帝ではなく、ハプスブルグ家の家臣のものだと言う。ハプスブルグ家がいかに栄華を誇ったことか、またオスマン・トルコを撃退したことでオイゲン公がいかに重用されたかがうかがわれる。

19・20世紀絵画館の展示も良かった。なかでもクリムトはひときわ精彩を放っていた。クリムトは年取ってから好きになった画家である。人影はまばらで、日本橋の展示場で人混みにもまれながら見たものをゆっくり間近に鑑賞できた。お陰で疲れも回復した。

購入した数冊の画集を手に、Mさんに次はどこと督促する気力が戻った。Mさん、歴史博物館が面白い、帰り道にあるから見学しようと言う。直ちに賛成する。歩きながらのMさんのオスマン・トルコ話が始まった。16・17世紀にわたってオスマン・トルコは欧州にとって大きな脅威だった。その攻撃を何度も受けた。

当時のウィーンはオスマン・トルコの来襲に備えた城壁と濠に囲まれた直径1キロあまりの城塞都市。それでオスマン・トルコの大群に包囲されても守り切れた。その代わりに、ウィーンは城壁と濠の外には発展できなかった。現在のウィーンを囲む「リング」と呼ばれる環状道路は、昔の城壁と濠の跡である。このオスマン・トルコを打ち破り、長年の脅威からウィーンを開放したのがオイゲン公である。

だいたい、そんな内容である。高校時代、歴史の時間にほんの少し学んだ。その後、ハプスブルグ家に興味を持って何冊か読み、多少は詳しくなったが、僕の知識はグチャグチャで、とてもMさんのように整然とは説明できない。

Mさんの話は続く。そんな時代のウィーンに関する資料を市立歴史博物館で見ることができるという。話を聞いている間に博物館に着いた。

館内の壁には昔のウィーンの全体が描かれた地図や鳥瞰図などが掛かっていた。今のウィーンからは想像できない、城壁と濠で囲まれた完全な要塞都市である。なかでも、その要塞都市がオスマン・トルコ軍に何度も完全に包囲された状況を描いた絵は圧巻だ。オスマン・トルコ軍のテントが街を包囲し、地平線の彼方までビッシリと並んでいる。部屋の中央には、激戦の模様を生々しく伝える折れた槍、傷だらけの楯、破れた旗などが多数展示されている。部屋の一隅には、復元した街の模型も展示されている。それらを眺めていたら、当時のウィーンの人たちが、どれほどオスマン・トルコを恐れていたことか、その恐怖心かがひしひしと伝わってきた。

説明文などを読み、だんだん西欧の歴史を思い出した。もっぱら高校時代に学んだものなのだが ・・・・・ 。395年、永遠のローマ帝国が東西に分裂。そのから百年あまりで西ローマはゲルマン人によって滅ぼされる。一方、コンスタンチノープル(イスタンブール)を都とした東ローマ(ビザンチン帝国)は、さらに千年あまり生き続けるが、1453年、ついにオスマン・トルコによって滅ぼされる。

さらにオスマン・トルコは領土拡大を続け、ついに神聖ローマ帝国の都も攻撃にさらされる。第一次ウィーン包囲(1529年)では、約1ヶ月間、ウィーンの街は包囲される。それから40年後にも再び包囲される ――― 第二次ウィーン包囲(1568年)。

その後、欧州攻撃は下火になるが、神聖ローマ帝国にとってオスマン・トルコは常に隣接する脅威だった。そして、第二次ウィーン包囲から約百年後、再び危機に陥った。約2ヶ月間にわたって包囲される。 第3次ウィーン包囲(1683年)である。

この戦いに一将校として皇帝軍に加わったオイゲン公は軍事的才能を発揮し、危機を救い、メキメキと頭角を現わした。1685年、21歳で少将。1693年には29歳で最高位の陸軍元帥となる。そして約150年間、オスマン・トルコの支配下にあったブタペストを開放し、敗走するトルコ軍をハンガリーの平原の奥地にまで追い詰め、1697年に大勝利をおさめ、領地から完全にトルコ軍を駆逐する。さらに1699年には広大なハンガリーの領土を返還させる条約を締結する。オスマン・トルコの脅威ははるか遠くに退いた。こうした活躍に対する褒美としてオイゲン公は広大な土地と膨大な戦利品を手にし、欧州有数の大資産家になったという。

その後、歴史地図などを買い込んで調べたことと併せると、ベルベデーレ宮殿を建てた主人公はこんな人物だったようだ。若い頃とは違い、こんなことに興味を惹かれるようになっている。市立歴史博物館を見終わると、僕はまたMさんに次はどこと催促した。Mさんは、ちょっと考えて、「ウィーンの森」へ行こう、路面電車に乗れば直ぐだから、まだ十分に時間があると言う。もちろん僕に異論はない。

旅行社のパンフレットには「街を取り囲むように北西から南西に広がる森。北側には丘が連なり、緩やかな斜面には一面のブドウ畑が続く。晴れた日には、丘の上から遙かスロバキアの国境までも望める。南側にはベートーベンが住んだ土地や、オーストリア皇太子の悲恋物語で有名なマイヤーリンクなど歴史的名所が点在する」などと書かれていた。期待に胸が弾んだ。

ここだというMさんに促されて慌てて路面電車を降りる。とても森の中という雰囲気ではない。やや緑は濃いけれど街の中である。ここから歩こうと言ってMさんは迷わず歩き始める。

「エェー、ここが森?」と半信半疑だったけれど、Mさんは自信に溢れている。黙ってMさんに従って、緩やかな坂道を上る。

だんだん緑が濃くなってくる。と言っても道は舗装道路で自動車が結構走っているし、両側には瀟洒な家並みが延々と続いている。郊外の住宅地という雰囲気である。僕は、だんだん不安になる。「ここがウィーンの森?」と聞く。Mさんはニッと笑って「そうで~す! ウィーンの森で~す」と答える。

しかし、僕は期待が大きかっただけに、ちょっとガッカリした。「なぁーんだ。ウィーンの森って、こんなところなんだ」「ぜんぜん森じゃあないんだ」と小声でMさんの耳に入らないようにつぶやいた。

道を登り切ったところに小さな広場があった。数台の観光バスと人の姿が見える。土産物屋やレストランもある。間違いなく観光地のようである。Mさんは得意そうである。近くに元クリントン米大統領が名物の「ウィーナー・シュニッツエル」――― 薄く切ったビーフを肉たたきで薄く伸ばし、パン粉をつけて揚げたもの、つまり「カツレツ」――― をワインを飲みながら食べたレストランがある。そこで食事しようと言う。

5時近くになっていた。腹も減っていた。「ウィーンの森」が期待外れだっただけに、Mさんの提案はとすごく魅力的だった。「皿からはみ出すでかいヤツだ」というカツレツが目に浮かび、足を早める。ところが、そのレストランは閉まっていた。クリントンが来店したという表示の横に、オープンは8時と書かれていた。とてもそれまでは待てない。ガクッと落ち込んだ。

それでも気を取り直し、諦めて広場に戻り、営業中の、いかにも観光客御用達というレストランに入った。気に入らなかったけれど仕方がない。

注文すると、大皿からはみ出るほどのジャンポ・カツレツが出てきた。それを見たら少し嬉しくなった。「下味がついているので、ソースはいらない。たっぷりレモン汁かけて食べるのが旨い」と言ってMさんはニコニコし、ナイフで大きく切ったヤツにかぶりつく。僕も続いてかぶりつく。嘘のように今までのモヤモヤが晴れ、満足感が全身に広がってくる。赤ワインも頼む。この時ばかりは、ワインの銘柄は気にならなかった。グラスワインで十分だった。

幸せで満腹になり、腹ごなしに路面電車の駅までブラブラ歩くことにした。すでに薄暗い下り道をMさんはスタスタ歩く。その後に続く。気分は最高だった。ところが小一時間歩いても駅に着かない。とっくに着かなければならないのに、いっこうにそれらしい雰囲気にならない。すっかり暗い。Mさんはバックと折りたたみ傘を小脇に「次の交差点を左」などと余裕を持って歩いている。

しかし、だんだん僕は心配になってきた。文句を言わずに付いてきたが、ついに「道を間違えたんじゃない」と恐る恐る言った。するとMさん、ニッと笑って「迷ったかもしれない」と言う。怒る気にもなれない。それからは2人で、「あっちだ」、「いやこっちだ」の連続。ようやくのことで明るい大通りに辿り着いた。

それでホテルに戻ることが出来たのだから良いのだけれど、どこで迷ったのか、実は今でもわからない。「ウィーンの森」にかされたのかもしれない。

日は暮れたが、まだ一日は終わっていなかった。これからの時間が、ここウィーンでは本番だそうである。部屋で休もうと思っているのを見透かしたかのように、「さあ、折角来たのだからオペラ座でオペラでも鑑賞しよう。いま上演しているのは有名なヤツではないけれど」と言う。Mさん、すでに何をやっているのかチェック済みらしい。それにしても本当にタフである。

それで僕もつい「どうせなら、Yさんが言っていた楽友協会ホールへ行きたいなぁー」と言ってしまった。Mさん、多分、オペラに行きたかったのだろうが、僕の我が儘を聞き入れた。しかも「楽友協会ホールの演奏曲目は分からないが、最後は必ずラッデッキー行進曲。これはこれでなかなか楽しい」と言うことにソツがない。で、お言葉に甘えて部屋でちょっと休んでから、ホテルから一ブロックほどの距離にある楽友協会ホールに行くことにした。

ついにYさんの言っていた楽友協会ホールに行くことになった。疲れているが、ワクワクする。昼間は外装工事中で汚かったが、それも夕闇に隠れ気にならなくなり、入り口は輝いていた。小さな窓口で、中央の前の方の席の切符を購入する。ドキドキしながらホールに入る。前から5番目の席に座る。座っても落ち着かず、まだ観客がまばらなことを幸いに、キョロキョロばかりする。Mさんは悠然と座ってプログラムを見ている。

「黄金の間」と呼ばれる金ピカの天井も壁面も木製で、そのすべてに浮き彫りなどの装飾が施された四角い箱型のホールである。といっても色などはところどころ褪せており、床も木製で歩くとギシギシ響く。日本の古い寺の本堂を連想させるものがある。話に聞いていた通りである。この床下には共鳴する空洞スペースがあり、天井も共鳴するように吊られており、全体が木造の古い共鳴箱のようになっているというのだが、本当に良い音が聞こえるのかやや心配になってくる。

いつの間にか満席になっていた。いよいよ開演である。映画「アマデウス」に出てくるような服装で演奏者が舞台の袖から登場する。かつらをかぶり、胸元や袖はフリルいっぱい、膝から下はストッキングという出で立ちである。

驚いている僕の様子を見て、「これ観光客用なんだよ」とMさんが小声で教えてくれる。全員が着席する。続いて指揮者も同じような衣装で、大袈裟なボディアクションで現れる。それに演奏者も応える。仮装大会かコミックショーのようで面白いが、肝心の演奏はいったいどうなのかと少し心配になる。

しかし、演奏が始まって驚いた。音がすごい。中央の前から5番目という席のため、弦楽器の弦がこすれる繊細な音が直接に飛び込んでくる。それにホールから反響してくる音が加わり、全身が音の海に浸る。身体が溶けて音の世界と一体になっている気分である。

我に返ったときには、最後のラデッキー行進曲に併せて夢中で手拍子を打っていた。横を見ると、Mさんも夢中で手拍子を打っていた。手拍子を打ちながら、絶対にニューイヤーズ・コンサートの切符を確保しようと思った。今度は一泊ではなく、もっとゆっくりしようと思った。                  (2004年春)