ぼちぼちいこか  コタキナバル  PDF​  

伴 勇貴 2004年03月 

アクアライン・スカイライン・フラワーライン

今年の冬は暖冬だ。2月の平均気温は70数年ぶりの高さだ。そんなニュースが流れていたところ、3月1日の月曜日、突然、冬に逆戻りした。

実は、前々日の2月28日(今年は閏年うるうどしの土曜日、暖かさに誘われ、南房総に出かけてきたばかりだった。部屋にもり、パソコン画面とにらめっこする生活を続けていたら、無性に明るい太陽の下、花畑の真ん中で、花の香りを全身に浴びたくなった。そう思ったら止まらない。東京湾横断道「アクアライン」で木更津に出る。そこから「房総スカイライン」で山中を横切り、鴨川から「房総フラワーライン」を走り、館山から今度は東京湾沿いの道を抜け、「アクアライン」経由で戻ってきた。約300キロの房総を半周するドライブだった。

途中、養老渓谷を散策し、鴨川で地元の人たちで賑わう魚屋経営の食堂で珍しく天ぷら定食を食べる。千倉付近では、地元のおばさんたちが呼び込みをやっていた花畑でストックを一抱えも買い込む。12本500円と15本500円の2種類の畑がある。そこからハサミを借りて自分で好きなものを切り取る。気が付いたら30本ぐらい取っていた。その全部を1000円で良いと言う。さらにお土産だと言って食用の菜の花までゴソッとくれた。帰りの車内は花の香りで溢れた。ともかく天気が良く、気分は最高だった。

現在、その時のストックが冬に逆戻りしたため暖房を強くしている部屋の中で鮮やかに咲いている。外から戻って部屋の扉を開けると、ストックの強い香りが押し寄せてくる。ストックは菜の花と同じアブラナ科。その香りには緊張した精神をリラックスさせ、疲労を回復させる働きがある「癒し花」だという。そのせいかもしれない。部屋にもっていても、あまり気分が滅入らない。鮮やかな色のストックとその強い香りに囲まれていると楽しいことを思い出す。

2年前、休みを取ってマレーシアのコタキナバルに行った。

疲れてくると南国の青い海、白い砂浜、椰子の木陰のイメージが頭を占領するようになる。バンコック駐在のIさんの薦めでバンコックからプロペラ機で1時間ほど飛んだシャム湾にある小島、コサムイで数日間を過ごしてからというもの、それは単なる憧れではなくなり、強い欲求に変わった。

直ちに馴染みの旅行社のHさんに相談した。旅行者が事件に巻き込まれることが多く、安全が気掛かりだったからだ。ちなみに10年以上も前に行って感激したフィリピンのセブ島は、今は危ない場所の一つだという。

そうなると外務省の「渡航情報」だけでは頼りない。日々業務に関わっている人に尋ねるのが一番である。安全で、乗り換えが少なく、あまり時間がかからず、費用は割安で、僕の好みに一致する旅行プランを作って欲しいと頼んだ。いつもながらの僕の身勝手な頼みごとにも慣れたのだろう。Hさんは快く引き受ける。

しばらしてHさんがいくつかの旅行プランをメールで送ってきた。その中からマレーシアのボルネオ(カリマンタン)島にあるコタキナバルの「シャングリラ・ラサ・リアリゾート」というホテルに滞在するプランを選んだ。Hさんの話を聞けば聞くほど魅惑的だったからだ。

空港や街からのアクセスは良くないが、逆にそれだけ周囲の環境が良い。治安も良い。ホテルは、自分も行ったことがあり、保証する。一番良い部屋を格安で確保する。プライベート・ビーチを含むホテルの敷地は広く、そこだけで十分にのんびりできる。退屈したらマングローブやオラウータンの見学ツアーにでも参加すればよい。しかもコタキナバルにはマレーシア航空が成田から直行便を運行しており、約4時間で着く。マレーシア航空はサービスが良く、値段も割安である。

これまでHさんに裏切られたことはまずない。でも、決めた後、念のためインターネットで調べてみた。日本語ホームページを検索したところ、同じシャングリラ系のホテルでも空港に近い「シャングリラ・タンジュンア・リゾート」に関する情報が圧倒的に多い。こちらの方が近代的な建物で、客室数も多い上に、コタキナバルの市街にも近く、一般的には人気があるのだろう。

比べると「シャングリラ・ラサ・リアリゾート」に関する情報は少ない。名前は出てくるが、詳しい記述は少ない。「コタキナバル市内から車で約1時間、400エーカー(東京ドーム30個分)の広大な敷地に建つ豪華リゾートホテル。約3キロに及ぶ白砂のビーチと森に囲まれた自然保護区(オラウータンがいてホテルゲストは見学ができる)を所有。コタキナバル国際空港から車で約45分。客室総数330室」といった紹介があったぐらいである。

しかし、シャングリラのホームページには系列ホテルの詳しい情報があった。その中に「シャングリラ・ラサ・リアリゾート」があった。写真も下の二枚をはじめたくさん載っていた。期待が大きく膨らんだ。
(http://www.shangri-la.com/eng/hotel/index.asp)

マレーシア航空は評判通り、サービスは良く、食べ物も美味い。機体も新しく快適。成田からコタキナバル空港にはあっという間に着いた。

しかし、南の島の空港というと、セブ島やサムイ島などの空港のイメージにわれていたので、大きくて立派すぎて、正直言うとやや失望した。しかし、考えて見れば、日本から直行便が飛んでいる、ボルネオ島と言っても世界で3番目に大きな島、面積は日本の約2倍なのだから、その空港が立派だとしてもまったく不思議ではない。入国手続きも極めて簡単で、初めてボルネオ島に降り立ったなどという感慨にるもなく、迎えの車中の人になった。

街はひと昔、ふた昔前のバンコックの雰囲気だ。写真から抱いたイメージとはかなり違う。まさかHさんが嘘をつくとは思えないが、不安がつのる。雑踏を抜けると、灌木が点在する草原のような世界になった。右手遠くに富士山よりも高い、東南アジアの最高峰、キナバル山(4094メートル)が見える。しかし、青い海は見えない。「山頂付近の形が人の横顔のように見えるでしょう」とガイドに言われ、そう言われればそうだと思う。しかし、感激もしなければ気分も晴れない。青い海と白い砂浜が本当にあるのかどうか心細くなったからだ。
(写真はhttp://www.ne.jp/asahi/syouken/yuyu/travel-1/boruneo/mount01.htmのもの)

さらにしばらく進むとゴルフ場が見えてきた。間もなく「シャングリラ・ラサ・リアリゾート」だと迎えは言う。ゴルフ場はホテルのものだと説明する。前方は小高い丘と延々と続く樹林。そこで車は大きく左に曲がり、ゴルフ場の横を通り抜ける。

そこが青い海と白い砂浜の別世界の入り口だった。日本人の30歳近い女性が出迎える。ホッとする。同時に人種を問わず女性は、どこでも生活できる、本当に強い、男性より強いに違いないという思いが頭をよぎる。それも一瞬のことだ。彼女のテキパキした指示で、すべてがきちんと流れ始めたからだ。ホッとしてロビーで一服している間に、手続きはすべて終わった。

部屋に案内される。海が間近に見える部屋ではなかったが、南は開かれた海を眺望、西は広大な樹林を眺望する全面窓の角部屋だった。贅沢ぜいたく

きわまりない。気分の良いことも、この上ない。特別料金を払うわけではない。いつものことながら、Hさんの配慮に改めて感謝した。

すべてが夢の日々だった。日が昇ると目を覚まし、シャワーを浴び、7時頃には木立の間を縫って朝食を食べに行く。すでに従業員は芝生や庭木の手入れを始めている。熱帯なのに、この時間帯は、やや肌寒いくらいで、実にすがすがしい。

朝食はビュッフェ・スタイル。地元料理はもちろんのこと、洋食から中華、和食まで、暖かいもの、冷たいもの、そして南国の珍しい果物や各国の菓子、コーヒー、紅茶、ジャスミン茶、緑茶と何でもある。量も種類も豊富である。

普段でも腹が空いて目が覚めるくらいで、朝食はよく食べる。それが一段と加速する。適当な場所に座り、誰に気兼ねすることも時間を気にすることもなく気ままに食べる。

食べ終わると、ホテルの敷地内の庭園から海岸を探索しながら散歩する。気温が上昇する前に部屋に戻り、半袖のシャツと海水パンツに着替える。海水パンツと言ってもスマートなヤツではない。出っ張った腹を隠すつもりだったけれど、逆効果だったダブダブの短パンのようなものである。

それでも着替えると開放的な気分になる。庭園のプール脇を通って海岸に向かう。砂浜に近い最前列のパラソルの下の席を確保する。下は芝生なので照り返しがない。潮の香りとともに海からはやかな風が吹いてくる。直射日光がられているのでしくない。限りなく心地よい。それからは、買って「つんどく」となっていた本の出番である。その中から無造作に抜き出してきた7、8冊の単行本の出番である。

ところが数ページも読むとウトウトし、本が手から落ちる。それを拾い上げて読む。また落とす。そんなことを繰り返す。

それで昼飯の時間となる。手を上げる。ボーイがやってくる。フローズン・マルガリータとハンバーガーを注文する。暑い南国にくるとフローズン・マルガリータが格別に旨い。

食べ終わると、文字通りの「海水浴」である。遠浅の浜辺である。波打ち際から50メートルぐらい沖に出ても腰当たりの深さである。その辺りで、大きくなって迫ってくる波に合わせて飛び跳ねているだけで爽快そうかいになる。疲れたら戻る。簡単にタオルで身体を拭き、椅子を延ばして横になる。

ほどよい暑さと涼しさで気持ちがむ。ウトウトする。気が向いたら海岸の端まで波打ち際を歩く。そんなことを繰り返す。ちょっと肌寒さを覚えると、日が傾いている。

夕飯の時間である。部屋に戻りシャワーを浴びて着替える。外に出ると、真っ赤な大きな太陽が背の高い椰子の木の葉陰に見える。息をのんで見守っている間に沈んでいく。すると周囲は急に暗くなる。プールの周囲は屋外レストランに生まれ変わる。屋台が10台あまり出現する。かがり火を浴びて輝いている。

ここでビュッフェ・スタイルの夕食を楽しむ。屋台の前に列ぶ。肉を頼む。焼きたての肉が載った皿を受け取る。その足で隣の屋台で、並んでいるエビを指さし、焼いてもらう。それを皿の空いているところに置いてもらう。まだ片手があいている。ラーメン屋に向かう。具は豚肉、エビ、キノコ、もやし、麺はビーフンのようなものではなく、縮れた黄色のものにする。選ぶと直ちに調理してくれる。どんぶりを受け取り、それにネギなどの薬味を山盛りに入れる。こぼれないようにバランスをとりながら皿とどんぶりを持って確保した席に戻り、ビールを飲みながら食べる。

焼き蛙も淡泊で結構いける。スパイシーなサテアヤム(インドネシア風焼き鳥)も悪くない。野菜や果物も豊富である。健康を意識して、やや多めに野菜炒めを食べる。屋台に向かっている間に、汚れた食器は片付けられるので、いったい自分がどれだけ食べたのか分からなくなる。頼りは自分の腹だけである。

しかし、毎晩となると飽きる。建物内には朝食を食べたところで様々なアジア料理が食べられるし、インド料理専門のレストランもある。いずれも舌を満足させてくれる。もっとも、そこで食べていると必ずギターを抱えたトリオがやってくる。初めての時にチップを弾んだものだから、すぐに見つけてニコッと笑って近づいてくる。「サクラサクラ」ばかりではない。次から次と近くで歌いだす。サザンオールスターズの「TSUNAMI」までやりだした。もともと桑田佳祐が歌う歌詞が僕には聞き取れない。だからトリオの歌っている日本語の歌詞が正しいのか間違っているのか分からない。でも間違いなく曲は、僕でも聞き覚えがある「TSUNAMI」である。

一方、ロビーのラウンジは夜になるとライブ・ハウスに早変わりする。張りのある声で、多分、マレーシア人の女性だと思うが歌っていた。ガラガラだったので居心地の良さそうな隅の席についた。なかなか巧い。これは楽しめると悦に入った途端に、中国人の団体客がドヤドヤと入ってきた。曲をリクエストし、始まると数組がすぐにソーシャル・ダンスを始めた。おまえもやれと座っている仲間を誘う。ついには男同士でも踊り出す。どんどんエスカレートする。ついには全員で輪になってフォークダンスをやりだした。ものすごいエネルギーである。

昔の日本の海外団体旅行客を彷彿させる。十数人の欧米人と数名の日本人は唖然としている。フォークダンスを数曲やったら、来たときと同じようにドヤドヤと出て行った。

ホッとした雰囲気が漂う。いつの間に歌は懐かしのスタンダード・ポップスに変わった。レイ・チャールズとかナット・キングコールが歌っていたヤツだ。一曲終わると拍手が起こる。今まで黙っていた欧米人が次々にリクエストを始める。薄暗いので年齢はよく分からないが、曲名から想像すると、多分、同世代だろう。奇妙な一体感を覚え、僕も負けまいと彼らがまだリクエストしていない「ルート66」を頼んだ。ジン・オンザロック一杯で堪能した。ちなみに中国人団体客は一泊だったようで、翌日には姿を消していた。

マングローブ・ツアーにも参加した。熱帯や亜熱帯の遠浅の海岸沿いの砂泥地に海水の塩分に耐える樹木が多数集まってつくる樹林のことをマングローブと呼ぶという知識は持っていたけれど、実際に見るのは初めてだ。

長い平底の舟に乗る。舟はしぶきを上げ、全速力で進む。潮風が心地良い。十分あまりで、辺り一面がマングローブの水路に入った。マングローブを構成する樹木は、特殊な環境に生育するために、独特な形質を備えているという。確かに変わっている。近づくと、波などに耐えるため水の中に伸びる足のような「支柱根」とか、呼吸のために水中からまっすぐ上に伸びている細長い「呼吸根」がハッキリと分かる。

枝にたくさんぶら下がっている先の尖った30センチほどの細長いのが実だという。熟すと、1メートルぐらいにもなり、抜け落ちて砂泥に刺さり、発芽するのだという。葉も変わっている。見た目は普通の葉だけれど、塩分を排出する腺があるという。渡された葉をよく見ると、白い結晶のようなものが点々と表面に吹き出ている。舐めると、しょっぱい。間違いなく塩である。

まったく無人のように思えたマングローブが続く水路に男性1人が小舟を操っているのを見つけた。ガイドに聞くと漁師だという。マングローブ根元付近は、いろいろな魚が集まってくる魚を捕る格好のポイントになっているのだという。

なんとものどかである。このまま止まって、一緒に釣りをしたくなった。時々、鋭い鳥の鳴き声が響き渡る以外は無音の世界である。エンジンが始動し、その静寂を破る。ガイドは、漁師の人たちなどは水上生活をしており、これからそこに向かうと言う。

カキの養殖も行われていた。アサリよりひとまわり大きいぐらいの小さなカキである。その脇を通って進むと、水上生活者の集落が見てきた。海中に打ち込まれた杭の上に家が造られている。家と家の間には板の橋がかかっている。女性や子供の人影も見える。

その一画にある船着き場で降りる。歩くと大きくしなる板の橋を渡って集落を抜け、海岸に出る。子供たちは屈託のない明るい顔をしているけれど、お世辞にも快適なところとは言えない。不便で不衛生である。

ホテルとは別世界である。いったい、あのホテルは何なのだろうか、この人たちの目にはどう映るのだろうか。そんな思いが次々と沸いてくる。日本の敗戦後、間もない頃の姿が重なる。自分でもかすかに記憶している闇市や浮浪児。それと写真集に出てくる光景。

ボルネオ島は第二次世界大戦の戦場だった。コタキナバルには日本軍がいた。第二次世界大戦中に日本軍が作った温泉もあるという。日本軍の拠点が築かれた隣のパプア・ニューギニアのラバウルからの撤退を謳った「ラバウル小唄」のメロディー、そして続いて子供のころ眺めた南洋の島を舞台とする漫画「冒険ダン吉」が映像が流れてきた。―― そして言葉を失った。

(2004年春)