ぼちぼちいこか  都心の異変 光陰矢の如し PDF

伴 勇貴 2003年11月 

    年年歳歳ねんねんさいさい 花相似はなあいにたり   毎年、花は同じように咲いているが、

    歳歳年年さいさいねんねん 人不道ひとおなじからず    それを見る人は同じ人だとは限らない

そんな唐詩を思い浮かべながら「都心の異変───桑田変じて滄海そうかいとなる」を書いてから、もう一年が経つ。実にいろいろな出来事があったが、振り返ると、あっという間の一年だった。とくに何かに忙殺されたという訳ではない。ただ、過ぎてしまったとしか言いようがない。まさに「光陰矢の如し」である。

日常の活動はイラク戦争や日本企業の再編成などの影響を受けているが、埋没させられるまでではない。仕事は結構忙しいが、それで拘束されている気分にまではならない。政治的関心は強いが、それで怒ったり走り回ったりまではしない。カネは欲しいが、自分個人のために画策するまでの気は起こらない。食い物に対する関心は人並み以上に強いが、行列してまで食べようとは思わない。

ファッションとかブランドも、良いモノは良いとは思うが、値段を見ると関心が失せる。阪神優勝には驚いたが、それを喜ぶ気分にも、それで騒ぐ気分にもならない。ゴルフも止めてから久しく、いくら楽しそうな話を聞いても朝早く起きて遠くまで出かけようという気持ちにはならない。山登りはやりたいが、北アルプスや南アルプスではなく高尾山あたりで十分と思い、それすらも実現しないでいる。ドライブも200から300キロぐらい遠出して走れば満足する。

だから時間にも気持ちにも余裕があるはずである。それなのに、気が付いたら絵画館前の銀杏並木は新緑から深緑に、そして黄金に変わり、ついに葉っぱもなくなっていた。散歩の折に実のなり具合を観察し、今年こそ早朝に行って銀杏を採ろうと思っていたのに、その機会を逝っしてしまった。

酒で大病をわずらったのに、また凝り性もなく飲み始めている。飲み過ぎだと注意されることが多い。しかし、昔とは違う。

クラブや料亭などは縁遠く、飲んで歌って騒ぐのは苦手で、近くの居酒屋で60年代、70年代のロックなどを聴いて喜んでいる。12時過ぎに、もう一軒などいうことはない。自宅だったら日本酒を2合も飲むとほろ酔いになる。ドクターストップになったらいつでも止めると言いながら、タバコもスパスパ吸っている。

と言って、体調が良いのかと問われると、自信を持って良いと言えるほどでもない。しかし、悪いのかと聞かれると、悪いとも答えられない。どう頑張っても、かつてのようなバカ元気は無理だし、そもそも良い悪いの基準が曖昧になっている。

もちろん年2回の徹底的な人間ドックと月1回の定期検診は欠かさず、1日に5回の2種類の注射と食中食後の4種類の服薬(と言っても消化酵素、乳酸菌、それとビタミン剤だけど)と就寝前の2種類の服薬(胃薬と抗血小板剤)は続けている。

さらに体調に素直に従って、折を見ては麻布の整体と市ヶ谷の鍼にも通っている。お陰で検査数値データも画像診断結果も、今のところすこぶる健康と太鼓判を押されている。

「男の更年期」

30代になると、頑張っている時に、フッと歳を感じるようなる。それをやり過ごし40代に入る頃、昔から厄年と言われている通り、油断していると大病を患う ─── 事実、僕も倒れた。しかし、それを乗り越えると、何となく60歳ぐらいまでは辿たどり着く。そこで還暦という言葉がある通り、また転機を迎える。これをやり過ごすと、その後しばらくは平穏な時期に入る ─── こんなことを人生の大先輩たちから、若い頃、何度も聞かされてきたが、気が付いたら自分が、そんな話をするようになっていた。

同年代の仲間が何となく集まって飲み始めると、最近は、身体の話題に行き着くことが多い。その中でも今年のビッグニュースは「男の更年期」と「赤玉ポン」である。男にも更年期が存在する。たしか、そんな題名の本も出てくるくらい今では知られていることだ。

考えてみれば、男でも加齢でホルモン分泌機能が低下すれば、バランスが崩れ、いわゆる自律神経失調症に陥ったとしても不思議ではない。それに身近な友人たちが陥るようになると無視は出来ない。

Mさんも今年初めに陥ったらしい。普段は明るいMさんが妙に元気がない。病院でいろいろ調べたのだけれど、問題はないという。でも、調子が悪い。そんなことを綿々めんめんと言う。Mさんにしては珍しいことである。でも、直ぐにまったく同じような話をTさんに聞いたことを思い出した。それで聞き終わるや否や叫んだ。それは「男の更年期」に違いない ………。

そうしたらMさんは少し恥ずかしそうに精液に血が混じると続けた。すでにTさんからも聞いていた話だった。それで、続けて「それは赤玉ポンだ」と追い打ちを掛けた。

Tさん曰く、毛細血管が老化すると膨張時に切れ、それが混入するようになるのだという。悪い病気ではないかと心配で、病院で検査した。しかし、問題は見つからない。最後に主治医が「実は私もそうなんですよね」と言われ、ホッとしたと同時に改めて年齢を感じたと、酔っぱらって語った。

それを聞き終わるや僕は「それがきっと、昔から言われている赤玉ポンだ」と叫んだ。「そうか、間違いなく赤玉ポンだ。すると俺たち後は空気だけか」ということで、大笑になった。

この話をMさんにした。Mさんはホッとしたようだった。しばらくしてからMさんから聞いた。「やっぱり赤玉ポンでした」───その電話の声は、ホッと安心し弾んでいたが、どことなく悲しそうに聞こえた。

これでほぼ同世代の飲み仲間の5人のうち3人が赤玉ポンになった。その1人、作家のSさん(このシリーズを読んでいる人には直ちに誰だか分かると思うけれど、ここではあえて名前を伏せる)に到っては、酔うと赤玉ポンだということを自慢する。自慢すると同時に、そうでないヤツは変だと主張する。ついには、まだ赤玉ポンではないと僕が抵抗すると「だいたい、おまえはおかしい。これカツラだろう」と髪を引っ張る。

こんな他愛たあいないやり取りが心地よい。ちなみに、もう1人の同じ年のMさんの口癖は「人間、全身の毛の総本数は同じである。これを相対毛原理そうたいけいげんりという」というセリフだ。

実はMさんは見事なハゲと見事な胸毛の持ち主である。その上、幾多の修羅場を潜り抜けてきたような貫禄がある。とても太刀打ちできない。「おまえも赤玉ポンか」とでもたずねようものなら、「おまえらバカか」という雰囲気である。

ベルトをゆるめ、「おい、勝負しよう」と結構、真顔で言いだしかねない。こうなれば逃げるしかない。話題を変えるしかない。

「六本木ヒルズ」

幸い、当たり障りのない話題はいろいろある。この数年前から都心では大規模再開発事業が花盛りで、昨年は品川や汐留などが営業を開始し、東京駅前の丸ビルも生まれ変わった。そして今年の4月25日には、いったいどんなものになるのかとだった六本木ヒルズがついにオープンした。

「なんだ、まだ行っていないのか」、「あそこはすごかったぞ」、「あれじゃ駄目だな」など、各人各様のコメントをいくらでもできる。

今、住んでいるマンションからは六本木ヒルズ森タワーがよく見える。写真、中央右の茶色のノッポの建物(1フロア2軒という億ション)の後ろに広がる迎賓館や東宮御所がある緑の一帯の右奥に高くえている。2段重ねになっているような特異な形状のビルだ。

日々、目に飛び込んでくるビルだし、その近くに住んでいたこともあるので無視はできない。早速、オープンの翌日、土曜日の午前中に様子を見に行った。まだ混んでいなかった。地図をもらってトレンディーだという店をうろうろする。

でも感性が麻痺したのだろう、そそられない。それでも折角来たのだからということで、カネを払い、展望フロアに行った。

東京タワーよりも遙かに眺望が良い。東西南北を眺める。昔、住んでいた元麻布のマンションや3フロアをオフィスにしていた六本木飯倉片町のマンションなども識別できて興味が尽きない。

いま住んでいる高層マンションも遠くに見えた。写真では地平線に飛び出ている塔(防衛庁の無線塔)の左側にある建物だ。周囲に高層ビルがないのでひときわ目立っている。

ビルを出ると足は自然に昔馴染みの麻布十番に向かった。徒歩五、六分の距離にある商店街は見違えるほど綺麗になった。街路樹のカツラの新緑がみずみずしく、ハナミズキの花が満開だった。

振り返ると六本木ヒルズを構成する森タワーと高層の住宅棟群の偉容が目に飛び込んできた。どんな人が入るのだろう。分譲マンションはもちろん億ション。賃貸マンションは月額家賃200万円ぐらい。そこに等価交換で部屋を貰った地元の人たちも住んでいるという。でも普段の生活が実感できない。「大変なのじゃないかなあ」と思わず口に出た。

日本航空の雑誌「アゴラ」の11月号に「六本木ヒルズ、その後」という特集記事が載っていた。

「オープン後僅か2ヶ月で来場者1000万人を超えた六本木ヒルズ。『食事と買い物を楽しむ街』という情報が先行しているが、本来は住民、就業者併せて2万5000人という地方都市並の顔を持つ。開業して6ヶ月。暮らし、働く人々の六本木ヒルズを検証してみた」。居住者人口は2000人だという。

そのトップが地元で昔、金魚屋をやっていた再開発組合理事長の話だ。道幅が狭く消防車も入れず「以前は火事や天災が起こったら、どこに逃げようかと、そんなことばかりを考えていました」「安全な街になるのなら、ご先祖様も許してくれる」と決め、再開発に同意し、理事長も引き受けた。現在は41階の4LDKに暮らし、奥さんと娘さんの3人で太極拳を習う日々を過ごす。「再開発の話を頂いてから17年。当時は56歳だった僕も73歳になりました。完成するまでは一日でも早くと思っていましたが、今ではできるだけゆっくりと時の流れを感じていたいと思います」と語る。そんなことが書かれていた。

僕が麻布十番で地元の人から小耳にした話とはまるで違う。等価交換で部屋をいくつか手に入れた人たちは、部屋の家賃収入で生活する計画だったのに、借り手が見つからない。それなに自分の住んでいる部屋を含め、高い管理費だけは払わなければならない。固定資産税の負担もある。とても生活が成り立たないということで、このところ安値で叩き売って引っ越す人が相次いでいる。だから「表には出ていないけれど、えらく値下がりしているようですよ」という。

確証はないけれど、ありそうな話である。ちなみに六本木ヒルズ森タワーは地上54階、高さ238メートル、1フロア4500平米で、その主なテナントは、グッドウィルグループ、ゴールドマンサックス、コナミグループ、コムスン、サイバード、JWAVE、フレッシュネスバーガー、ヤフー、楽天グループ、リーマンブラザーズ(50音順)。何となく近寄りたくなくなる陣容である。

曼珠沙華、萩、金木犀

ところで先ほど麻布十番のハナミズキの話をしたが、それ以外にも都心の真ん中の身近なところで、結構、季節を感じさせる草花や花木が見られる。例えば、神宮外苑である。春はしだれ桜などが綺麗だし、夏は深緑そして秋は黄金の銀杏並木が見事だ。さらに今年は銀杏並木の外側のちょっと人目に付きにくいところに曼珠沙華まんじゅしゃげが咲いているのを見付けた。彼岸花とも呼ばれる通り、ちょうど秋の彼岸のころだ。

寺の境内や墓地によく咲いており、すごい毒がある、死人花とも呼ぶと聞かされていたので、子供の頃は、その燃えるような赤が血のように見えて気持ちが悪かった。「赤い花なら曼珠沙華 オランダ屋敷に雨が降る」という歌も、もの悲しさを駆り立てた。

赤い花なら 曼珠沙華まんじゅしゃげ
 オランダ屋敷に 雨が降る
 ぬ れて泣いてる じゃがたらお春
 未練みれんな出船の あゝ鐘が鳴る
 ララ鐘が鳴る    (「長崎物語」)

調べたら、曼珠沙華は中国原産で、確かに猛毒だという。中国では球根を砕き水に溶かし殺虫剤にしたり、球根を乾燥させた粉末をネズミ取りにしたりした。日本でも古くは土蔵の壁土に混ぜてネズミの侵入防止に使った。墓地に多いのはネズミや獣による土葬の死体荒らし対策のためだなどと書かれていた。やっぱり曼珠沙華の赤はただ者ではなかった。

四ツ谷から上智大学横の土手を通り、紀尾井坂へ出て、そこから弁慶橋へと抜けるルートも四季を通じて楽しめる。

花見スポットとしてすっかり有名になっている土手は、深緑の夏の早朝は絶好の散歩道になるし、枯れ葉の時期は都心とは思えない趣がある。それに紀尾井坂の銀杏並木、紀尾井坂と弁慶橋の間「紀尾井町通り」の八重桜も見逃せない。

さらに今年の秋には、「紀尾井町通り」沿いの清水谷公園で萩を見付けた。

清水谷公園は、大学時代はデモのメッカで、会合場所になっていた。その名残のように紀尾井坂で暗殺された大久保利通をいたむ碑がポツンと建っている、何となくうらぶれた所だった。取り残された雰囲気のところだった。

その清水谷公園が生まれ変わっていた。「清水谷」の名前の由来となった清水のく池も、碑の周囲も、遊歩道も、整備され、鬱蒼と草木の茂る雰囲気を残しながら見違えるほど綺麗になっていた。

そして清水にちなんだのだろう、玉川上水の水を各所に給水するためには木製の樋が使われたが、その分岐のために使われた大きな石枡も展示されていた。

ここで萩の花を見付けた。根本には藪枯しや猫じゃらしや蚊帳吊草などがい茂る。都心ではすっかり忘れられた風情である。無性に嬉しくなった。

そして自宅近くでも、横道に入ると、自動車の騒音は聞こえなくなり、金木犀の強い香りが漂ってきた。フッと子供の頃にタイムスリップするような懐かしさを覚える香りである。もう秋は深い。

もっとも自宅としている28階のマンションの部屋から下を眺めると、まったく異質の世界である。工事現場と、その合間の紅葉が目立つようになっている。

真下には、某銀行の会館後に野村不動産が建設していた6階建のマンションが間もなく完成する。その先の別の銀行の寮も更地とされ、先日、工事開始の儀式が行われた。さらに、その奥、矢印の箇所では三菱地所がマンション建設を進めている。ショベルカーやブルドーザが活躍している。ちょっと前までは某銀行の豪勢な会館が建っていた場所である。

遠く千葉方向には幕張の高層ビル群の左手にクッキリと人工スキー場「ザウス」の異様が見える。しかし、1993年の開業から約10年経って、いま解体が進められている。間もなく姿を消すだろう。

姿を消すのは「ザウス」だけではない。写真に写る低層の建物のほとんどが官公庁の宿舎と金融機関の会館や行員寮である。数年の間に、取り壊され、マンションなどとなり、風景は一変するだろう。

都心は絶え間なく、あたかも自律した意志を持っているかのように姿を変えている。その様子を眺めていると月日は過ぎてゆく。

          (2003年冬)