ぼちぼちいこか  高層マンションと機械式腕時計 PDF

伴 勇貴 2003年08月 

28階の高層マンション暮らし

以前住んでいたマンションから道路一つ隔てたところに出現した高層マンション───3年ほど前に建設工事が始まり、4棟の住居棟と病院やスーパーマーケットなどがあるコンプレックスが完成し、その一つ中の最高層の28階に入居した。

地震や火災などを考えると高い建物は危ない。なかでも高層階は逃げ場がなく危険である。この気持ちを払拭できず、職場の関係もあって、青山、麻布、白金、そして市ヶ谷のマンションを転々としたけれど、いずれも、4、5階建ての1階か2階だった。

しかし、目の前に高層マンションが出現し、興味本位で覗いたところ 、その中でも高層階に転居するハメになった。眺めが圧巻だった。ただ80メートルぐらい上昇しただけなのに、まったく違う風景が広がった。ただ高いところから見ているだけなのに、見慣れた風物が別世界を作っていた。それを眺めていたら、いずれ高輪の菩提寺に埋葬されるのだし、人生で一度ぐらい思い切り高層階で生活するのも悪くはないと思った。地震や火事があったら、それはその時のことだと割り切った。

付近一帯が都心でも有数の堅固な地盤で、関東大震災でもまったく被害がなかったことを知っていたことも即断を促した。大学時代に「地学天文研究会」というクラブに属し、関東地域の地質構造などを調べ回った。ベイエアリアや下町などは地盤が悪く、関東大震災クラスの地震に襲われたら一帯に相当の被害が出ることは間違いない。そんな場所だったら絶対に躊躇したと思う。

高層マンションの部屋は、新宿の夜景を堪能できる西向きか、遠くに東京湾を見る東向きのいずれかで、売りは新宿の夜景を楽しめる西向きの部屋だった。しかし、強い西日のマンションには懲りていたので、迷わず東向きの部屋を選んだ。

そして入居してから約3ヶ月たった。お陰で天気が良ければ、まぶしい朝日で起こされる健康的な生活になった。もちろん空気はホコリっぽくなくて綺麗だし、窓を開けっ放しにしていても蚊とか虫が入ってこないのも嬉しい。裸で歩き回っても気兼ねすることもない。

眺望は飽きない。天気が良ければ、筑波山から房総さらには三浦半島の山々まで見える。千葉方面では、幕張の高層ビル群とか、営業を止めた巨大な人工スキー場「ザウルス」も見える。お台場に移ったフジテレビの球体をつなげたような特異な形状のビルもキラキラと光って見える。

手前には後楽園のドーム球場とか回転展望レストランとタワーが目印のホテルニューオータニや上智大学の名前のある建物などが見える。右手には、広大な緑と、その緑に囲まれた迎賓館・東宮御所、東京タワー、そして話題の東京の新名所「六本木ヒルズ」の偉容が飛び込んでくる。

新宿の高層ビル群のきらめく夜景はないが、退屈しない。赤坂生まれの「江戸っ子」で、一時期、東京から離れたところに住んだが、学校も職場もズーッと都心。だから時間的に見れば、圧倒的に都心 ─── それも港区、千代田区、新宿区の三区だけで過ごしてきたが、最近、そこで改めて新発見している。上から眺めるようになって、この区域の中にも、ちょっと趣の異なる地域が「島状」に点在していることに気が付いた。

気になると止まらない。もうクセだ。結局、上から眺めて目的地の見当を付け、スニーカーを履き、ユニクロで買ったリュックサックを背負い探索に出る。上からの眺望で感じた印象と目的地を歩き回った印象とを重ね合わせ、時には江戸時代の古地図を引っ張り出しては、一人で合点がってんする。これが結構、面白く、やみつきになった。

高層階に住むと運動不足になると言われたが、この調子だと杞憂のようである。現在、平均1日1時間ぐらい、ぐっしょりと汗ばむぐらい歩いている。休みの日になると2、3時間歩くことも珍しくない。効果はてきめんで、足のだるさとか、ほてりとか、むくみのようなもの───夜になると気になっていたものが消えてしまった。

機械式自動巻腕時計

持ち歩くのは愛用のミノルタのデジカメ ─── 一眼レフのDimage 7と薄型コンパクトのDimergeX。栄養補給のためのブドウ糖、お気に入りの「深層水」のペットボトル、連絡用の携帯電話ぐらいである。

それに最近、機械式自動巻腕時計が加わった。親父の唯一の形見の時計である。親父が亡くなったのは1989年10月で、そろそろ14年経つ。以来、引っ越すごとに親父の遺品を処分してきた。しかし、機械式自動巻腕時計は、もう動かないのだが、親父が最後まで使っていた愛用のものだったため捨てられず、いずれ修理して使おうと残していた。

ところが機械式自動巻腕時計を修理してくれる店がなかなかなかった。知り合いの店の親父は高齢で引退していた。「時計修理」などの看板を掲げている店を見かけると入って相談したのだが、いつも「以前はやっていたのだけれど、もう歳なので出来ないので止めた」とか「お客もいないし商売にもならないので止めた。電池交換ならやるけれど」といった答えだった。

しかし、都心での散歩活動を初めて間もなくのことだ。牛込柳町の商店街で、小さな現代離れした雰囲気の時計屋を見つけた。ダメもとで店に入ったところ、直ちに可能性を感じた。無愛想な親父が修理道具に囲まれてポツンと座っていた。眼鏡越しに上目づかいでジロッと見る。逃げ出したくなったが、意を決し、古い機械式自動巻腕時計を修理してもらえるかどうか尋ねた。親父は無表情に費用がかかるが、それでも良いのなら引き受ける。しかし、修理するより新品のクオーツを買った方が得だよとつぶやく。それでもくじけずに、親父の形見なので費用はかかっても良いから直して使いたいと言うと、とたんに相好を崩した。

翌日、動かない時計を持って再び店を訪れた。時計を見て、これは部分が二重構造で内側に六角形の日付変更のためのプッシュ式のスイッチが組み込まれている特殊なヤツで交換部品はない。この方式の腕時計は、これ以外にはない。複雑な機構のもので上手く直るかどうかなど言いながら、自分なら何とか直せるという自信をチラつかせる。そして、たしか昭和44年(1969年)発売のものだなど延々と薀蓄を披露をする。

さらに自分の持っているオメガの機械式腕時計を見せ、オメガだと部品がズーッと用意されており、そこが日本メーカーと違うと自慢する。ついにはテレビ番組の制作に使われるストップ・ウオッチではスイスのミネルバ製の機械式が幅を利かせており、昔は良く修理の依頼があった。でも、フジテレビが移転し、その仕事もなくなった。もう修理は止めたいなどと初対面の僕に愚痴までこぼす。キリがないので、ちょっと用事があるのでと言って修理を頼んで店を出た。

時計屋の親父の話を聞いて、この腕時計の由来を思い出した。僕が就職したのが昭和43年(1968年)。翌年、初めて真っ当なボーナスをもらったとき、それをはたいて贈ったセイコーの最新鋭自動巻時計だった。親父は、毎日、ラジオの時報に合わせて時間を直しながら古い腕時計を使っていた。その親父が、悪いなと言いながら、とても喜んだ顔を思い出した。

給料が2万円に満たないときで、たしか給料と同じぐらいの値段だったように思う。親父は、それ以来、30年あまり使い続けていたのかと、修理が終わり、正確な時を刻むようになった時計を腕にして感慨にった。

時計屋の親父の言葉を聞いたもので、改めて、このセイコー・プレスマティック・ハイビートという腕時計に興味を覚えた。時計マニアの人は多いのだからインターネット上に何か情報があるだろうと検索を行った。数は多くはなかったけれど、関連の情報はいくつか集まった。

セイコー発売の時計の仕様一覧が載っているホームページがあった。その中から1969年までに発売された自動巻式のもの選んだのが次表である。「キャリバー」とは心臓部のムーブメントのこと。この表にある時計は、いずれも機械式で、いわゆるクオーツが出てくるのは、この数年後である。

この表を見て、改めて当時としては最新式のものを気張って親父にプレゼントしたことを実感した。

しかし、何故かマニアの間では人気がなく「骨董品」としての価値はないらしい。

「リューズが二重になっていて中側を押し込むと日付が進むようになっています。私の知識では、他でこの構造は見たことがありません。HI-BEATはGSやKSと同じで、とても正確です。しかも日付曜日は0時ジャストに替わります。なぜこの時計が高級時計の仲間入りしないのか ……… 私が思うに名前が悪いのでしょう。クイーンセイコー(女性用じゃない?)とかセイコープレジデントなんて名前が初めから付いていたら確実に万円クラスの性能です」と、マニアの「私の時計店」に写真付きで紹介されていた。それでもオークションなどを見ると、もちろん状態によるのだろうけれど、3万円ぐらいで取引されているようである。

これに比べると、たしかに時計屋の親父が言っていたスイスのミネルバ製の機械式ストップ・ウオッチの人気は高そうである。インターネット上にも情報が氾濫していた。

ミネルバは1858年創業の伝統的なスイスの機械時計メーカー。現在でも昔と変わらない自社生産体制を堅持。自社ムーブメントを製造するスイスでも数少ないメーカーだという。第二次世界大戦中、軍用時計製造で定評を獲得し、戦後、高精度の腕時計、クロノグラフ、ストップ・ウオッチの製造に乗り出す。とくに独特のコイルバネを使用したストップ・ウオッチやクロノグラフは多くの時計愛好家の支持を得て、アンティーク・ウォッチ市場では人気のブランドである───だいたい、こんな内容のことがあちらこちらに書かれていた。

もっとも2000年末、ミネルバ社はマネーゲームの対象となり、イタリア人に買収され、社長以下優秀な技術者も辞め、今後は、これまでのような良心的な時計生産は絶望的だろうという見方がされている。どこの国も事情は同じようである。

自動巻とは言っても機械式時計は世話がかかる。「少なくとも1日8時間は腕にしていないと止まるよ。多分、それでも少し巻きたさないと駄目だよ」と、時計屋の親父は動き出したプレスマチックを手渡しながら言った。その通りだった。気が付いたら止まっていた。ネジを巻くという行為を忘れていたことに気が付いた。

しかし、最近、ようやく昔の習慣を取り戻し、ネジを巻くことが再び生活の一部になりつつある。そして、その機械式腕時計を着けての散歩とで日常生活に一定のリズムが生まれるようになっている。

先日の休日には、時計を見て、もう1時間ぐらい歩こうと決めたら、赤坂の檜町公園に着いた。迎賓館から豊川稲荷へ抜け、赤坂市役所から乃木坂に出たところで、再び裏道から六本木へ抜けようとしたところにあった。

公園の沿革を説明した看板があった。元は毛利氏の中屋敷で、 邸内に檜が多く「檜屋敷」と呼ばれ、それが町名の由来だという。明治4年(1861年)に国の管理地となり、明治7年(1874年)歩兵第一連隊のとなり、戦後は一時米軍に接収され、防衛庁の設置の後、この部分は昭和38年(1963年)に都立公園なったなどと書かれていた。

これを読んで、直ちに、ここが、親父が徴兵され、2年間の兵役についた赤坂歩兵第一連隊のだった場所だとわかった。僕の誕生の地(本籍)は近いし、そこと第一連隊にまつわる話もいろいろ聞いていたからだ。周囲の地図を眺めても話の通りだった。

その後、親父は召集され、肩から背中にかけての貫通銃創を受けながらも奇跡的に命をとりとめ、生還した。もし親父が、そこで戦死していれば、僕は、この世にいなかった。公園のベンチで汗を拭き、ペットボトルの水を飲みながら、不思議な巡り合わせを感じた。これも親父の時計を使うようになったからなのかと思った。

――――――

公園には池があり、20人あまりの人が釣りをやっている。のどかな昼下がりである。とても都心にいるとは思えない。しかし、見上げると、「六本木ヒルズ」が木立の合間に聳えていた。それで都心の、それも六本木のに近いところに居ることに気が付いた。

(2003年夏)