ぼちぼちいこか 様変わりするカンボジア PDF
伴 勇貴 2003年03月
様変わりするカンボジア
このところ海外に出かけるとなると、何かと「間の悪い」ことが多い。一昨年、訪欧した時は、9・11事件の直後の13日だった。ロンドンのヒースロー空港で酷い目に遭った。今年2月にタイ・カンボジアに行ったときは、前日は恒例の、そろそろ30年を迎えようという年1回の会合の日だった。痛飲し、寝ぼけ眼で空港に向かうハメになった。
これだけなら「まあ、しょうがないなあ」と済ませることができるのだけれど、この3月に再びタイ・カンボジアに行くと決まったら、タイの人気女優が「アンコールワットはもともとタイのものだ」と発言したことから、カンボジアの首都プノンペンにあるタイ大使館が焼き討ちに逢うなどの騒動が起こった。続いて、ついに米国がイラク攻撃を開始した。気持ちの晴れないなかで、成田に向かうことになった。
そんなときは悪いことが続くものだ。成田空港への高速道路の分岐点をうっかり通過してしまい、佐原インターまで行かされた。余裕を見て出たのに空港に着いたのはギリギリだった。また「ピンクの象さんワッペン」を貼られて急げ、急げとせかされる恥ずかしい思いをするのかと観念したところ、成田は閑散とし、荷物検査も簡単に終わり、何とか普通に乗ることが出来た。同行Mさんともゲートで出会うことができた。何事もなかったかのように挨拶を交わし、別れて自分の座席に向かった。シートベルトを締めたとたん、どっと疲れた。
海外に出かける時には、最近は、ノートパソコンの代わりに、買いだめした本を5、6冊持って行くことにしている。でも今回は、バンコック到着まで約6時間もあるのに、ページをめくる気分になれなかった。見たい映画もなかった。隣はいかにもタイに遊びに行くという風情の中年男性だ。ウキウキしてバンコックの歓楽街の案内などを読みながら、何かと話しかけてくる。煩わしいので、音楽を聴きながら狸寝入りを決め込んだら、そのまま寝込んでしまった。
見違えるカンボジアのプノンペン空港
以前はバンコックに行く度に、その目覚ましい変容ぶりに驚かされた。しかし、中国とかカンボジアなどもっと激しい変化を目の当たりにする機会が多いためか、感慨が薄れてきている。年齢のためだけとは思えない。人間はより強い刺激を求めるようになるというが、多分、それだと思う。日本に比べれば、はるかに活気に溢れているのに、それがピンと来なくなってきている。井口さんなどと逢って用事を済まし、談笑しながらちょっと珍しい美味いものでも食べる機会に恵まれればもう十分という気持ちに変わっている。この2月に大勢でバンコックに来たときも、大部分の時間をホテルの部屋で横になって本を読んで過ごした。ところが用事を済まし、バンコックからタイ航空でプノンペン空港に着いたら驚きの連続だった。
約1年前に立ち寄った時にも、プノンペンの街中、トンレサップ川とメコン川が合流する付近にある川沿いの小綺麗な公園で、楽しそうに散策する人々の姿を目にして胸を打たれた。
内戦の傷が生々しく残る薄暗い街と物乞いの子供たち、共同通信社の人が亡くなる事件も起きた内紛再発に遭遇して緊張の日々を過ごしたことなど、何回かのプノンペン訪問での記憶が忘れられないでいたからだ。
しかし、その当時は、空港はまだ国際空港とは名前だけの平屋の粗末な建物だった。今回もまた機体からタラップで降り、コンクリート路面からの暑いムッとする照り返しの中をトボトボと通関の平家の建物まで歩かされるものと覚悟していたら、機体が新築の建物に横付けになり、そこから「蛇腹」が伸びてきたのには言葉を失った。
聞けば昨年、プノンペンで開催されたアセアン会議のために突貫工事で作られたのだという。荷物のピックアップ・コンベアもある。建物を一歩外に出ても成田や羽田も顔負けのな雰囲気である。物乞いや客引きなどで溢れていた場所だとはとても信じられない。
戻りの時にも驚かされた。免税店や飲食店もあるし、ビジネス客用のサロンもあった。用意されていた飲食物は文句を付けようがなかった。
このところサービス低下の著しい日本のエアラインよりも遙かに心地良いものだった。もっとも、まだ整備中で、ショーケースだけの店舗が目に付いた。でも、あと数ヶ月後には土産物屋で溢れているだろう―――そう考えておかなければ、また驚かされることは間違いないと思った。
プノンペンにもラッフルズ・ホテル
空港から市内までの道の舗装も整備され、両側に立ち並ぶ建物からは弾痕など戦争の痕跡が消えていた。タイ大使館やタイ系企業に群衆が殺到し、投石し、焼き討ちする様子がニュースで流された。だが、その跡は言われれば分かる程度のものにすぎなかった。やっぱり映像報道の魔術だった。街は何事もなかったかのように活気に溢れていた。急増したバイクの往来で混雑する大通りの交差点には、信号が変わるまでの時間をデジタル表示する最新式信号機が付いていた。
繁華街を抜けると両側に大きく育った街路樹がある通りが広がっている。ガタガタに荒れていた道が見違えている。美しい街並みから、かつては「東洋のパリ」とか「小パリ」と呼ばれていたそうだが、それをさせる雰囲気が生まれてきている。
これまでプノンペンを訪れた時はトンレサップ川沿いある大きなホテル・カンボジアーナを定宿としていた。まともなホテルはここしかなかった。内紛再発時もここに宿泊していた。一夜明けたら、ホテル周辺に緊張した面もちの兵隊が展開していた。ホテル関係者も事態が飲み込めず、ただオロオロしていた。遠くから爆発音のようなものが聞こえた。携帯電話もなかなか繋がらない。そんな中を寅さんと、顔なじみになった現地の案内人と一緒に政府関係者などに会うためにウロウロしたことを昨日の出来事のように覚えている。
ところが今回の宿泊先は違った。ホテル・ル・ロイヤルというところだった。着いて驚いた。建物自体は記憶に残っていた。荒れ果てて進入禁止の柵があったように思う。それがフランス時代の面影を残す格式の高いホテルに生まれ変わっていた。一歩、建物中に入って、天井の吹き抜けに見とれ、まさに狐に化かされたような気分だった。部屋に案内され、初めてラッフルズ系列のホテルであることが分かった。アンコールワットのグランド・ホテルとまったく同じ内装だった。
置いてあった説明書を読んだら、建物自体は1929年開業の多くの著名人が愛用したホテルで、それをラッフルズが買い取り、面影を残しつつ全面的に改装し、1997年から営業を再開したのだという。アンコールワットのグランド・ホテルとほぼ同じ時期に開業していた。
そして同じように欧州各国からの旅行客で混み合っていた。プールサイドで読書と日光浴をのんびりと楽しむ光景も同じだった。もちろん泳いでいる人もいた。つい数日前まで寒い東京にいたのが嘘のようである。滞在中、時間を見つけ、プールサイドで上半身裸になってマルガリータを飲みながら、数時間、読書で過ごしたのは言うまでもない。
昔ながらだったのはメコン川流域の低湿地帯にあるレストランぐらいだった。スイレンが咲き競う沼地に打ち込まれた、たくさんの木の杭の上に作られている。道路からは桟橋のようなものが伸びている。雨期になると水に浮かぶレストランのようになる。
ここで食べたエビやカニは最高だった。カニ青胡椒煮、いわゆるペッパー・クラブは絶品だった。フォークとスプーンを一緒に出される熱湯の入ったコップに浸け、皿はティッシュで拭くという作法で食事する。とりあえず殺菌・除菌のためだ。でも、気休めにすぎず病気の心配はなくならないが、食べ出すと、不安など吹き飛んでしまった。すっかり好物になった淡水魚の干物を肴にアンコールビアでの乾杯は至福のひとときだった。
アンコールの遺跡は人の群れ
ところで今回の一行は、ここプノンペンから帰路につくグループとさらに上知大学・石澤良昭教授の案内でアンコールワットにまで行くグループとに別れた。石澤先生から頼まれている小論の校閲も残っていたし、それに先月に来た時の印象がまだ強烈に残っていたもので、僕は迷うことなく帰国組に入った。
先月、アンコールワットに来た時には、まずプノンペン空港と同様、シュムリアップ空港が様変わりしていたのに驚かされた。昨年春に来た時に工事中だったの改装されることは知ってはいたが、完成したのを見るとやはり驚かされた。それまでは国際空港とは言うものの、とても空港とは思えない粗末な平屋がポツンと一軒立っていただけの姿が脳裏に焼き付いていたからだった。
コンクリートの管制塔はあるし、建物には冷房も入っているのだからビックリだ。しかも、大きくなって職員なども増えていたのに、それ上回る観光客の急増で混み合っていたのには圧倒された。欧米や中国からの大勢の団体客で入国手続きは混乱していた。長い列の後ろに並ばされ、延々と待たされた。初めての経験だった。これは大変なことになるかもしれないと思った。そして、この予感は、事実、その後、次々と的中した。
当時の生き生きとした庶民の生活などもうかがえるレリーフと四面仏で有名なバイヨンでは、観光客が列を作っていた。とてもゆっくり楽しむ雰囲気などない。日本の展覧会場で後ろから押されて歩かされるようなものだった。
あえて修復せずに、発見された当時の巨樹と遺跡の激しい攻防の様子を残してあるタプロンも同じだった。大勢の観光客と回っていると遊園地で「作り物」を見ている気分になった。人影のほとんどない中で、自然の力に改めて感動を覚えた頃が懐かしくなった。
アンコールワットの石畳の表参道には、前の駐車場にひしめく観光バスからゾロゾロと降りてきて、強い日差しを避けるためパラソルを開いて歩きだす観光客がたくさんいた。アンコールでパラソル。初めて見る光景だった。
駐車場はさらに拡張され、その向こうには気球が上がっていた。聞けば、上空からアンコールワットを眺めるためのもので、結構、はやっているという。陳腐な観光地の雰囲気が漂い始めていた。
アンコールワットの有名な回廊の壁画とか、頂上までいく階段なども観光客で溢れていた。ガイドの説明や行き交う人々の会話───英語、フランス語、ドイツ語、中国語、韓国語そして日本語が、それも大声で飛び交っていた。日が沈んでいくなかで、柄になく荘厳な雰囲気に圧倒されたのが嘘のようだった。
夕暮れの眺望が素晴らしい自然の小さな山、プノンバケンはさながら槍ヶ岳の山頂のようだった。もう何度も登っているけれど、昨年、登った時には唖然とさせられた。石澤先生と二人だけで山頂で地平線に沈む真っ赤な大きな太陽を見ながら物思いに耽った場所とは、とても思えない。しかも、今回は、もっと酷く、昨年とは比較にならない混雑だった。麓では観光バスが駐車場から溢れていた。それを見た瞬間、山頂に行くことは断念した。バスの中で、一行の帰りを待つことに決めた。
アンドレ・マルローが、若い頃、盗掘を試み逮捕され、その体験を基にした小説「王道」の舞台となったバンテアイスレイも興ざめな状況にあった。何故だか分からないが、スイス・グループが発掘作業をやっていた。すでにフランス・グループが手掛けて完了している場所だし、手付かずのところが山のようにあるにもかかわらずだ。売名行為としか思えなかった。遺跡保存修復の国際競技場と言われるアンコールワットならではのことだと思った。せっかくの遺跡を台無しにしていると腹立たしくなった。そこに場違いの日本のフィルムメーカーの広告が目に飛び込んできから、不愉快の極値に達した。
輝く子供たちの瞳
初めての人はともかく何回も来ている僕にすれば、カンボジアの人々が平和の中で生き生きとしてきていることは嬉しい限りだが、アンコール一帯が無秩序に俗化し、環境が破壊されてきているのを目にするのは心痛む日々の連続だった。唯一の救いは、観光スポットをちょっと離れると、まだ豊かな自然と素朴な人々の生活に触れることができたことだった。
バンテアイスレイからの帰り道だった。道に沿って発展した村落や、かなたまで広がる水田などの風景に見とれていたら、道沿いに砂糖椰子から作った粗糖を売る売店があった。聞けば、一帯は砂糖椰子の特産地だという。
ココナッツなどの椰子とは違う種類の椰子で、この椰子の実の付く茎の部分を切り、そこに瓶などを付ける。するとヘチマ水のように瓶に液体が貯まる。それを集めて煮詰めると粗糖が出来る。
コーヒーなどに入れて飲むと、なかなか美味いという。シュムリアップの市場で試飲したことはあったが、砂糖椰子の実は見たことがなかった。適当なところで車を停め、買い求めることになった。
ある売店の近くで車を停めた。試食を始めたら、あっという間に子供たちが集まってきた。どこからともなく湧いてきた感じだ。一行10人あまりが買いだしたもので、大騒動になった。わざわざ赤ん坊を抱いて出てきた女性もいた。最後には大勢での記念撮影とあいなった。
「今日の売上げは大変で、今晩はお祝いだろう」、「寄ってきた子供は孫じゃない?!」、「気が付いたら子供に囲まれていた!」など、バスに戻っても一行の興奮は収まらなかった。誰もが無邪気な子供たちの姿に心を打たれたようだった。ホテルに着くまで話は尽きることがなかった。
─────────
ところで今回の一行の目的の一つは、アンコール遺跡の環境問題の現状視察だった。石澤先生を団長とする上智大学アンコール遺跡国際調査団はカンボジア人の手による遺跡の修復保存を旗印に活動を続ける同時に、環境問題を考慮した「遺跡・村落・森林との共生プロジェクト」を進めてきている。昨年は、アンコールワット表参道やバンテアクデイの修復保存などを地道に続けてきたなかで、バンテアクデイから「300体あまりの廃仏」を発見するなど華々しい出来事があった。だが、観光客の急増などもあって環境問題の発生を積極的に防止する方策を講じないと大変なことになるという危機意識は強まるばかりで、微力ながらも問題解決に貢献しようというのが今回のカンボジア訪問団の目的である。
調査団の拠点、シュムリアップにある研修所も訪問した。今年度から上智大学アジア人材養成センターの本部となる施設だ。そこで、これまでの活動などについて説明を受けるとともに、発掘した廃仏なども見せていただいた。
アンコールワット表参道の修復だけでも、少なくともあと3年ぐらいはかかる。やると決めた以上、少なくとも100年ぐらいは保つものにしないと、後の人に笑われるから・・・・・・・・・現場担当のTさんに説明されると、二の句がつげない。
石澤先生となると、「アンコールはあと数十年やっても終わらないでしょう」とこともなげに話す。もう20年以上もやってきている人に、軽く言われると、「そうですか・・・・・・・・・」としか言葉が出てこない。
こんなやりとりを横目に、研修所に迷い込み、いつの間にか、いっぱしの番犬のように振る舞っている犬は、風通しの良い階段の途中に陣取ってウツラウツラしていた。「ドッグイアー」という言葉があるくらいだ、やはり古いことには関心がないのだろう。
本当に蛇足だが、この3月の帰りの機に、奮発して買った4000円以上もした本を忘れてきてしまった。家に戻って気が付き、慌てて問い合わせたけれど手遅れだった。機中の本は読み終わったものとして廃棄するのがマニュアルだそうだ。終わりも悪かった。