ぼちぼちいこか 米ワシントンの温泉 PDF
伴 勇貴 2003年04月
米ワシントンの温泉
去年の秋、米国に出かけた際、前々からワシントン在住の多田さんに聞かされていたワシントン郊外の「温泉」に立ち寄った。
「ワシントンに本当の温泉があるんですよ。車で1時間くらい離れた郊外にあって、湯上がりに浴衣で一杯やると、これはもう最高! 朝飯にはシャケの塩焼きとか海苔なんかが出るんですよ」
そんな話を聞かされたうえ、当時ワシントン駐在で、ニュースステーションにも出演していた友人の高成田さんなどとほろ酔い加減の浴衣姿で大満足という写真も見せられた。一昨年のものである。しかも、それはちょうど僕がニューヨークに出かけ、帰りにワシントンに寄るかどうか思案した時期のものである。みんな忙しそうなので、僕はニューヨークから日本に戻ったのだが、聞けば、まさにその時、数人で「温泉」に行ったのだという。
写真を見て、「ズルい!」と思わず叫んだ。
ズルいのは多田さんでも高成田さんでもない。もう一人、もっとも嬉しそうに写っていたNさんである。Nさんは当時ニューヨーク駐在だった。それで僕はニューヨークで会おうと思ったら、ちょうどその頃、用事があってワシントンに数日いるという。そして「良ければワシントンまで来ませんか?」という。しかし、仕事を邪魔してはいけないと思い、「忙しそうなので今回はまっすぐ帰ります」と答えたからだ。
ところが、その時に「温泉」に行ったのだという。満面に笑みを浮かべ、その話をNさんは日本に戻って来たときした。「だからワシントンに来ませんか、と言ったじゃないですか ――― 」とニコッと笑う。「でも、忙しそうだから、詳しく言わなかったんですよ」と続ける。で、最初に「ひどいじゃないですか!」とは言ったものの、次の言葉が出てこない。
出てきたのは「こんど絶対に行くから!」という子供のようなセリフだった。そして、その機会がついにやってきた。嬉しくてたまらない。馴染みの居酒屋で、友人の作家の杉田望氏と一杯やっているとき、ついついその話を漏らしてしまった。
「今度、ワシントンの温泉に行くんだ!」
「ワシントンの温泉?」
「そう、ワシントンに温泉があるんだ!」
「高成田さんなども行ったんだって!」
「そうか、俺も行こう!」
「エエェ ――― !」
「ちょうど次の小説の取材で行こうと思っていたんだ!」
「エエェ ――― !」
もう完全に、一緒に行く気分である。こちらは仕事があって、その隙間に休養を兼ねて行くので遊びではない。それに杉田と旅行すると、楽しいのだけれど、何かとトラブルが起こる。純粋に遊びで行くならともかく、今度は仕事だし、一緒になるのには躊躇した。しかし、もう手遅れである。
「仕事があるの ――― 。そう、それじゃワシントンで会おう」
「温泉は一泊だよね。ちょうどいいやあ。俺は、あと取材で二泊ぐらいするか」
「ワシントン、それからボストンに行くか」
「ボストンまではすぐだよね」
話を1人でどんどん進めている。酒もグイグイ飲んでいる。そして、今度、書くという小説の話を始める。「そうだね、現地を見てこないと臨場感が湧かないよね」と相槌を打つしかない。
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「ちゃんと着いたかな ―――」
こちらはニューヨークから国内線に乗ってロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港に入った。杉田は成田からダレス国際空港に先に着いているはずである。その杉田を多田さんが迎えに行って、ピック・アップし、それからナショナル空港に来てくれることになっている。
乗り継ぎがない直行便 だから、間違うはずがない。でも、9・11のあと、セキュリティが厳しいだけに、何かトラブルでも起こしてなければいいが ――― と、気になる。変なところを頑張るクセがあるからだ。
しかし、何も心配などする必要はなかった。空港で待っていると、いつもとまったく同じスタイル、ジーパンとTシャツにジャケット、それと小さなリュックと手提げバッグ一つというスタイルで多田さんと一緒に現れた。元気そうである。「荷物はそれだけ」と聞くと、得意げに「そう、これだけ。検査も簡単だった」と胸を張る。米国会議事堂の前の姿である。
アパラチア山脈の麓
頭に最近は天気予報でも衛星写真が使われるくらいだから、自分の目で見たことはないにもかかわらず、いつの間にか頭の中に様々な鳥瞰図のイメージが入っている。ワシントンの「温泉」と聞いた途端に浮かんできたのも、そんな中で頭にこびりついた北米大陸の鳥瞰図である。
だいたい次のようなイメージである。北米大陸の東海岸に沿ってなだらかな山脈が続く。「アパラチア山脈」である。それを越すと西部劇の舞台。バッファローがうようよしていた広大な「大平原」―――今は巨大な農業地帯 ――― があり、そこをミシシッピー川が流れる。
ミシシッピーの流れはメキシコ湾に出る。河口にあるのがニューオリンズ。「ショーボート」や「トムソーヤ」の世界である。さらに西に進むと巨大な「ロッキー山脈」にぶつかる。「西部開拓」や「大陸横断鉄道」などに関する話や映画などに登場し、数多くの難問の続出した地域である。それを越え、さらにもう一つ「シェラネバダ山脈」を越すと西海岸に辿り着く。この二つの山脈に挟まれた平坦な地域は、かつて日本から移住した人たちの活躍もあって農業地帯となったところである。サクラメントなどの都市があり、「ナパ・バレー」などワインの産地でもある。いまふうに言うと「風力発電」のメッカとなっている地域である。
そんなことが、直ちに頭に浮かんだ。高校時代、なぜか「地理」に熱中し、しかも3年の担任が「地理」で、また大学に入っても専門とは無関係に「地文研」というクラブに入り浸っていたためだろう。で、ワシントンの「温泉」と初めて聞いたときには、驚いたけれど、多分、それは「アパラチア山脈」の麓だろう。そこなら「温泉」があるとしても、まったく不思議ではないと思い直した。
アメリカの風土の骨格になっている3つの山脈 ―――「アパラチア山脈」、「ロッキー山脈」、「シェラネバダ山脈」のうち、僕が放浪したり、近くまで行ったりしたのは「ロッキー山脈」と「シェラネバダ山脈」の二つだけである。「アパラチア山脈」は上空から見ただけである。「温泉」もさることながら、地上で身近に、どんなところなのか実感したかった。
今は本当に便利である。昔は、こんなことを思ったら、地図帳を見るしかなかった。それも図書館に行って分厚い地図帳を見るしか術がなかった。ところが、時代は変わった。インターネット上で、直ぐに調べることができる。回線速度も速くなったため、その操作に苦痛も感じない。先に紹介したのも、ネット上で得たものだし、同じサイト上で、もっと詳細な地図も得られる。
これを見て、ワシントンから少し西に行けば、「アパラチア山脈」の麓につく。そして「アパラチア山脈」と言っても単一のものではない。地殻の複雑な造山運動・褶曲運動の結果、幾つもの山脈が重なり合っているということを知った。僕にとっては新しい発見である。
だから、杉田が無事、ワシントンに到着したことを確認したら、もう気分は「アパラチア山脈」に移ってしまった。その姿を地上から見たいということにしか関心はなかった。
「シェナンドア」の地
多田さんの運転で、僕らは直ちに目的地に向かう。途中、ワシントンでちょっと時間を使った。だが、それも早々に切り上げる。すべては明日以降にし、ともかくラッシュ・アワーを避けることにする。ひたすらワシントンから州間高速自動車道路六六号線で西に向かって走った。途中、休息を兼ねて、「マック」でコーヒーを飲みながらポテトを食う。
しかし、アメリカはやっぱり広い。近いと思ったけれど、目的地までの距離は200キロ以上もある。東京から沼津ぐらいの距離だ。到着時間が中途半端になるので夕食は頼んでいない。
途中にちょっと美味いレストランがあるので、そこでゆっくり夕食したいと多田さんはいう。南北戦争以前までに遡る歴史を持つ街があり、そこで唯一のホテルのレストランがなかなか良いという。興味津々で、まったく異存などない。
それはバージニア州の「ストラスブルグ」(Strasuburg)という街にある「ホテル・ストラスブルグ」のレストランだった。名前はドイツ風で、やや心配になる。それを察したのだろう。「南北戦争フェチ」の多田さんらしく、時代まで遡り、その由来から語り出した。
昔、病院だったところで、それをホテルに改造したのだという。食堂は診察室、客室は病室だったという。逆に、ますます不安を募らせた。
しかし、結論は、アメリカの料理とは一味違う欧風の手の込んだものを出す。それを知っていてワシントン在住の人たちも来る。何人もの日本人を連れてきたけれど、異口同音に美味いと言ったということだった。たしかになかなか美味い。話も弾む。
この辺りには南北戦争の激戦場があちらこちらにあるという。たとえば、このストラスブルグの隣町「ウィンチェスター」(Winchester)は何十回も北軍と南軍による占領が繰り返された。街の住人は両方の旗を持っていて、それを状況に応じて掲げたという。旗が敵味方の識別になる ――― そんなことにアメリカ人の国旗好きが由来しているのではないかともいう。西部劇でお馴染みの「ウィンチェスター銃」を連想させる地名の街である。近くには「シェナンドア渓谷」(Shenandoah)という南北戦争の勝敗を分けた戦闘が行われた要衝の地もある。一帯は、いまは美しい「シェナンドア国立公園」になっているという。
多田さんの独壇場である。
気が付けば、もう夕暮れになっていた。ホテルを出ると、古い街並み越しに美しい夕日が見えた。思わず見とれる。時間が止まる。とてもワシントンから1時間あまりの場所にいるとは思えない。アメリカにいるとも思えなかった。
突然、大学時代にコーラス部で時々歌った「シェナンドア」のメロディーが頭の中を流れた。
「Oh, Shenandoah, I long to hear you. Away, you rolling river! Oh, Shenandoah, I long to hear you, ・・・・・」
それ以上は思い出せなかった。美しいメロディーのアメリカの古い民謡、船乗りたちの愛唱歌で、調べたら、次のような歌詞だった。
Oh, Shenandoah, I long to hear you. The white man loved an Indian maiden, Oh, Shenandoah, I love your daughter, Farewell, my dear, I'm bound to leave you. この歌詞だと、「シェナンドア」は、「美しいインディアン娘」を指すように思える。だが、たしかいろいろなバージョンの歌詞があって、「川」の愛称であったり、「インディアンの酋長」であったりもする ――― そんなことだけは覚えていたもので、このときは、「シェナンドア」は、僕たちが近くまできている「川」のことを指しているに違いないと感じた。理由はない。
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夕闇の中の山小屋
「さあ、行きましょうか」と声をかけられ、現実に引き戻された。「そうだ、温泉に行くんだ。湯上がりの一杯だ」と、急にウキウキする。そして車に乗り込む。まだ数十キロ残っている。
やや狭い道路に変わった。綺麗に舗装された道だが、僕たち以外に走っている車はほとんどない。夕闇の迫る中で、何度も来ている多田さんもやや自信がなくなったらしい。「たしか橋があるはずで、その二番目の橋を渡ると、すぐ右に入る細い道があり、そこが入り口になので注意して見ていて下さい」という。蛇行する道を走るうちに、僕もなんだか多少心細くなる。
注意していたけれど、やっぱり行き過ぎてしまった。「そうだ、さっき通り過ぎたところだ」と多田さん。Uターンして引き返す。たしかに「橋」とは言えないような小さな「橋」があり、その横に細い砂利道があった。「ここだ、ここだ。さあ着きました」と多田さんは自信を取り戻し、真っ暗な森の中の砂利道を進む。とても建物に繋がる雰囲気の道ではない。もちろん街灯などない。「いったい、どんなところなのだろうか」と興味をそそられる一方で、心配にもなる。
ところが「この道、ここの経営者が自分でブルドーザーを操縦して作ったんですよ」「このあたり一帯が全部、彼の敷地なんですよ」と、多田さんはますます嬉しそうである。不安がだんだん大きくなったところで、道は大きく左に回る。すると「ほら、あそこです」という。
灯りが見えた。山小屋のような建物である。近づくと、入り口には「暖簾」のようなものがかかっている。それには「ひらがな」で「ゆ」と書かれていた。建物は山小屋風だが、明らかに「温泉」である。
「よくいらっしゃいました」
「お待ちしておりました」
「さあ、お上がり下さい」
「階段に気を付けて下さい」
女主人がニコニコとして現れた。日本人で、アメリカ人と結婚し、彼が退職したのを契機に、退職金などをはたいて「温泉旅館」を始めたのだという。そんな世間話をちょっとした後、直ちに風呂に飛び込んだ。
ここが目的の「ペンブロック泉荘」である。どんなところかは、そのホームページの写真を見れば、だいたい想像がつくだろう。
(http://www.bbonline.com/va/pembroke/index.html#top)
すでに日本を発って1週間近く経つ。それに日本でも、最近はそんなに頻繁に温泉に行っているわけではないので格別だった。湯船はプールのような風情だったが気持は良かった。術後、数年間は療養のため頻繁に、あちらこちらの温泉に通った。それで、すっかり温泉の虜になり、以来、温泉に身を沈めると、条件反射で気持ちが解放されるようになっている。
しかも、今回はワシントンで温泉に浸かっている。考えれば考えるほど興奮した。その興奮がおさまってきたら、フッと、本当に「温泉」なのだろうかという気持ちに襲われた。やや温度が低かったのと、日本の温泉のように湯が湧き出てはいないからである。それで、これは「鉱泉」で、多分、「沸かし湯」なのだろうと思った。
湯上がりに女主人に聞いたら、出てくる湯の温度は摂氏35度前後で、少し低いため沸かしているのだという。やっぱり「沸かし湯」だった。気分は良かったので、それ以上、話題にはしなかったが、戻って「温泉」の定義について調べた。そうしたら、僕は誤解していたようで、「ワシントンの温泉」は正真正銘の温泉だった。
「温泉」――― 温かい水が地中から湧き出してくる現象。一方、温かくはないが、鉱物質を多く溶かしている場合は通俗的に「鉱泉」とよぶ。これらの両者をあわせて、広い意味の温泉という。一般に、普通の地下水の温度はその土地の年平均気温より摂氏1~4度、高い。
したがって、それ以上の温度の水が地下から出てくるときは、地下になんらかの特殊な熱源があると考えてよいので、自然科学的な意味では温泉である。しかし、この定義では、場所ごとに温泉でありうる温度が異なる不便があるので、国ごとに限界温度を規定している。
たとえば、日本、南アフリカ共和国では摂氏25度、イギリス、ドイツ、フランス、イタリアなどヨーロッパ各国では摂氏20度、アメリカでは摂氏21.1度(華氏70度)以上を温泉としている。(「日本大百科全書」小学館)
天の川と厚手のハムとウズラの卵の目玉焼き
いよいよ湯上がりの一杯の時間である。ベランダのテーブルに陣取って、浴衣姿で豆をつまみに心おきなくビールを飲む。はらわたにしみわたる。辺りは真っ暗、満天の星である。大空の端から端まで、きっちりと天の川(ミルキー・ウェイ)。文字通り、大空にミルクが流れている。もう、日本では、なかなか目にすることができない光景である。星を肴にビールも話も尽きない。
旦那が強力なサーチライトを片手に現れる。ややぎこちないけれど、きちんと日本語を話す。「これで照らすと、鹿とか狐とかの目が光って見える」「あの餌場に良く来る」と言い、照らし始めた。数百メートル先の暗闇が浮かび上がる。草原と、その奥に森が続いていた。
サーチライトを置いていったので、一同、代わる代わる、それで子供に戻って遊ぶ。飲みながら遊ぶ。「彼、昔CAIに勤めていて、日本をはじめアフリカなど世界各地を転々としたらしい」と多田さんが言う。「高成田さんが、それを聞いて、きっと、さっきの草原の下には秘密基地があるに違いないと叫んで喜んだ」と、話をさらに面白くする。
詮索しだすときりがない。こういう話は杉田も大好きである。夜は更け、星はますます輝きをます。時折、星が流れる。
すがすがしい朝を迎えた。朝風呂に入ってから朝食となる。風呂は一階にある。朝食はいったい何だろう、と期待に胸を膨らませて食堂のある2階に上がったら、テーブルの上には盛り沢山の「洋食」の朝食が並んでいた。
シャケも海苔もなければ、米粒もない。代わりに、ものすごく分厚くて大きなハムがドンと皿に載っている。それと目玉が20個ぐらいもある目玉焼き。後は牛乳とコーヒーとバターとジャムとパン。女主人が「この目玉焼き、ウズラの卵です。料理は全部、自家製です」と説明する。
「おいおい、話が違うじゃないか」と思ったが、多田さんはまったく平然としている。「このハムすごいですね」「これウズラの卵ですか」などと言い、嬉しそうに食べ始める。僕も諦めて食べ始めた。たしかにハムは美味い。ウズラの卵の目玉焼きは珍味である。朝飯は食べないのが習慣になっているという杉田も分厚いハムを美味そうに食う。そしてお代わりをする。女主人が「たくさんありますから、どうぞどうぞ」と勧める。僕もお代わりする。たっぷりのコーヒーもお代わりし、満腹になる。そうしたら、えらく幸せな気分になった。シャケも海苔のことも忘れてしまった。
食後、こんどは女主人と旦那を入れての話に花が咲いた。鹿がよく捕れ、その肉が美味いこと。熊も出没し、撃ち殺した肉が冷蔵庫に入っていること。2メートルを超す大きな蛇が捕れたこと、アメリカで「温泉」の営業許可を取得するのに大変だったこと。この一帯は古くから開拓された歴史のあるところで、それに比べるとワシントンは新興開発地で、昔は、湿地のぬかるみで、馬糞とハエが溢れ、人の住めるようなところではなかったことなど、話は尽きない。
アヒルの進水式
話が一段落したところ、「今日はアヒルの進水式なのです」と女主人が切り出した。「アヒルの進水式?」と一同。アヒルの雛を買ってきて育てているが、大きくなったので池に放す。小さい頃は、直ぐに狐に襲われて食べられてしまうから小屋の中で飼っている。大きくなると、羽に油がまわり、水に沈まなくなり、池の中にいれば、狐にも襲われない。今日、アヒルを小屋から池まで一匹ずつ抱えていって、放すことにしている。たくさんいるので、手伝ってもらえないだろうか ――― だいたい、こんな話だった。
小屋と池は、目の前に広がる草原の奥の林を抜けたところにあるという。全体がどんなところか知りたかったし、食後の運動になるし、初めての経験で面白そうだし、一斉に「やりましょう」と叫んだ。
山小屋を出て、手入れの行き届いた草原 ――― 牧草地を横切り、森の小道を行く。木漏れ日が美しい。ちょっと汗ばむ。案内する女主人が言う。
「この辺りには泉がたくさんあります。この先にも『癒やしの泉』と呼ばれている泉があります」
飲んでも、水浴びしても身体に良いという。促されて手ですくって飲む。やや甘い、こくのある水である。コーヒーを入れるのに使うと、味が一段と引き立つという。説明を聞き終わって先へ進もうとしたら、付いてきた犬が泉に飛び込んだ。懸命に「良い子だから、出なさい」と女主人が言うのだが、はしゃいで出ようとしない。
数十年前まで農夫家族が住んでいたという廃屋も探検する。もう一同、林間学校の気分である。小枝を踏みしめ、草をかき分けながら先生の後に続く。
途中、別棟で「あひるの進水式」で服が汚れるからと、防水ジャンパーのようなものを着させられた。なかなか重装備である。
アヒルを小屋から出し、池まで追い立てれば終わるのだろうと軽く考え、面白がっていたけれど、どうもなかなか大変な作業のようある。それで「助っ人」として当てにしていたようだった。だが、もう引き返すわけにはいかない。
野生の鹿などに食べられないように柵をした菜園の横を通り、ようやく目的の飼育小屋に到着する。トラクターに乗って先に出かけていた旦那が準備を終えて、囲いの中に入り、群がるアヒルに囲まれて僕たちが到着するのを待っていた。
それを見て合点した。アヒルはでかい! 親ガモの後にヨチヨチ続く小ガモのようなものをイメージしていたが、まったく違う。まだ2ヶ月ぐらいだというけれど、立派な大きさである。これが「ガアガア、ガアガア」と叫びながら、柵の中を逃げ回っている。「さあ、1匹ずつ抱いて池まで運んで下さい」と女主人。順に小屋の中に入り、柵の中でアヒルを捕まえる旦那から、手渡しでアヒルを受け取り、それを抱えて50メートルぐらい離れたところの池まで行き、そこでアヒルを池の中に放り込む。
促されて小屋の中に入る。ムッと家畜の臭いが襲ってくる。身体を伸ばしたまま上目づかで見るウサギと目があった。まるまると肥えている。動きもせず、驚きもしないで、こいつが上目づかいで僕を見る。もう一晩泊まると食卓に載ることになるヤツかもしれない。観念している様子。まるで縫いぐるみのように可愛いのだけれど、やや不気味である。
気を取り直して旦那からアヒルを受け取った。ともかく「アヒルの進水式」を完了しなければならない。やってみると意外に大変だった。池に放り込んでも水が初めてなので、直ぐに陸に上がってきてしまう。上がってくるのを捕まえて、池に戻さなければならない。「しばらくすれば慣れるから」と指示され、根気よくやるしかなかった。杉田は、途中で、やや切れた。「この野郎、戻れってば!」とアヒル相手に怒り出す。そして池の縁に立って、監視と追い立てに熱中する。しかし、まだ半分も運んでいない。「さあ、早くやろう」と、アヒルを相手に怒る杉田を促す。
初めは「ザルで水を汲む」ような作業だと思ったけれど、だんだん池から逃げ出すアヒルが減ってきた。水に慣れてきたこと、仲間が増えてきて群れを作るようになったからである。最後の一匹を放り込んだころには、ほとんどのアヒルは気持ちよさそうに泳ぎ回るようになっていた。
元気にいくつかの群れを作り、ずっと前から池に住んでいるような雰囲気で泳ぐアヒルたちを見て、一同、「やった!」と無条件に感動する。もっとも、この感動の後には複雑な気持ちに襲われた。アヒルたちは、早晩、食卓に上がる。そのための「進水式」だからだ。飼育小屋にいた、上目づかいのウサギの眼差しが頭をよぎる。「ありがとうございます。助かりました。汗を流して下さい」という女主人の声で、アヒルの臭いが身体に染みついていることに気付いた。「温泉」で身体を洗い流し、「ワシントンの温泉」を後にした。「アパラチア山脈」麓の素晴らしいところだった。
ワシントンに戻り、多田さんが手配してくれた多田さんの事務所から徒歩数分のホテルでチェックインを済ます。それから気を取り直して、事務所を借り、ボストンからくるアメリカ人の友人を待った。仕事である。メールではやり取りは続けていたけれど、会うのは数年ぶりのである。数時間、2人で話し込んでしまった。話も弾み、仕事も無事に終えることができた。
もう夕食の時間だった。散策し、次の小説の一つの舞台となるワシントンを堪能してきたらしい杉田も戻ってきた。僕の関心は多田さんがワシントンで、どんなレストランに連れて行ってくれるかに移っている。腹も減っている。美味い食事とワインにありつきたかった。
ビルの合間のオープン・スペースのあるレストランが多田さん、お勧めのところだ。なかなか小綺麗である。夕闇が迫るなか、待ってましたとばかり、メニューを見ながらの食い物談義が始まった。結論は簡単である。いろいろ頼んでシェアするしかない。ワインの瓶が、どんどん空になる。そうしてワシントン最後の夜は更けて行った。
後日談 ・・・・・ 戻ってしばらくして多田さんからメールがあった。「温泉」からクレームが来たという。水漏れがあって大騒動になっているという。杉田がうっかりして部屋の洗面所から水を溢れさせ、タオルで拭いたけれど、それが下の部屋に浸みだしたというのが原因だった。ひたすら謝るしかない。一言、そのことを伝えておけば、騒動にならなかったのだろうけれど、黙っていたのがまずかった。やっぱり杉田は旅に出ると何か問題を引き起こす。
(2003年夏)