ぼちぼちいこか  都心の異変 PDF 

伴 勇貴 2002年11月 

「桑田変じて滄海となる」

「桑田変じて滄海となる」─── 中国、初唐の詩人、劉希夷(651~679年)の代表作「代悲白頭翁」の中の一節で、意味は「桑畑が青海原に変わるように、世の中の移り変わりが激しい」ということだ。高校時代に漢文の授業で教わったものだけれど、今でも、この部分と「年年歳歳 花相似たり 歳歳年年 人同じからず」というところだけは、頭の片隅に残っている。

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今年の都心の気候は異常続きだった。「ヒートアイランド」現象だと言えば、そうなのかも知れないけれど、夏は、まるで熱帯にいるようだった。夜になっても蒸し暑い30度を超える日々が続いた。そして「スコール」のような雨に頻繁に襲われた。本来は、すっきりとした「秋晴れ」で気分が良くなる9月、10月に入っても、あまり変わりはなかった。そして「参ったなあ」と思っていたら、突然、冷え込んだ。「秋」がなくて、一気に晩秋というか冬になってしまった。そして、11年ぶりだそうだが、12月にはかなりの雪も降った。

お陰で、僕の知る限り、今までで最高だと思う、今年は都心でも素晴らしい紅葉があちらこちらで楽しめた。とくに平日の早朝は最高だった。CMやテレビ・ドラマによく使われる絵画館前の銀杏いちょう並木や原宿・表参道のケヤキ並木はもちろんのこと、ニューオータニ裏の紀尾井坂きおいさかの銀杏並木や上智大学の横の土手の桜並木。あるいは明治記念館から迎賓館に抜ける権田原坂ごんだわらざかのトチノキの並木など、どこを見ても心がおどった。

都心はマンション建設ラッシュ

そんな風景を求め、近くをうろうろしていたら、都心に大きな異変が起きていることを実感した。慣れ親しんできた景観が、至る所で様変わりしつつある。フジテレビや国際展示場ビッグサイトなどのある東京湾の埋め立て地区の再開発、日本テレビの移転などを含むJRの汐留しおどめ操車場跡地の再開発、工場や倉庫跡地のマンション建設を中心とする江東区の再開発、防衛庁の移転に伴う六本木跡地の再開発、テレビ朝日の敷地を中心とする六本木・麻布地域の再開発などについては、すでにいろいろ報道されているが、それは氷山の一部の出来事で、あちらこちらでミニ開発が行われていた。それもほとんどがマンション建設だ。

かつての生活の拠点、麻布十番は、地下鉄開通に加えて、六本木ヒルズを中心とする大規模再開発プロジェクトの影響を受けて様変わりしてしまった。かつての僕たちの溜まり場だった「パティオ十番」広場に面していた「骨董屋」の喫茶店は姿を消していた。その反対側の、一等地にありながら一階の喫茶店が消えてからは幽霊ビルになっていた建物も取り壊されようとしている。その近くにあった行き付けの天麩羅てんぷら屋も、親父が急死した後、息子が継いでいたが、いつの間にかなくなっていた。「ピーコック」の裏の古い建物もなくなり、中層の高級マンションに生まれ変わっていた。

麻布十番商店街の変わり方は、もっとすごい。土日などは地図を片手の観光客などでごった返している。昔のように、休日にのんびりと散歩を楽しめる場所ではなくなっている。「豆源」、鯛焼きの「浪花屋」、「たぬき煎餅」、「永坂更級」、「更級堀井」、「登龍飯店」などは混み合い、ちょっと入りにくくなっている。

まだ焼き肉の「三幸園」やカステラの「白水堂」などの店は頑張っているようだが、その一方で、ちょっと気の利いたモノを置いていた洋服屋など普通の店がどんどん姿を消していた。そのほとんどが、ちょっとインテリアなどに凝った中華料理やラーメンやスパゲッティなどのチェーン店に代わっていた。コンビニや「マクドナルド」や「スターバックス」は言わずもがなだ。そんな店が、まるで昔から営業しているかのように幅を利かせていた。

もはや、とても「秘境」などとは呼べない地域になっている。

麻布の「鳥居坂下」の交差点に立つと、テレビ朝日の跡地を中心とする六本木・麻布地域の再開発で建設中の巨大なオフィスビルと高層マンション群が目に飛び込んでくる。

それら取り囲むように建設されているスーパーやレストランをはじめ多くのテナントが入ると予定という中層のビル群と相まって景観は一変していた。

交差点から麻布十番温泉の横を通って、「麻布十番通り」に出ても、「更級堀井」の方に目をやると、その背景に巨大なビルがそびえ立っている。これでは、とても昔の東京の下町の情緒に酔って浸っているような気持ちにはなれない。

そうそう、それが直接の原因だとは思わないが、先日、久しぶりに「更級堀井」に入ったところ、蕎麦そばつゆの味が別物になっていた。明らかに味が落ちていた。たぶん、一見いちげんの客で混み合うようになって堕落したのだろう。顔馴染かおなじみ女将おかみの姿もなかった。ちょっと入って蕎麦そばを喰う雰囲気ではなくなっていた。

「麻布十番通り」を横切り、静かな「暗闇坂くらやみさか」を登る。かつての散歩道だ。今年は一段とかえでの紅葉が綺麗だった。これを登り詰めたら、また工事現場にぶつかった。間もなく完成という異様な形状の高層マンションが目に飛び込んできた。

数億円の分譲マンションと月額200万円ぐらいの賃貸マンションだそうだ。このビルを取り囲むように低層マンション群も建てられていた。いずれも「暗闇坂」を登り詰めた「一本松坂」というなだらかな下り坂の途中にある。かつては寺院と中層の高級マンションが連なる緑の多い、静かで歩いていて気分の良い所だった。

こんな姿が都心のあちらこちらで見られるようになっている。突然、見慣れた風景が消滅し、巨大なビルが出現している。

曲垣平九郎が急な石段を馬で登ったという話で有名で、1925年(大正14年)日本最初のラジオ放送所が作られ、今は「放送博物館」がある「愛宕山あたごやま」の隣にも巨大ビルが2棟出現している。海抜26メートルの「愛宕山あたごやま」とは比較にならない高さで、「愛宕山あたごやま」の頂上にある古びた神社から眺め、何とも異様な感覚に襲われた。また、このビルの隣に真新しい寺院も出現していた。一帯は、昔、古びた家屋と寺院などがあった崖沿いところで、建設工事が行われていたのは知っていたが、こんなものが出来上がるとは思いもしなかった。

麻布から六本木トンネルを抜けたところを左折し、さらに右折すると青山墓地裏の道に出る。この通りも緑が深く、なかなか風情があって良いところだ。

しかし、この通りに沿ったところにも、巨大ビルが出現していた。紅葉の奥に、屋上で赤い大きなクレーンが動いている建設中のビルが否応なしに目に飛び込んできた。そして「青山通り」に出て右折し、「ホンダ」の本社のある青山一丁目の交差点を左折し、JR「信濃町駅」を右に、左に慶応大学病院を見ながら進むと、地下鉄「丸の内線」の「四谷三丁目駅」にたどり着く。

「信濃町駅」から「四谷三丁目駅」に抜ける道は長年にわたり拡幅工事が行われているところで、立ち退きもほぼ完了し、間もなく綺麗になるだろうと期待していたら、拡幅された通りの両側の一等地に某宗教団体の豪華な施設が相次いで姿を現し始めた。数年前から工事が行われており、何が出来るのかと思っていたら不況知らずの宗教団体の施設だった。

誰が入れるのか理解できない高級マンションが次々と建設され、我が物顔に見慣れた景観を変えつつあるのも、人々の不安感につけ込み、税制上の欠陥もあって、勢力を拡大する一方の宗教団体が次々と一等地に施設を増やしているのも、僕には不愉快なこと、この上ない。どうなっているのだと愚痴が出る。

大手企業所有の施設が相次いで消滅 

「四谷三丁目」の交差点に近づくと、正面に、また建設中の高層ビル群が見えてくる。フジテレビ跡地の再開発プロジェクトで、高層と中層の賃貸マンション6棟の建設が行われている。

この工事が始まった途端に、静かだった「市谷仲之町」は消えてしまった。江戸時代の地図でいうとフジテレビは松平佐渡守の屋敷のあたりにあった。その右隣、緑色にうすく塗りつぶした一区画が「市谷仲之市町」で、道などは今と同じである。江戸時代は「念仏坂」の町家など一線を画す武家屋敷だったことが分かる。

明治以降は、もっぱら新政権の高級官僚などの屋敷町に変貌し、さらに個人から官公庁と金融機関を中心とする大企業の手に渡り、ついこの間までは、それらの社宅、会館、倶楽部などの施設が軒を並べていた。それだけに静かなところだった。ところが、それらが相次いで姿を消し、その跡地にマンションが建設されるようになっており、何かと騒がしい一帯に変貌している。

似たような動きは市ヶ谷駅近くの「砂土原町」でも目立つ。ここも官公庁と金融機関を中心とする大手企業の社宅、会館、倶楽部などの施設が軒を並べていた地域だ。「市谷仲之町」と同様、こんな静かで、しかも便利なところが都心にも残っていたのかと思わせるところだ。

このところ少し古地図に凝っている。こんな変化を目の当たりにし、買い求めて読んだばかりの「江戸から東京へ 明治の東京───古地図で見る黎明期の東京」(人文社)の一節を思い出した。

維新直後の東京は諸大名が国元に去り、旗本・御家人が離散し、武家に生計を依存してきた町民層も困窮し、火の消えたような状況だった。江戸時代の最盛期には130万人に達していた人口は明治4年には58万人に激減した。市中の7割を占めていた武家地は荒廃し、山の手は昼間も女子1人歩きは危険だといわれたほどであった。

江戸から東京への変化の中で、武家屋敷のほとんどが解体されていった。大名屋敷のうち、中心部に近い地区のものは、官庁・学校・軍用地・皇族用地・新政府の高官の邸宅にあてられた。しかし、周辺部の大名屋敷は住む人もなく荒廃し、放置されるものが多かった。そこに輸出振興を狙って桑やお茶を植えようとする桑茶政策が第2代府知事大木喬任の手で実行された。武家屋敷は桑畑や茶畑に変身していった。

まさに「屋敷変じて桑田・茶畑になる」である。その中で、桑畑や茶畑になることから免れ、武家屋敷から屋敷、そして大企業の施設へと移り変わってきた「市谷仲之市町」一帯も、ついに怒濤どとうのようなマンション建設の波に飲み込まれようとしている。今、東京は、再び「江戸から東京」に変わった時に匹敵する時代を迎えているということの一つの証だろう。

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ところで冒頭の詩「代悲白頭翁」だが、岩波新書「新唐詩選」(吉川幸次郎・三好達治著)に載っていたことを思い出したが、本を入手するまでもなかった。念のためにとインターネット上で検索してみた。世の中、実に便利になったものだ。その全文を入手できた。意味も、とりあえず出ていた(ただし、意味は、僕なりに手を入れ、簡略にさせてもらったので、かなり、それとは違うのだが ── )。

 

洛陽城東桃李花 洛陽の町の桃とスモモの花盛りで、
 飛来飛去落誰家 その花びらが飛び交い、あちらこちらの家に落ちている
 洛陽女兒惜顔色 自分の容貌の衰えを気にする娘たちは、
 行逢落花長嘆息 散る花を見ては、容色の衰えと結びつけため息をついている
 今年花落顔色改 花が散るのと同じように、人の容貌も衰える
 明年花開復誰在 来年、また花は咲くだろうが、それを見られるかは分からない
 已見松柏摧為薪 松やヒノキは切り倒されて薪になるだろうし、
 更聞桑田変成海 桑畑が海になってしまうように世の移り変わりは早いのだ
 古人無復洛城東 昔、洛陽に住んでいた人はもうこの世にはいない
  今人還對落花風 それでも今、花吹雪の中に人はいる
 年年歳歳花相似 毎年、花は同じように咲いているが、
 歳歳年年人不同 それを見る人は同じ人だとは限らない
 寄言全盛紅顔子 青春真っ盛り若者たち、
 應憐半死白頭翁 だから、白髪頭の老人を他人事のように見てはならない
 此翁白頭眞可憐 今は見るからに憐れをさそうが、
 伊昔紅顔美少年 昔は紅顔の美少年だった
 公子王孫芳樹下 花咲く木の下で、
 清歌妙舞落花前 花吹雪の中で、歌い、踊っていた
 光禄池臺開錦繍 高価な錦の布を広げ、池のかたわらや
 将軍楼閣画神仙 豪華な楼閣で、宴に興じていた
 一朝臥病無相識 しかし、病に伏した後には、友達も来なくなり、
 三春行楽在誰邊 花が咲き競う春の行楽も無関係なものになってしまった
 宛轉蛾眉能幾時 いくら美人でも、いつまでも、その美しさを保てるものでない
 須臾鶴髪乱如絲 いずれ白髪になり、見苦しくなる
 但看古來歌舞地 昔、若者たちが歌い踊っていた所で
 惟有黄昏鳥雀悲 今は、小鳥や雀が、黄昏の中で、悲しく鳴いている

(2002年冬)