ぼちぼちいこか ニューオリンズ「フレンチ・クォーター」 PDF
伴 勇貴 2001年05月
センチメンタル・ジャーニー
「センチメンタル・ジャーニー」……… この曲を僕が初めて聞いたのは、多分、小学校から中学時代にかけてのことだったと思う。学校から戻ると、模型飛行機作りや無線機作り、顕微鏡での生物観察からフナやタナゴ釣り。さらには改造空気銃や様々な化学実験、その延長線上で爆薬作りやロケット打ち上げなどに熱中していた頃だ。その中の一つにラジオ製作があった。
小遣を貯め、小銭を握りしめ、秋葉原のジャック屋を悪友と歩き回り、部品を少しずつ買いそろえ、「模型とラジオ」とか「ラジオ製作」などの雑誌を見ながら、必死で自分のラジオを作る。それもどんどんエスカレートする。3球式を作ると、さらに5球式へと欲望は膨らむ。スピーカーも良いのが欲しくなる。となると自分で中古品を探し、それをベースに作るしかない。
何台のラジオやアンプを作ったことだろうか。そんなことに熱中している間に、雑誌に紹介されている回路設計に飽きたらず、いつの間にか電子回路も勉強し、回路設計も真空管ハンドブックを頼りに、ともかく出来るようになっていた。若いということは凄い力である。その理屈がきちんと理解できたのは、それから何年も経って大学に入ってからのことなのだが ……… 。
当時、そんなことを夜中までやっていて両親によく怒られた。問答無用で電気を消されてしまう。そうなると、諦めて自作のラジオで深夜放送を、それもせっかく作った大型のスピーカーではなく、ケーブルを延長したイヤホンで、布団に潜り込んで聴く以外なかった。
そんな時代に、ラジオから流れてきて、意味も歌手もよく分からないままに心に刻み込まれた曲の1つが、「センチメンタル・ジャーニー」だった。その切なく甘い歌声を聞きながら、いつの間にか眠っていた。
それがドリス・デイ(1922〜 )という歌手で、その名前と顔とが一致したのは、多分、大学に入ってからだったと思う。そのタイトルと何度となく出てくる「センチメンタル・ジャーニー」という言葉と、曲の感じから「感傷旅行」とか「傷心旅行」とかいうイメージが沸き上がり、粋がって1人カウンターでバーボンのオンザロックを手にしている時、この曲が流れてくると最高だったのを覚えている。
しかし、その英語が何となく聞き取れて、かつ実感できるようになったのは、もっと後で、勤めてからのことだ。
サンフランシスコ本社の米国企業に放り込まれ、日本人1人という状況で悪戦苦闘し、夜、近くのバーのカウンターで、1人仕事の後、よくバーボンウィスキー、「ワイルド・ターキー」とか「アーリー・タイムス」を飲んでいた頃だ。「ブラディー・メアリ」とか「オールド・ファッション」などのカクテルを覚えたのも、その頃のことだ。店の片隅に置いてあるジュークボックスにコインを入れ、気紛れに「センチメンタル・ジャーニー」を選んだ。その時、突然、この歌が全身で分かったような気がした。
もう、ほぼ30年前のことである。調べたら、1944年11月にドリス・ディが録音し、翌年に大ヒットした曲だという。第2次大戦が終結した年、遠い戦地に赴任していた兵士たちの望郷の気分に訴えたらしい。もともとは色恋とは無縁の曲だったようだ。ただ、そんなことは知らなかったものだから、長い間、これは失恋に絡んだ歌だと思っていた。
ニューオリンズの「フレンチ・クォーター」
その当時、仕事のついでに寄ったニューオリンズに、昨年7月に行った。ちょうど「SIGGRAPH2000」が開催されていたからだ。ほぼ30年ぶりである。それも38年間もつき合っている大学時代からの友人Kと一緒だった。文字通りの「センチメンタル・ジャーニー」だった。
小学生の頃の愛読書だった「ハックルベリーの冒険」の舞台のミシシッピー川を上り下りした外輪船の「ショーボート」───「東京ディズニーランド」で初めて乗った時ですら、年甲斐になくワクワクしてしまったヤツの本物の終着地がニューオリンズである。そしてジャズの発祥地でもある。行くと決めた途端に、ウキウキすると同時に、ジャズのスタンダード・ナンバーにもなっている、あのもの悲しい「センチメンタル・ジャーニー」のメロディーが頭に響いた。
ところで「SIGGRAPH」だけれど、これはACM(Association for Computing Machinery : アメリカ・コンピュータ学会)のコンピュータ・グラフィックス分科会のことで、Special Interest Group on Computer Graphicsの略。どちらかと言うと、「正統派」をはみ出した人たちの「思い」や「情念」の発露の場になっている、それだけに他では見られない奇抜なものに遭遇できる機会が多い ─── 過去に何度か行っているKからは、そんなことを聞かされていた。その彼と一緒に行くだけに、とても「センチメンタル・ジャーニー」では済みそうもなかった。
しかし、「SIGGRAPH2000」のシンボル・マークで、「2000」の最後の「0」の代わりに「三日月」印が使われており、それはニューオーリンズが、ミシシッピー川がメキシコ湾に流れ出す河口付近、川が蛇行して生まれた「三日月」状の土地に発達した都市で、「三日月」が市のシンボルになっていることに由来するなどということが分かっただけでも、心はウキウキしてしまった。
それに会場からは少し離れているダウンタウンのど真ん中、古い街並みの「フレンチ・クォーター」にあるホテルに宿泊することにしたのは大正解だった。展示会から戻ってくると、否応なしにエキゾチックな香りの漂う陽気でエキサイティングな街に、身も心も引きずり込まれた。会場の側の近代的なホテルに逗留していては、そうはなるまい。
ニューオールリンズについて調べてみると、その開拓はまずフランス人によって行われた。中心部は中世の典型的なフランスの村を模して街作りが行われた「古い正方形」という意味の「ブィユ・カレー」と呼ばれた地域だった。
それが今、「フレンチ・クォーター」と呼ばれる中心部の一画である。 その後、ニューオールリンズはスペインの統治下に入り、スペイン文化の影響を受ける。そんな歴史から、中心部は、レース細工の鉄柵を持つ漆喰塗りのスペイン風の建物、噴水や熱帯樹などのあるイタリア風の中庭、渦巻きの飾りを軒先に吊り下げたアーリー・アメリカン風の建物などが混じり独特の雰囲気を漂わせている。これも1936年、歴史的な文化財の保護と維持を目的とする委員会が設置され、それ以来、増改築などに厳しいガイドラインを設けるなど地道な努力が払われていることの賜らしいのだが、そんな規制のお陰で成り立っている街並みだなどいう堅苦しい雰囲気はまったく感じさせない。
派手なアダルト・ショップ、安っぽい酒場、歴史を感じさせる高級レストラン、瀟洒なたたずまいのホテル、老若男女の観光客を乗せて走る馬車、ファースト・フードのチェーン店、大きな音が外にまで流れてくるライブハウス、ガラクタで溢れる土産物屋、古風な看板と派手なネオンサイン、様々な人種あるいはその末裔であることを想像させる人たちの群など ─── 優雅さと低俗さ、古いものと新しいもの、そして異質なもの、何もかもがゴチャゴチャに攪拌され、それが独特の味わいを生みだしている。
その繁華街のメインストリートの「バーボンストリート」から1本、奧に入った通りに僕たちの宿泊先のホテルはあった。嘘のように静かで古風なたたずまいのこぢんまりしたホテルである。昔の人の知恵だろう、とくに冷房を効かしていないのに、別世界のように、ほどよい温度と湿度が保たれている。
両開きの窓を開け放ち、下を眺めるとイタリア風の小綺麗な中庭があった。誰も座ってないテーブルと椅子が手招きしてきた。
だが、Kとロビーで待ち合わせしていたので、その「招待」を断り、手早く荷物をほどき、展示会を歩き回って汗ばんだ身体にシャワーを浴び、すぐに部屋を出た。 スパイシーな「ガンボ料理」を食べ、それからジャズを聴きに行こう───もう、そのことしか頭にはなかった。
「ガンボ料理」───「ケイジャン料理」
白状すると「フレンチ・クォーター」に着いた途端に、「ガンボ料理」より先に思い出したことがある。青山の表参道にある「フレンチ・クォーター」というイタリア・レストランである。青山通りからうっそうと茂ったケヤキの巨木の並木が続く表参道を原宿駅に向かって下って行くと、今は暗渠になって路になっている隠田川と交差する。
そこの階段を下りたところにある小さな店である。僕が最初に行ったのは昭和53年の開業から間もない頃だった。最近はトレンディ・ドラマなどの格好の撮影スポットになって、すっかり有名らしいが、当時は本当に小粋で「通」のみが行く穴場だった。店のこと、柄にもなく、そんなところに通っていた当時の自分の生活ぶりを思い出して1人気恥ずかしくなってしまった。
だから友人Kには、そんなことを再び思い起こさせるような店ではなく、地場の雰囲気が漂う店で「ガンボ料理」を食べようと主張した。ホテルの案内係りに聞いた。リーズナブルな価格でスパイシーな旨い「ガンボ料理」を食べさせてくれる店で、しかも観光客で溢れているようなところではない、地元の人とたちが行くような店はないか、と訊ねた。
すると、それならホテルから歩いて数分のところにいい店があると教えてくれた。自分たちも時々、食べに行く店だという。それなら間違いあるまいと、名前を書いてもらい、念のために地図に印も付けてもらった。それを持って待っているとKがエレベーターから降りてきたので、直ちに出掛けた。
ところで余談。
友人Kだが、彼は、常日頃、300年は生きると豪語している。同じ年だから四捨五入すると60歳である。だが、エイリアン(異星人)なのだろ。外見が若いだけでなく、やることなすこと昔のままである。つい2年前まで、学生時代のズボンをはけると言っていた。それもジャンク・フードを食べながら恒常的に夜中に仕事をする生活をしていてなのだから信じられない。
そのKが、この10年あまり禁煙していたのに、また煙草をやり始めた。その際の発言がまたふるっていた。「お前と仕事を一緒にやり始めたからだ。これで俺の寿命は、30年は縮まった」とうそぶく。それでも270年は生きるつもりの計算になる。もともとチェーン・スモーカーだったくせにと思ったものの、声が出なかった。
そんなKだから、美味いものを食べたいから店を探してくれなどと頼んでも、まったく無意味なことは百も承知している。自分で探すしかない。うっかり頼もうなら「ジャンク・フードが身体に一番だ」などと言いかねない。しかし、その彼でも今回は直ちに「ガンボ料理」を食べに行くことに賛同した。ニューオリンズは、そのメッカと言われるからだった。
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「ガンボ料理」─── 調べると、いろいろ説明があった。しかし、その生い立ちは、南北戦争の時代に奴隷として強制労働させられていた黒人が雇い主の白人の目を盗んで彼らの残飯を巧みに加工した寄せ鍋のような料理で、当時のものは、決して美味いとは言えないものだったという説がもっとも真実味を帯びていた。ちなみに「ガンボ」とは、黒人がアフリカから持ち込んできた「オクラ」のことだという。だから「オクラ納豆」などは、実は立派な「ガンボ料理」だなどとふざけて書かれていた。
それはともかくとして、最初の黒人の雇い主は、カナダからニューオリンズなどに移り住んできたフランス人たち、いわゆる「ケイジァン」だった。「ケイジャン」という言葉そのものは、カナダ南東部のノヴァスコシアにあったフランス植民地のアケイディアに由来し、この地方からアメリカのルイジアナに移住したフランス人の子孫たちを「ケイジャン」と呼んだという。
だから、その残飯を使って奴隷の黒人が作った料理は、「ケイジャン」が好んで食べた胡椒、唐辛子、ニンニク、パプリカ、香草などスパイスが効いたものだったに違いない。今、口にする「ガンボ料理」は、それが洗練され、多様化したものだという説明は頷ける。魚介類を中心としたもの、鶏肉などを中心としたもの、野菜だけのもの、あるいは具たくさんのものや、スープだけのものなど、色も、どす黒いものから鮮やかなものまで実に多種多様で、この「ガンボ料理」がニューオリンズ発祥の「ケイジャン料理」の代表格になっている。
しかし、こうした真っ当な説明より、フランス系の移民が「ブイヤベース」を作ろうとし、スペイン系は辛いスパイスを加え、黒人はアフリカから持ってきたオクラを加え、インディアンは道端に茂っていたサッサフラスの木の葉を加えて出来上がったものが、実は「ガンボ料理」だという話の方が面白い。
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すっかり前置きが長くなってしまった。
こんなことを思い浮かべているうちに目指すレストランについた。小さなレストランだ。「予約はしていないのだけれど ……… 」と言ったところ、問題ないという。小おどりして中に入った。
薄暗く、席数も少なく、客もまばらだった。しかし、旨そうな店だと直感した。客が少ないのは時間が早いからだろう。何よりも客はいずれも常連客のようだった。街に溢れているTシャツ、短パン、スニーカーの3点セットの観光客風の人ではなかったのが気に入った。
気さくな下町風のウエイトレスがメニューを持ってきた。いろいろ書かれている説明がよく分からない。分からない単語がたくさん並んでいる。英語になると変身し、自称「明石家サンマ」というくらい、言葉が自然に連続して飛び出してくるKも、よく分からないという。訊いたのだけれど、その説明がまた分からない。で、ともかくスパイスの特に効いたものの中から、リスク分散のため、お互い別のものを注文することにした。